48
随分と懐かしい夢を見た。間違いなく今までの人生で一番濃密だった一日の記憶。
はたして夢の中で夢を見る事があるのかと疑問に思うが、深く考えると先行きが不安すぎる現実に、いや、夢に押しつぶされそうになるので、気にしない、考えない。
いまいち状況が理解できないながらも、親切なご老人に連れられて、これまでのローマで最も豪勢な夕食をご馳走になり、寝床まで貸して貰った。
それが三日前の話である。
今日も俺はご老人に連れられて、家族か使用人かわからない男女二人に見送られ、ティベリアがいる石造りの立派な建物に向かっている。
今日までにわかった事はいくつかあった。
まずこの親切なご老人がテルティウス、という名前らしい事。同じ屋敷に住んでいるらしい家族か使用人かわからない二人やティベリアが、ご老人をそう言う風に呼んでいるので、まず間違いないだろうと思う。
次に、このテルティウスさんは、俺をあの屋敷に住まわせようとしている事。豪勢な夕食をご馳走になった次の日の早朝、すでに起きていたテルティウスさんになんとか感謝を伝えて、行動を開始しようとすると、こちらが申し訳なく感じるぐらい必死に引きとめられてしまった。
屋敷から出て行こうとすると引きとめられるのだから、間違いないだろう。
そして、テルティウスさんが俺に薪運びをして欲しいと考えている事。これはおそらくそうだろうと思う。
テルティウスさんは毎日必ず俺を連れて、ティベリアがいる建物に通い薪を割っている。それが仕事なのだろう。体を痛めている様子だから、薪運びだけでなく薪割りも俺がやろうとすると、これまた必死に止められてしまうので、薪運びだけをして欲しいのだろう。
食事と寝床の礼もしなければならない身としては、この程度の事ならいくらでも手伝う。しかし、いくらなんでもこれでは礼にならない。なにかきちんとしたお礼をしたい。
もう会う機会もなかろうと思っていたティベリアとは、普通に再会したので、なんだか気恥かしかった。今の所毎日顔を合わせていて、薪運びの合間にラテン語を教わっている。のだと思う。
身の回りにある物を指さして、聞き慣れない単語を聞く。音だけは適当な細い薪の切れっ端を拝借して、地面に片仮名でメモをし、それを口に出して反復する。
続けていくつかやると、ティベリアが何も言わずに物を指さす。それを思い出して答える。できるだけ地面に書いたメモは見ない。
間違えると、ティベリアは正しい言葉を何度も教えてくれるので、とても申し訳ない気持ちになる。外国語はすこぶる苦手なのだ。
だが正解すると、素晴らしい笑顔と喜び様を見せてくれるので、なんだかやる気が出る。
テルティウスさんが薪割りを終えて帰路につく前に、メモを見直して簡単に復習し、できるだけ早くラテン語を習得できるように努力する。
意思疎通ができるような段階ではないが、言葉を教えてくれる人がいるだけで、随分と安心できる。いずれは流暢にラテン語を駆使できるようになるかもしれない。
命を救って貰った上に、言葉まで教わってしまったなら、一体どのような方法で礼をすれば良いのだろうか。
寝ても覚めても夢から覚めないので、とりあえず生活基盤を構築し、可能ならば金を稼いで、ティベリアとテルティウスさんにお礼をしなければならない。日本に帰る方法を探すのはそれからだろう。
どうやってローマに来たのかがわからないので、当然帰る方法もわからない。
地理的にはローマと言えばイタリアの都市国家だったはずなので、ひたすら東に移動すれば、日本に近づく事はできるが、どう見ても現代のローマには見えないから、日本に向かう事に意味があるのか疑問である。
それに日本に向かうと仮定しても、日本は島国なので、海を渡らなければならない。大陸から日本に渡航するには、どの程度の船が必要なのだろうか。
車すら見かけないのだからエンジン付きの船など期待できそうにない。筏では不可能だろう。小さな小船では見るからに心許ない気がする。最低でも帆船程度の規模が必要だと思うのだが、船など操った事は無いし、船や船乗りを用意する金も伝手もない。
そもそも、中国周辺まで移動できる保証もない。ローマから日本まで直線距離で何千キロメートルあるのかすら、俺は知らないし、中国語だって全くわからない。
日本に戻る事を諦めるつもりは毛頭ないけれども、ローマに骨を埋める覚悟も、その内必要になるかもしれなかった。
そうなれば、心配なのは家の事である。
余命一年を宣告された母の事が、一番の心配事である事は間違いない。
母親の余命を、俺が居なくなるという心労のせいで削ってしまってはいないだろうか。
それに、ローマに来てすでに数日。俺はどういう扱いになっているのだろうか、よもや結婚が嫌で逃げ出したと思われてはいないだろうか。それは嫌すぎる。
確かに現実逃避じみた事はしたけれども、そんな事までする奴だったのかとは思われたくない。
いや、そんな事よりも、父さんはきちんと食事をとれているのだろうか。家事ができない訳ではないから、心配しなくても大丈夫だろうか。
勇姫にも心配をかけているだろう、負う必要のない罪悪感を押しつけているかもしれない。可能なら、俺が居なくなったのは勇姫に全く関係のない事だと伝えたい。
そう言えば川上さんが家に来るという話も忘れていた。まあ、俺が行方不明なのでどうにもならないか。いろんな人に迷惑をかけているに違いない。
全部夢だったら。うれしい。目覚めたら見慣れた古い我が家に居る。それが理想である。




