52t25
ローは、ラテン文字や、見たことのない絵文字を使いこなすことができるようだったから、もしかすると、異国の貴族であったりするのかもしれない。
私から言葉を聞いて発声し、身振りを交えて意味を教える。ローは地面にラテン文字と絵文字を書く。ラテン文字の使い方や文字自体を間違う事が時々あって、私はそれをローに一つづつ指摘する。
ローは毎日すごい速さで言葉を覚えていく。たった十日程度でウェスタ神殿の近くで目に映るものや、日常会話でよく使いそうな言葉は、一通り教えてしまった。
きちんと身につくにはまだ時間がかかるだろうけれども、ローの勤勉さを見ていると、ローマ人さながらにラテン語を使いこなすのも、そう遠い未来の話ではなさそうだと思えた。
可能な限り客観的に見て、ローはとても優秀だった。
ユリアが付きっきりで教えた。というのであれば、納得できそうなのだが、私という教師役があまり優秀ではないのだから、つまりはそういうことなのだろう。
勤勉ゆえに同じ失敗を繰り返さないし、知識を教わる事に慣れていて、学ぶことが大切なことだと知っている。何よりも知識を身につける方法を理解しているように思う。
かといって、ラテン語の勉強だけに集中するのではなく、テルティウスおじいさんの手伝いも万全にこなしている。私とは大違いの要領の良さだった。
私も、もっと頑張らなければ。
「お疲れ様。さあ寝なさい」
そう決意して、夜番明けの疲れた体と、上下の別がなくなりそうな瞼に気合を入れ、お気に入りのトゥニカに着替えようと思って寝室に戻ると、私を半眼で睨めつけるような表情のユリアが堂々と立っていた。
私は自分で考えているよりも寝ぼけていて、帰ってくる部屋を間違えたのだろうか。
だとすれば、とても恥ずかしい。今日まで十六年も生活している私たちの家。もう生家よりも長い時間をここで過ごしている。それも自分の寝室が一度決まれば、勤めを終えるまで変更はない。だというのに私というやつは、自分の寝室にも満足に帰ってくることができないのか。
「なんで青くなってるのか知らないけれど、ここはあなたの部屋で間違いないわよ?ほら、着替え手伝ってあげるから、すぐに寝なさい」
「なんでユリアがいるの」
私は、ユリアの言葉にぼんやりと不審なものを感じながらも、キトンを脱ぐのを手伝ってもらった。お礼を言うのもそこそこにして、トゥニカをユリアから受け取って手早く着替えを済ます。
そして自分の直感を信じ、そのまま部屋を出ようとしたところで、ユリアに手首をしっかりと掴まれてしまった。
身体的には万事控えめなユリアを引きずって、万が一にも転ばせたりして怪我をさせては大変なので、無理に逃げようとはしない。まったく羨ましいほど小さくて可愛らしい親友である。
「いい度胸ね、ティベリア。私から逃げられると思ってるわけ?」
私は、ユリアが妹達から頼りがいのある姉貴分として見てもらえるように、所作の一つ一つに気を使っていることを知っている。
表情に凄みを出すため、一人でこっそり練習していたことも、当然知っている。
そして、美の女神ウェヌスの末裔を自称する一族の娘だけあってか、ユリアはとても可愛らしい顔立ちをしている。その生まれついての顔が、外見的な凄みを出すことを不可能にしている。ということも。
まあ、ユリアは怒ると、顔とは関係なく怖い。付き合いがそれなりに長ければ、誰でも知っている。凄みは出ないが雰囲気はわかる。
「ユリア。顔が可愛い」
「そこは怖いじゃないの!?全然嬉しくないんですけど!?」
「しーっ!朝方に大声は迷惑だよ?」
「ぐっ」
私の言葉を聞いたユリアは、悔し気な表情になって、苦し気な息を吐いた。
良い流れだった。
自然な感じで、力の抜けたユリアの手を引っぺがし、別れる。
「じゃあ、あとでね」
「だから寝なさい。夜番だったんでしょ」
ユリアの、私に流されない力半端じゃない。今度は逆の手首をつかまれた。
「そんな時間はないわ。もうローが来るもの」
「なに?ローはあんたがそんなに頑張らないといけないほど覚えが悪いの?」
「そんなこと」
ある訳ない。
ローは優秀だ、教える私の力不足を感じるほどに。
「心配だもの。私がついてないと」
「ついてないとなに?」
「だってローは」
「あいつは放っておいても大丈夫よ。皆からの評判も上々でしょう?今更勝手に出ていくとも思えないし」
「そうだけど」
私の歯切れの悪い言葉を聞いたユリアは、明らかに呆れたような顔をした。
自分でもわかっている。
ただの子供っぽい独占欲なのだ。
覚えの良いローに頼ってもらえるのが嬉しくて、私が教えたことをどんどん覚えてくれるのが楽しくて、その機会をたった一度だって手放したくないと思っている。
