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そう、全て明日の剣闘観戦が良くないのだ。
朝から着るのも面倒なキトンを、いや、やめよう。
とにかく、好ましく思っていない事を行わなければならない、と言う精神的負荷が良くない働きをしている。
剣闘士はそれが仕事なのだから、私が剣闘を好ましく思っていなくても何の関係も無いと言う事は分かっている。
ただの言いがかりでしかない。そういう事をしてはいけないのだと、自分に言い聞かせる。
気分を切り替える必要があった。
そのためにもティベリーナ島に向かう。
あそこには治療院がある。今の私には静かで、気分的に落ち着ける場所が必要なのだ。
セルウィウス城壁の西端、カルメンタリスの城門を抜ける。
城壁と言っても、外へ外へと拡張を続けるローマは、このセルウィウス城壁からすっかりはみ出している。見上げるほどに高く分厚い城壁はこんなにも立派だと言うのに実際に使用されたのは、カルタゴのハンニバル将軍がローマに迫った時が最後だったと言うから、実に二百年以上も本来の目的で使用されていないと言う事になる。
城門には見張りの兵士が立ち、詰め所はあるものの往来を制限される事はほとんど無い。
セルウィウス城壁を抜けてしまえば、目的地のティベリーナ島が視界に入る。
ティベリーナ島はテヴェレ川にある唯一の中州で、巨大なイチジクの木に覆われた治療院がとても神秘的だ。治療院を覆い隠すように立っているイチジクにはティベリーナ島が聖域として認められるに相応しい伝承が残っている。
自らの兄である先王を失墜させ、自らが王位についた弟王は、先王の一人娘であるレア・シルウィアが軍神マルスとの間に設けたロムルスとレムスという双子が、やがて自分から王位を奪うに違いない。と考え、双子を殺すように指示した。
しかし、双子を殺す役目を任された騎士が幼い双子の事を剣で突き殺すのは哀れに思って、籠に入れてテヴェレ川に流した。
双子が乗った籠はゆっくりとテヴェレ川を下って、やがてティベリーナ島に差しかかった。全ての成り行きを見ていた慈悲深いテヴェレ川の精霊ティベリーヌスは、ティベリーナ島で同時に芽吹き、事あるごとにいがみ合っていたせいで、実をつける事を禁じられていた二株の若いイチジクの木にこう言った。
『お前たちが今までの行動を改め、その双子を助けたなら、私はお前たちに千年も実をつけさせる事が出来る』
それを聞いたイチジクたちは、自分こそが双子を助け千年の実りを得るのだ。と息巻いて、双子の乗せられた籠を捕まえようと必死に枝葉を伸ばして籠を捕まえてみるが、若く細い枝葉では籠の重さに負けてしまい、どうにも上手くいかない。
このままでは双子を乗せた籠は下流へと流れていってしまい、枝葉が届かなくなってしまう。
どうしても千年の実りを諦めたくなかったイチジクたちは、今までいがみ合っていた事すら忘れて協力し、ついに籠を捕まえた。
イチジクたちは嬉しさのあまり、お互いの幹と幹を絡み合わせて互いの健闘をたたえ合った。
それを見たティベリーヌスはこう言った。
『お前たちがそうしている限り、私はこれから千年お前たちに実を授ける事を約束しよう』
そうしてまるで一本のようになったイチジクの木は、一層競い合うように大きく広く枝を伸ばし続けるようになったが、再び二本に別れようとはしなかった。
その二本が一本になったイチジクが、今もティベリーナ島にはあるのだ。治療院を覆い隠すように茂っている巨大なイチジクこそが、ローマ最初の王ロムルスとその弟レムスの乗った籠をローマに引きとめたイチジクなのである。
つまり極端な理解をすれば、あのイチジクが無ければローマと言う国は生まれなかったのかもしれないのだ。ティベリーナ島こそが、ローマ始まりの地である。とすれば聖地と定めるのも納得できる話だった。
もちろん本来の建国神話とは少し違う所がある。これは子供たちに言って聞かせるために生まれたと思われる伝承か寓話の一節であるけれど、私はこの話の方が夢があって好きだった。
まるで二本が一本に捻じれた様な太い幹が、伝承の通りの由来なのか、たまたま偶然そのように捻じれた一本のイチジクなのかは分からない。たまたま大きく育ったイチジクが、この場にあっただけだ。と言われた方がずっと現実的ではある。
でもこれほど巨大なイチジクを目にすれば、何か人の想像も及ばない様な、まさに神秘的な現実が、過去にはありえたのではないか。と思ってしまう。
だから、それを見つけた時に、私はそんな事を思っていたせいもあってか、酷く胸が高鳴ったのを確かに感じた。
それは、城門側からティベリーナ島にかかるケスティウス橋の中ごろに差しかかった時に視界に入った。
それは、茶色く濁るテヴェレ川の中から、ぽっかりと浮いてきた様な黒色。
それは、きっと本当ならこの場には存在しないもの。
まるで、神話から流れ着いたロムルスとレムスの様な。
急に子供に戻ってしまったような感覚に陥った。
さっきまで年甲斐もなく泣いてしまった事などすっかり忘れて、ただ一心にそれを目がけて駆け出した。
五月二十二日、加筆修正