15t5
それは不思議な格好をした人だった。
水にぬれた艶やかな黒髪、ローマ人よりも明るい肌色、不思議な灰の様な色をした見た事が無い服装。
腰にある黒い筒は一体何だろう。
いや、そんな事よりも、この人は無事だろうか。
顔色はうつ伏せの状態で髪の毛が顔にかかっていて窺えない。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけても返事は無い。
肩を揺らしてみても、反応が無い。
頬に触れてみれば、温かみがある。
とりあえず、死人ではないようなので安心した。安心したせいか、私は少し冷静さを取り戻していた。
でも、おかしい。
ティベリーナ島は、テヴェレ川の増水や氾濫から保護する為に船形に整備されている。
ここはティベリーナ島の下流端なのだが、川の流れが渦巻くことは無い場所だ。
人が流れ着く場所ではない。
上流から流されてきたのであれば、必ず上流端に流れつかなければ、おかしい。
それこそイチジクの木がこの人が流されないように捕まえでもしない限りは。
またしても湧きでてきた幼い興奮が胸の中を占めていく感じがした。
「ティベリア様!一人で走って行かれては困ります!」
その興奮も、後ろから私の護衛として付いてきてくれていたリクトルの二人が慌てた様子で駆け寄ってきた事によって、跡形もなく消え去ってしまった。
「ごめんなさい。人が倒れているようだったから」
「今後は、この様な事のないようにお願い致します。万が一にも何かあっては困ります」
確かに、なりふり構わず駆けると言うのは、ウェスタの巫女として相応しくない行動だったかもしれない。
でも、困っている人を見て見ぬふりをする。と言うのもまた、ウェスタの巫女としては相応しくない。と、私は確信している。
「こちらの方を治療院に運びます。手伝って下さいますか?」
全てのローマ人の母である。と信じられているウェスタの巫女が命令をすれば、大抵の人はその通りにしてくれる。だが私は、命令する。と言う行為が好きではなかった。
私が命令する。と言う事は、人々の純粋な信仰を、ウェスタと巫女たちに向けられた尊敬を、自らの為に利用すると言う事に他ならないのではないだろうか。という思いがあったからだ。
それに彼らリクトルの仕事は、ウェスタの巫女の護衛であって、小間使いではない。
だから、自分一人でも治療院までこの人を連れて行く。という覚悟を持って彼らに尋ねた。
「途中で目を覚ますかも知れません。ティベリア様は少し離れていてください。我々で運びます」
「いえ、私が言いだした事ですから」
「いけません。危険があるかもしれませんので」
一人が倒れている人をさっと背負って歩き出す。もう一人は剣の柄を掴んで、歩き出したリクトルの人と私との間に入った。
「くそ、やけに重いな」
「服が水を吸っているせいじゃないか?」
「ああ、そうか。そうかもな」
そういう会話をするリクトルの人たちの後ろを、私は申し訳ない気持ちになってついて行った。彼らの様子を見る限り、私一人では倒れていた人を満足に運ぶ事も出来なかっただろうから。
幸い、と言っていいのか、治療院は文字通り目と鼻の先にある。
治療院に到着して顔見知りの神官医師に事情を説明すると、日当たりのよい寝台を一つ借りる事が出来たので、倒れていた人をそこに寝かせて貰い、その時初めて私は彼の顔を見る事が出来た。
不思議な感じのする、見た事のない顔だった。
彫が浅く、あどけなさの残る顔つきで、どう見てもローマ人ではない。
年齢はおそらく、二十歳に届かないくらいではないだろうか。
その割に体格は立派なものだった、当たり前のローマ人よりも背が高いように見えるし、細身だがしっかりと筋肉がついている。
剣闘に並々ならぬ関心を持つユリアが見たら、喜びそうな男性だった。
「ティベリア殿、どんな様子かの」
「ルキウス様」
優しげな声をかけながら傍に来てくれたのは、ルキウス・コルネリウス・マグヌム様だった。腰が曲がり始めているものの、人の良い笑顔を絶やさないこの老人は、この治療院を管理する神官医師長である。
「ローマ一の名医に来ていただけるなんて」
「なに、皆遠慮してわしを呼んでくれんのでな、暇なんじゃ」
どれ、と前置きして、横になっている彼の体のあちこちを触ってみたり、遠慮なく服をめくって覗きこんでみたりしている。私には、それがどんな意味があるのが良くわからない。
「ふむ、この筒はなんじゃ?」
しゅら、と小さく音がして、黒い筒が伸びた。
「おお、グラディウスであったか。しかし見た事のないグラディウスじゃのう。ふむ、これは邪魔じゃな、外してしまうか」
ルキウス様は、長さの異なる二本のグラディウスを帯紐から抜き去って、彼の頭の上の方に並べて置く。
体の下に腕を差し込んで、彼を仰向けからうつ伏せになるようにひっくり返す。老人とは思えない力強さであった。
