他人の腹でやる切腹
時:1930年(昭和五年)、5月
場所:東京・永田町、帝国議会・衆議院本会議場
議事堂は、割れんばかりの怒号と野次に包まれていた。
演壇に立つのは、野党・民政党総裁の濱口雄幸。その「ライオン宰相」の異名に違わぬ、威風堂々たる姿。だが彼が今演じているのは、自らの信念とは裏腹の「台本」であった。
「……問いたい! 政府および海軍当局に問いたい!」
濱口の腹の底から響く声が、議場を圧した。
「ロンドン海軍軍縮条約における、対米七割の断念。これは百歩譲って、国際協調と平和のための苦渋の決断として評価しよう。
だが! 問題はその『裏側』で行われている、海軍の専横についてである!」
濱口は海軍大臣席に座る岡田啓介を、鋭く睨みつけた。
「海軍は現在、『制度債』なる得体の知れない私製手形を乱発し、国際市場から吸い上げた巨額の外貨を担保に、国内の財閥から円を借り上げている。
そしてその金で、発電所を作り、工場を動かし、農村にまで金をばら撒いている。
……これは明白な『国家の二重化』であり、財政民主主義の否定ではないか!」
『そうだ!』『海軍の横暴を許すな!』
民政党の議員たちから、一斉に拍手とヤジが飛ぶ。彼らは本気で怒っていた。党首が「芝居」をしているなどとは夢にも思わず、純粋な議会制民主主義の守護者として吼えていた。
濱口自身も、言葉に熱がこもるのを感じていた。
芝居ではない。これは彼自身の、心からの叫びだった。
「金解禁」「緊縮財政」「国際協調」。彼が信じる正義の道筋を、海軍の得体の知れない「錬金術」が全てぶち壊しているのだから。
「政府は直ちに、制度債の流通を差し止め、海軍の財務を大蔵省の完全な統制下に置くべきである! さもなくば、円の信認は地に落ち、我が国は国際金融市場における『信用』を永遠に失うであろう!」
演説が終わると、議場は嵐のような拍手に包まれた。
見事な論陣だった。正論中の正論。
だが、答弁席にゆっくりと進み出た男の顔には、微塵の動揺もなかった。
海軍省軍務局長・堀悌吉。
彼は書類を演壇に置くこともなく、ただ静かに濱口を見据えた。
「……濱口議員の、国家の財政規律を憂うお言葉。深く感銘いたしました」
堀の声は、議場の喧騒をスッと凪がせるような、不思議な冷たさを持っていた。
「確かに、我々海軍の行っている事業は、従来の国家予算の枠組みから外れた『異例』のものであります。
ですが、お尋ねしたい。
議員が仰る『信用』と『規律』。……それは、誰のためのものでありますか?」
堀は、議場全体を見渡した。
「議員は、国際金融市場における『日本の誠実さ』を示すため、金解禁と緊縮財政が必要だと主張されておられる。
つまり、米英の銀行家たちに『日本は約束を守る国だ』と褒めてもらうために、我々も身を切り、痛みに耐えよ、と」
「その通りだ!」濱口が叫んだ。
「国家の基盤とは、苦難に耐える国民の規律の上に成り立つものだ!」
「……なるほど。立派な武士の作法です」
堀は、薄く笑った。
「ですが、濱口議員。
その『切腹』……ご自身でされるおつもりですか?」
「なに?」
「閣下の仰る規律とは、国家が身を切ることではありますまい」
堀の声が一段と重く、鋭くなった。
「不況の中で予算を削れば、誰が痛むのか。
職工の賃金が削られ、農民が米を売り叩き、工廠の火が落ち、数万の労働者が路頭に迷う。
……閣下は一番弱い者たちに腹を切らせた上で、それを『日本が耐えた』『我々は規律を守った』と、諸外国に誇るおつもりか」
議場が、水を打ったように静まり返った。
堀の言葉は、デフレ政策(緊縮財政)がもたらす残酷な現実を、容赦なく白日の下に晒していた。
「……それは、他人の腹でやる切腹です」
堀は、濱口の目を真っ直ぐに射抜いた。
「切腹は、武士の作法です。
だが閣下のそれは、ご自身ではなく、職工と農民と工廠に腹を切らせる作法だ。
……我々帝国海軍は、そのような武士道を存じません」
「き、貴様ッ……!」
濱口の顔から血の気が引き、その場に崩れ落ちそうになった。
「詭弁だ!」
濱口は、激昂して叫んだ。
「痛みを伴わぬ改革などない! 一時の苦しみを耐えねば、真の国力は育たんのだ!
