7-①
芹沢千夏という女は昔からタイミングの悪い人間だった。本人がそういうつもりで何か行動をしている結果というわけではないことがほとんどなので。運が悪いと言い換えてもいいかもしれない。
その間の悪さというのは最終的に彼女にとっては悪い方に働くものではないことが多いので当人にはそう言った自覚がないかもしれないが、周りの人からしてみればそうであることには変わりがない。
今日の件もそうだ。
活動のない月曜日で、それも三限終わりや四限終わりと言ったちょうどいい時間ではなく十七時という中途半端な時間に部室に入って来るなどそう簡単にタイミングが合うものではない。
四限目の授業が終わった後、学校の購買にある本屋に今日発売の文庫本を買いに行ってから気が向いたので部室まで足を運んだだけ。通学中に持っていた文庫本を読み終え、帰りの電車の中で読む本が欲しかった。彼女にとってはそれだけだ。
「お疲れ様です。」
芹沢はもう慣れたかのように部室の扉を開け、挨拶をする。
部長である久嶋、会計の伊勢、そして彼女と同じ新入生の杉下。そんなに広くはない部室だ。一目で誰がいるのかは認識できただろう。
「おつかれさまー。」
伊勢が間延びした返事を返す。その言い方は四回生の前園由々を意識したものなのだが、当然、芹沢や杉下には伝わらない。この場でただ一人その言い方に反応できた久嶋だけがくすりと笑っていた。
「お疲れ様。和ちゃんと言い、千夏ちゃんといい、今年の新入生は熱心だね。」
そう言いながら久嶋は微笑んでいたが、このタイミングで芹沢が部室にやってきたことにはあまり笑える状態ではなかった。
今まさに話していた内容は「あの絵」についてのことであり、その作者の話である。彼女にとしては、できることなら芹沢の前では避けたいと思っていた話題だ。部活の仲間としていつかはそんな話をする機会がきたとしても、それはもう少し仲良くなってからが良いと思っていた。
この時、部室に久嶋と伊勢の二人しかいなかったならば、誤魔化すなり違う話題にすり替えるなり対応ができたのかもしれない。だが、杉下のいる状況でそんな対応をしてしまえば明らかに不審に思われる。
少しの迷いの後、久嶋は流れに任せることを決めた。
「そんなところに立ってないで座りなよ。」
「そうだよ。遠慮なんてしちゃダメだよ。もう部員なんだから堂々と部室を使っても誰にも文句を言われないんだし。」
そう促されてようやく彼女は動き始め、背負っていた荷物を部屋の隅にある荷物置きに乗せてから座る。座ったのは杉下の隣、置いてあったパイプ椅子を広げて使った。
その位置は意図してか例の絵がちょうど見えないような角度であり、同時に久嶋と向き合うようになる場所だった。
「それにしても二人とも、正式入部初日から顔出すなんてかなりやる気やね。これは展示会期待できるんじゃないの?」
「いやぁ、今年の展示会は良い作品が揃うんじゃないかって期待してるよ。きっと七海も素晴らしい作品を出してくれるんだって信じてるし。」
「まあ、私は大きな作品専門じゃないからさ。やっぱり葵や純花が二作品くらい描いた方が展示会的にはいいんじゃないの。」
「小さい作品でも展示会にあるのとないのでは見栄えが変わるよ。特に七海なんか独特な作品だからバリエーションを増やすにはもってこいだし。そりゃ、純ちゃんがしっかりとキャンバスに絵を描いて出してくれたら華にはなるけどさ。」
展示会についての話は金曜日に新入生も聞いていた。具体的な作品テーマや提出期限についてはまだ知らされていなかった。
鞄から水筒を取り出して飲みながら久嶋はそのことを考えていた。作品テーマや新入生への告知といった仕事は部長が行うという不文の決まりが存在するからである。
いつからか彼女専用の椅子となったカホンに、自前の座布団を敷き新入生の顔を見ながらどう切り出すべきかを頭の中で少し考える。
「部長。」
「―あぁ、私か。どうしたの?」
杉下からの呼びかけに対して、もう半年以上その役職に就いているというのに一瞬、誰のことを指しているのかと考えたような間があってから、久嶋は返事をする。
「展示会って結構オープンなやつですか?」
「いいや、今回のはそうでもないよ。中にはその作品を学祭でも展示するってことも少なくないから、みんなそれなりに気合入れた作品を作ってくるよ。あぁ、でもそんなに気を張ってやらなくても良いよ。新入生にはノルマも何もないからテーマにさえ合っていれば好きなように描いていいんだし。」
「自由ってのも迷うと思うけどさ、本当に好きにしたらいいんだよ。それがこのサークルの特徴でもあるんだし。私なんて三回生になってもこんな感じで自由にやっていくつもりだしさ。」
「七海はもう少し貢献してくれてもいいと思うんだけどさ。」
文化系のサークルらしいゆったりとした空気が流れる。
大学におけるサークルの選び方というのはそういった人間関係が自分に合うかどうかを基準にしている人間も多いだろう。ここにいる大半の人間がそうだ。
それをわかっているから久嶋は部員間で不穏な空気が流れることを嫌う。
できることならば、その原因となる問題は早急に解決していきたいとさえ思っているのだ。
「次の展示会で『あの絵』の作者さんの作品見れると良いなぁ。」
だから、ぽつりと、呟いた杉下のその言葉に目線で反応してしまった。
久嶋に急に視線を向けられた彼女はビクッと天敵に見つかった小動物のような態度をとる。
「純花先輩、今年は全力で描くって言ってましたよ。」
「―へ?」
「あれ?千夏ちゃん、知ってたの?」
「そういえば、勝手に言っちゃダメでしたっけ?」
杉下に気を取られていて、その隣からの爆弾発言への反応が遅れた。
彼女はいつからあの絵の作者を知っていたのか。いや、彼女の後輩なのだから当然なのかもしれない。それでも、先輩が描いた絵に何を感じているのか。
そんな考えが久嶋の頭の中を巡っている間に会話は進む。
「一応、本人の許可なしに答えを言う事は禁止されてるからね。暗黙の了解みたいなものだから知らなく当然だから気にしなくていいよ。」
「すいませんでした。」
「この場合、私はどうしたらいいですか?」
「聞かなかったことに、ってのは難しいから他の人に流布しなかったらそれでいいよ。純花には私から説明しておくし。」
聞いてしまった杉下と何も考えずに言ってしまったと焦っているような芹沢。
前者にとってその絵は先輩の書いた絵でしかないが、後者にとってはもっと大きな意味を持つ。
芹沢がその絵に対して抱いている複雑な感情はだれにもわからない。
「葵、それでいいよね?」
「うん。知ってるなら仕方ないし、聞いてしまったら仕方ないよ。純ちゃんも頑なに隠しるってわけでもないし。恥ずかしいから隠してるくらいだからね。」
「入部初日でバレたって言ったら『何で言うの。』くらいは言われるかもしれないから、千夏ちゃんは覚悟しておいてね。」
「土下座の準備でもしておきます。」
その言葉に少し笑いが起きた。
それくらい軽い雰囲気がこのサークルの売りなのだから。
部員が和気あいあいと過ごすこと。
久嶋が部長となって決めた目標はこの時はまだ達成されていた。