先ほどと同じように、あちこち触れては、うん、とか、ふむ、とか言ってから、うつ伏せになった彼をまたひっくり返した。
「怪我をしている様子は無い。血色も良いし、病気をしている訳でもなさそうじゃが。そうじゃな、このまま天日干ししておけば問題あるまい。ここまで乱暴にさわっても目覚めないのは気になるが、まあ、その内に目覚めるじゃろう」
「ああ、安心しました」
「ではティベリア殿、この者は誰かが時折様子を見るように伝えておく、一緒にアスクレピオス様に祈りを捧げに行こうかの」
「はい、よろしくお願いします」
妙な事になった。と私は思った。
ルキウス様は、治療院の責任者であり、ローマ一の名医と名高い人であるが、その実、医療の神アスクレピオスを信仰してはいないはずなのだ。
私がテヴェレ川を眺めるのを日課にし始めたのは、自由な時間が多くとれる一人立ち直後の事で、初めてこの治療院に訪れてから今日までの五年間、ただの一度も祭壇で祈りを捧げるルキウス様を見た覚えが無い。
信心深さとは無縁の極めて実際的なお人柄で、神に祈るよりも患者を見よ。と若い神官医師たちに指導している所は何度も見かけている。
そんなルキウス様が私に、一緒にアスクレピオス様に祈りを捧げに行こうと呼びかけるのは、不自然な事に違いなかった。
「おお、ちょうど良い。コルネリア、勤めの合間で良いから、この患者の様子を時折見ていておくれ。もし彼が目を覚ましたら、必ず、すぐに、わしに知らせるようにな。皆にも伝えておいてくれ」
コルネリア様はルキウス様の実の娘で、女性の身でありながら神官医師として治療院で勤めている。
ルキウス様は男女の別なく才能の有る者しか弟子に取らないともっぱらの噂で、高位の神官の中では変わり者としても有名である。
コルネリア様は微笑みながら頷くと、休みなく動いている他の神官医師たち歩み寄り、その旨を伝えているようだ。
「では行こうかの、リクトルのお二人は退屈じゃろうから、とりあえず服を乾かしてきてはいかがかな?ティベリア殿の身の安全は、わしが責任を持って保障しよう。ここで何かをしでかす者もおらんじゃろうしの」
「承知いたしました。では我々はお祈りの邪魔にならぬように正面階段の所で待機しております。ティベリア様、お帰りの際は必ず我らにお声をかけて下さるようにお願いいたします」
「ええ、分かりました」
リクトルの二人が私とルキウス様に一礼してから背を向け、大部屋を出ていく。それについて行くようにして私たちも大部屋を出て祭壇前の広間へと移動し、ルキウス様が祭壇の正面で立ち止まる。
リクトルの二人が、先ほどの言葉通り、正面階段の方へ向かったのを確かめている様子だった。
「二人には退屈な時間かと思うが、まあ、仕方あるまい。ティベリア殿、こちらに」
そう言って祭壇の前を通り過ぎ、治療院でも人通りのない、奥まった部屋へと案内される。
「さ、中へ。ここはわしが書類仕事を行う場所じゃ、壁が厚いので声が外に漏れる心配が無い」
「はい、失礼します」
声が漏れる事を心配するなんて、何か余程重大な話があるに違いない。
ルキウス様は先んじて部屋に入り、木製の長椅子に腰かけた。
「ティベリア殿は少々軽率に過ぎるようですな」
見た事が無い様な険しい表情をしたルキウス様がそこに居た。
私が言葉を探していると、ルキウス様は私の言葉を待たずに続けて言った。
「ローマの民は皆、ウェスタの巫女に最大の敬意と親愛の情を持ち合わせております」
「はい、とても喜ばしい事です」
「そのとおり。家庭を守護するウェスタの加護を皆が望んでいると言う事は大変喜ばしい。当然の事だが、ウェスタの巫女に傷を負わせた者は死罪とする。とローマ法に明記されている事を我らローマの民は知っている」
私は入口の前で立ったままルキウス様の堅い言葉を聞いた。
座るように促される事もなく話が始まってしまったので、まるでお説教を受けている様な気分になった。
「ですが、それはローマで生まれ育った民に限った事。異民族や、ローマ法を気にも留めない無法者が少なからず居るのもまたローマの現状。あなたは、その事を今一度しっかりと認識した方がよろしい」
いや、これは紛れもなくお説教だった。
「セルウィウス城壁の内側であれば、古くからローマに住まう民がほとんどでしょうし、皇帝の権威も隅々まで行き届いているでしょうから、さほど気にする事はありません。しかしここは第九区と第十四区の狭間にある場所。第九区はまだ良いが、第十四区はいけません。あそこは異民族の巣窟です。富を得ることしか考えていない様な連中や、ローマの歴史をないがしろにし、自らの教えこそが至上とうそぶく宗教家が山ほど住んでいるのです。あなたはそんな危険な区画に沿って流れているテヴェレ川から、見ず知らずの、見るからに不審な格好をした男を拾ってきた。自らの立場を軽視し過ぎている証拠です。今、このローマで、あの男以上にあなたを害する可能性が高い男は他に居ないでしょう。あの体つき、あのグラディウスを見ましたか?どう見てもローマ人ではないし、首輪や腕輪もないから、どこからか逃げてきた奴隷とも思えない。つまり、あの男はローマ法を知らない可能性がある。もしあの男があなたを害する存在だったなら、一体どうするつもりだったのです」