海軍のバラマキは、麻薬と同じだ! 国民を甘やかし、堕落させるだけだ!」
そこで、初めて海軍大臣岡田啓介が発言を求めた。
彼の声は堀よりもさらに低く、そして氷のように冷徹だった。
「……濱口議員。我々は、国民を甘やかしてなどおりません」
岡田は、一枚の資料を掲げた。
「我々が提供しているのは、施しではない。『仕事』です。
アメリカから買い付けた最新の工作機械を動かし、イギリスのスクラップを溶かし、新しい船やインフラを作る仕事。
……我々が『制度債』で支払っているのは、彼らが流した汗と、生み出した価値に対する、正当な対価です。
貴方は『国際社会の信用』を得るために、国民に痛みを強いると言う。
ですが我々は国民に痛みを強いるのではなく、彼らを働かせることで国力を増強し、結果として英米から『信用』を勝ち取ったのです」
岡田は、静かに締めくくった。
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時:同日
場所:ニューヨーク、ウォール街
ウォール街の銀行家たちは、日本の国会の議事録を読んで顔面蒼白になり、そして激怒していた。
「……ふざけるな、このハマグチとかいう日本の政治家は!!」
JPモルガンのトーマス・ラモントは、机を叩いて絶叫した。
「奴は議会で何と言った!?
『制度債は国家の信用を食い潰す裏口財政である。即刻流通を差し止め、金解禁による本来の緊縮財政に戻すべきだ』だと!?」
隣の役員が、ガチガチと歯を鳴らしながら言う。
「ほ、本気でしょうか……。もし日本の議会が、本当に『NCPC債の無効化』や『海軍の資金凍結』を決議したら……」
「我々のバランスシートが即死する!!」
今やウォール街の巨大銀行の金庫には、アメリカ国債ではなく「日本海軍の長期債やNCPC債」が山のように積まれている。それが彼らの「命綱」なのだ。
もし濱口の主張通りに「海軍の裏口財政」が止められてしまえば、アメリカの金融機関は担保を失い、連鎖倒産する。
「……おい、誰か国務省のスティムソンに電話を繋げ!」
ラモントは受話器を引ったくった。
「もしもし、ヘンリーか!? 今すぐ東京の駐日大使に命令しろ!
あらゆるルートで日本のタナカ内閣を全力で支持し、海軍の『制度』を擁護するんだ!
