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中学生の頃は「高校生になれば当たり前のように彼女ができて楽しい学校生活を送るものだ」と思っていたし、高校生の頃は「大学生はサークルにバイトにと楽しい日々を送るものだ」と思っていた。
もちろん、そんなものは自然とはやってくるものではなく、当人の資質や努力によって初めて得るものなのだと気づいてはいても期待をしてしまう。
だからと言って自分の中にそれほど熱いものがあって、恋だの愛だのに真っ直ぐぶつかっていくようなタイプではない。片手で数えられるほどしかしたことのない恋だが、その全てが何もしなかったり、受け身だったりで終わってしまっている。
それを考えると、絵の中の「あの子」にかけていた情熱は自分の中では特別なもので、これを恋でないというにはあまりにも心を絞めつけ過ぎた。
絵の中の女の子に恋をするなど冗談としか思われないだろう。だが、まぎれもなくそれは恋だった。
そう今は既に過去の話。
終わった恋というわけではない。悲恋でも未練でもない。
気持ちの整理がついたというだけの話。
あの日、戸田先輩に、あの子の生みの親に言葉を伝えた時から自分の中にあった感情がどういったものであったか理解できるようになった。
俺にとっては必要な一歩だった。
週に三回はこの部室に足を運ぶ。
そして、彼女を眺める。
「前に区切りがついたとか言っていたのは嘘だったのかい?」
昨日、戸田先輩には言われた。
確かにこの恋に区切りは付けた。
前のような慕情を持って絵を眺める時間はかなり減った。ゼロにはならない。昔好きだった人をどこかそういう目で見てしまうような、未練というわけではないが、簡単に割り切れるものではないのだ。
少しだけ絵も描けるようになった。
彼女に会って以降、枯れていた意欲が再び戻って来た。
おそらく恋に使われていた情熱は「絵を描く」ことへのエネルギーから賄われていたのだろう。つまり、その二つは根本的に同じものから来ていたということだ。
鞄から筆箱とクロッキーブックを取り出す。普段、授業を受けている時に使っているものとは別の筆箱で、こちらにはシャープペンシルを入れていないし、消しゴムは練りゴムだ。
大学に入ってからしばらく描いていなかったので、リハビリを兼ねてデッサンを来るたびにしている。基本的に題材は部室にある何か。今日はおいてあった石膏像。
ほんの少し絵から離れていただけのつもりだったが、思っていたよりも鈍っていた感覚とイメージとの差が邪魔をする。
部室の扉が開く音がして、誰かが部屋に入って来る。
挨拶をしようとするよりも早く、その人物は俺の手元をのぞき込んで言う。
「絵を描いてるところ初めて見た。」
「俺だってたまには絵を描くさ。」
「スランプはもうどこかに行ったの?」
「ようやく意欲が湧いてきたところ。」
挨拶をする必要はなかった。先ほどまで同じ教室にいた人物だったから。接近された時の匂いが彼女だと教えてくれた。
芹沢は鞄を置くと、俺の横に座る。
狭くない部室の中で自分の存在を主張するように、彼女はそこを選んだような気がした。
視線を感じながらもデッサンを続ける。
描いている工程を覗かれるのはあまり好きではなかった。
まだ服を着ていない裸の自分がそこにはいるから。
「なんで朝居は絵を描くの?」
しばらくして彼女はそう問う。
声をかけらえて振り向いた時に目が合った。
まるでそれを聞くためだけにこの部屋にやって来たかのような真剣なまなざしが俺を捉える。
芹沢千夏という人間はこんな目をしていただろうか。
愛らしい顔立ちからは浮いてしまうような眼。それだけの強い意志を彼女の瞳は映していた。
その目が見据えているのは何か。
「好きだからな。」
少し考えて出た答えは自分でも驚くくらいにシンプルなものだった。
その一言が全てだった。
「苦しくないの?」
「苦しいよ。苦しくても、時に辛くても、自分の手で世界を切り取ったり、心の中に在る何かを生み出せた時の喜びを考えたら、そんなことどうでもよくなるんだ。自分が作った何かがそこにはあるんだって思うと次へ次へと足を踏み出せるからね。」
他人が生み出した何かに心震える時もある。
自分よりも優れた者の作品に嫉妬する時もある。
「溺れそうでも?」
「溺れてるんだよ。ずっと。手探りなんだ。何も見えない暗い海の底にいるみたいな。」
時折射す光をいつまでも探している。
「飲まれそうでも?」
「まだ飲まれていない。そこまでの才能がないんだ。だから、絵の中に飲まれた人に憧れる。」
「叶わない恋があっても?」
「それは―。」
一瞬、言葉を詰まらせる。
少し前までの自分ならばそれに答えられなかっただろう。
そこで止まっていたから絵が描けなくなってしまった。
絵の中に少女に恋をしたのは、自分よりもはるかに優れた何かを見せられたから。探していた答えがそこにある気がして、「彼女」が正しい気がしたから。
俺自身もその絵の中に在れば、彼女と同じ世界に居られれば、自分がわかる気がした。
もしくは逆なのかもしれない。
彼女の世界は絵の外に在り、俺たちがそれに飲み込まれてしまっただけなのかもしれない。
どちらにせよ、俺は世界の違うものに恋をしたのではなく、その絵と同じ世界に在りたいと願うがゆえに好きになれたのだ。
だから、俺の答えは―。
「それは、叶わない恋じゃない。叶えてはいけない恋なんだ。そして叶えるべき恋なんだ。」
「そっか。」
「そうだよ。少なくとも今はそう思っている。」
憧れは遠くにあるから追いかけられる。
それに近づいてしまえば現実になり、手に入れれば当たり前になる。
この恋はそれに似ていた。
「ありがとう。」
「なんで?」
「私も前に進める気がしたから。」
そう言って笑う彼女は、今まで見た中でも一番晴れた顔をしていた。
どこか物憂げな「彼女」と対照的な表情。
「朝居。」
俺の名を呼ぶ彼女の声は少し震えていた。
「なに?」
「差し当たって、というと変だけど。」
それから一息吸って、頬にほんのりと朱を差して、芹沢は告げた。
「今週の土曜日、私とデートしない?」