「でも」
「話は最後まで聞きなさい。わしも医者のはしくれだから、人助けをするなといわんよ。金にがめつかろうが、おかしな宗教を広めていようが、明らかに怪しい男だろうがなんだろうが、怪我や病に苦しんでいる者がいたならば、わしも助けようとするじゃろう。それを悪いことだとは言わん。だがの、あまり周りの者に心配させないでおくれ。わしはすでに老い先短いが、お前さんは違う。若い娘だ。お前さんに、もしもの事があればローマの人々はどう思う、ウェスタ神殿の者たちはどう思う、ご両親はどう思う、治療院でお前さんと会って話をするのを楽しみにしている者が、どれほどいるかは知っておろう?」
普段よりも一層優しげなルキウス様の言葉に、私はすっかり打ちのめされてしまった。
そんな事、彼を見つけた時には考えもしなかったのだ。子供じみた興奮に身を委ねてしまっていて、ウェスタの巫女としての私はきっと居なかったに違いない。
ろくに考えもせずに行動してしまうのは、幼い頃からの私の悪癖だった。その事で、数え切れないほど叱られてきたというのに、私と言う人間は六歳の頃からまったく進歩していないらしかった。
これでは、一人立ちしたウェスタの巫女として、あまりに情けないではないか。
そう思うと、言葉の一つも口にする事が出来なかった。
だから私はうつむいて、これからどうすれば良いのかを考えた。
見ず知らずの男を拾って来てしまった。と言う事は今さらどうにもできない事だった。
昔、猫を拾って帰った時に言われたように、捨ててくる訳にもいかない。まあ、その時も隠れて猫を飼う事にしたのだが。
ちがう、そうではない。
流石に猫と人は違う。隠れて世話ができるとは思えない。どこかに住処を用意して、食事の世話をする。なんて、私だけで出来るとは到底思えない。
だが、川の中州に流れ着く、なんて事は尋常な事とも思えない。
きっと彼には誰かの助けが必要になるはずだ。
身一つとグラディウス二本しか持っていない彼は、仕事を探したり、住処を探したり、とにかくそういう事を求めるはずなのだから。
拾ってしまった責任を果たせる様に、彼の力になろう。と決めた。
「彼が目を覚ましたら、事情を尋ねても構いませんか?」
「このまま帰る、という考えにはならない所が実にお前さんらしいのう」
ルキウス様はあきれた様な声色で苦笑しながら言った。
「あ、そうですね、考えつきませんでした。そうした方が良いのでしょうか」
私は先ほど、まさにそういう所を叱られたばかりだと言うのに、都合の悪い事をほとんど考えず、自分にとって都合の良いようにしか考える事が出来ないでいる。これではいけない。と反省する。
だが、途中で責任を放りだすような事はしたくない。と言うのが私の本心だった。
「彼が危険な人物ではない。と言う事が分かれば、構わんじゃろう。問題とすべき事はウェスタの巫女であるお前さんの身の安全じゃからのう。彼が目を覚ましたら、まずはわしが話を聞こう。彼が暴れるようなら兵士に出張ってきて貰うしかないじゃろうが、そうならなければ、大丈夫じゃろ。いつ目を覚ますかは分からんが」
「お手間をおかけして申し訳ありません」
「構わんよ、さっきはわしもローマの市民として厳しい事を言ったが、内心こんな事になるんじゃないかと思っておったからのう。まあ、座りなさい。何か飲み物でも用意しよう」
二人で苦笑し合っていると、コルネリア様が小走りでやってきた。
彼女の落ち着きのない様子はとても珍しい。
勧められるがままルキウス様の向かいに座ったが、なにかあったのではないかと不安に感じて、私まで落ち着かない気分になってしまった。
「患者が目を覚ましました。あの」
「よい、すぐに行く。ティベリア殿、約束通り、ここで待っていてくだされ」
そう言って二人はさっと歩き去ってしまった。
彼が目を覚ました。
コルネリア様は確かにそう言った。
よかった。
早く会って話をしてみたい。
気分がそわそわそわそわ落ち着かない。
私はもう一秒だって椅子に座っている事が出来なくなっていた。
ルキウス様と約束したのだから、私がこの部屋を出る事は出来ない。
きっと彼は危険な人物なんかではないはずだ。
大丈夫、きっと私と彼は顔を合わせて言葉を交わす事が出来る。
そう信じて、私はルキウス様が帰ってくるのを部屋中をうろうろしながら待っていた。
五月二十二日、加筆修正