私の心の底の方にある褒められない欲求は、簡単にきれいさっぱり無くなってはくれない。
初めからわかってはいた。別に私が頑張る必要はないのだろう。
ローには教養がある。ただ、ラテン語がわからないだけなのだ。自分一人だけでも、この状況をどうにかできるだけの素地があることは、疑いようがない。
「ティベリア。あんたが何を考えてるかは私にはさっぱりわからないけど、ローが心配だっていうのが本心なら、もう少しローのことを考えてあげたら?」
「どういう意味?」
少し言葉が荒っぽくなってしまった、と後悔したが、仕方がないことなのでは、と自己弁護する。
ユリアの言葉は、まるで私がローのことなんてお構いなしで自分勝手に行動している。と言っているように聞こえる。
そんなはずはない。私はローの役に立つために行動している。もちろん自分がやりたくてしているのだから、無欲な行いではないけれど、悪しざまに言われる覚えはなかった。
「もし、あんたが体調を崩しでもしたら、ローは嫌なんじゃないの?自分のせいだと思うかもしれない。自分の始めたことだから、ってティベリアが張り切るのはわかるけど、言葉を教える期限がどれくらいって決まっているわけでもないのに、体調と効率を天秤にかけるなんてやめなさい。ローだけじゃない、そのうち皆にも迷惑をかけることになるから。そうなったら一番責められるのは余所者のローなのよ」
言われて、初めて気が付く。
確かに、そうかもしれない。
私は、自分のしたいことばかりに考えを巡らせて、本心では、ローの事をないがしろにしていたのかもしれない。
少なからず、私が楽しいことに浮足立っていて、冷静でないことは間違いがなかった。
「そっか、そうかも」
私は確かに、ユリアが言ったようなことは、何も考えていなかった。ローのためと思っているつもりになって、優先していたのは自分の都合だけだった。
冷や水を、首筋から背中に向けて、そっとかけられたような気分だった。
笑顔で、真剣に、あなたのためだと言いながら、自分のことだけ考えている人。それが今の私だ。
ぞっとした。なんておぞましい自分勝手な女なのだろう。
ユリアが一言言いたくなるのも理解できる。
理解できてしまった。
「理解した?」
「うん」
「なら良し。さあ、寝ろ」
理屈も道理も理解はした。ユリアが私のことを心配してくれていることもわかって、嬉しい気持ちになる。
でも、やっぱり、その上で私はローの様子を確認したかった。
何かあるとは思わないけれど、テルティウスおじいさんが実の息子のように、ローの事を受け入れてくれたこともわかっているけれど、私はローの様子が見たかった。
ローは何も変わらないだろう。
いつものように、元気そうな様子で、灰色の不思議な服を着て、腰に黒い鞘のグラディウスを二本帯びているに違いない。
それを見て、安心したい。
少し、本当に少しだけ、顔を見る程度は許されるのではないか。
「でも、ローに何も言わずにっていうのは、ちょっと。その、むしろ心配かけちゃうかもだし」
これは私の勝手な願望だ。
そうだったら嬉しいな。という希望的で、利己的で、自分ではどうしようもない願いだ。
だから言葉には力がない。口にするのが、なんだか恥ずかしかった。でも私は、最後の悪あがきをした。
ユリアが相手だ。通用するとはとても思えないけれど、それでも私は言った。
「あんた、正気?」
「正気よ、寝ぼけてもいない」
「その顔で?」
どんな顔だろう。いつも通りの顔のはずである。ユリアに比べれば凡庸な顔だと思うけれど。
「目の下、ひどいクマよ?疲れが出たんじゃない?」
「嘘!?」
「まあ、その顔をローに見せてもいいなら、止めないわ」
「うそぉ、そんなにひどいの?どうしよう」
「どうするの?」
ユリアが、おかしな物を見たような、笑いをこらえるような顔をして言う。
そ、そんなにひどい顔なら、ローに心配されてしまうかもしれない。せっかく頑張ってラテン語を勉強しているのに、おかしなことに気を使わせて邪魔してしまうのも、なんだか申し訳ないし、単純に私のひどいらしい顔を人に見せるのもどうかと思う。
だから私は決心した。
「ユリア、私、寝るわ」
「はいはい、ローには私が伝えておくから、安心して寝てなさい」
私は素直に寝台に横になって、部屋から出ていくユリアの姿を眺めていた。
やはりユリアの言う通り、知らぬ間に疲れが溜まっていたのかもしれない。すぐに眠気がやってきて、瞼がくっついてしまいそうになる。
「ティベリア、クマがあるってのは嘘よ、安心して。おやすみなさい」
ユリアが、何か信じられないことを言ったような気がしたけれども、すでに意識の半分以上が眠りに落ちていた私には、よくわからなかった。