あのハマグチとかいう『財政規律派』の野党を、絶対に政権に就かせるな!!」
『……トム? 何を言っているんだ。ハマグチ氏は議会制民主主義と健全財政を重んじる、我々アメリカにとって最も好ましい親米派の政治家だぞ?』
「馬鹿野郎!! 奴の『健全財政』が実行されたら、ウォール街が全滅するんだよ!!」
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場所:東京・丸の内、日本工業倶楽部・特別室
国会での堀悌吉との激しい論戦(という名の茶番劇)を終えた数日後の夜。
民政党総裁の濱口雄幸と、腹心の井上準之助は、党の最大のスポンサーである財界の巨頭たちと極秘裏に面会していた。
円卓を挟んで向かい合うのは、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太と、三井合名理事長・團琢磨である。
「……先週の議会での総裁の演説、拝聴いたしました」
岩崎が、最高級の葉巻をくゆらせながら静かに切り出した。
「『海軍の裏口財政を許すな』『財政規律を取り戻せ』。……実に堂々たる、立憲政治家としての気骨に溢れるお言葉でしたな」
濱口は深く頷いた。
「岩崎男爵、團男爵。我が党は、いかなる圧力にも屈せず、憲政の常道を守り抜く覚悟です。
……つきましては、海軍の専横を食い止め、我が国を再び金本位制という国際的な信用の軌道に戻すため、財界の皆様の力強いご支援を引き続きお願いしたい」
濱口の言葉は熱を帯びていた。
国会での激しい非難は、アメリカの目を欺くための「芝居」の側面もあった。だが、彼自身は本気で「海軍の異常な経済支配」を終わらせ、本来の財政民主主義に戻すべきだと信じていた。財閥もまた、健全な資本主義のルールの回復を望んでいるはずだ、と。
しかし部屋を満たした沈黙は、あまりにも冷ややかだった。
「……濱口さん。井上さん」
團琢磨が象牙のパイプを灰皿に置き、静かに口を開いた。
「政治家としての矜持は立派です。……ですが、我々実業家は、そろばんの玉で物事を判断します。
率直に申し上げましょう。……今、海軍さんの『制度』を止められては、我々は非常に困るのです」
井上準之助が、目を見開いた。
「困る……? 男爵、何を仰るのですか!
海軍が勝手に刷っている証券(NCPC債)など、いつ紙くずになるか分からないバブルですぞ! 早く金解禁を行い、為替を安定させねば、輸出産業は……」
「井上君」
岩崎が、冷たく遮った。
「君は、ニューヨークやロンドンの惨状を見ていないのかね?
アメリカは金を守るために金利を上げ、自国の企業を次々と倒産させている。イギリスの造船所は蜘蛛の巣が張っている。
今、日本が『金解禁』などという馬鹿げた扉を開ければ、あっという間に我が国の金は、高金利のアメリカに吸い取られる。……日本経済は即死だよ」
岩崎は、テーブルの上に置かれた分厚い事業報告書を指差した。
「それに比べ、海軍さんのやり方はどうだ。
我々三菱は、海軍から回ってくるドルとNCPC債のおかげで、アメリカで最新鋭の工作機械をタダ同然で買い漁っている。長崎のドックはアメリカ人技師や熟練工の指導でフル稼働だ」
「三井も同じです」團が引き取った。
「海軍が主導する発電所の建設。送電網の敷設。……我々が長年やりたくても資金がなくてできなかったインフラ整備を、彼らはアメリカの金でやってくれている。
しかも我々が海軍に貸し付けた余剰円の利子まで、きっちり払ってくれる」
團は、濱口の目を真っ直ぐに見据えた。
「濱口さん。我々は株式会社です。株主に利益を還元する義務がある。
海軍さんは、我々に『富』と『技術』と『仕事』をくれている。
……対して、あなたたちが掲げる『緊縮』と『金解禁』は、我々に『我慢』と『赤字』と『倒産のリスク』しか与えない」
その言葉は、鋭い短剣のように濱口の胸を抉った。
「……お言葉ですが、男爵!」
井上が、悲痛な声で反論した。
「海軍のやり方は、資本主義のルールを逸脱した邪道です! あんなものが長く続くはずがない!」
「邪道でも、勝てば官軍です」
岩崎が、冷徹に言い放った。
「井上君、君は『ルールを守れば信用される』と言うが、そのルールを作った英米自身が、今やルールを破って泥仕合をしているではないか。
東郷大佐はその泥仕合の中で、我々日本企業が勝てる『新しいルール』を作ってくれたのだ。
……我々は、海軍の『制度』という名の船に乗りました。
もう君たちが漕ぐ、沈みかけの泥船(緊縮財政)には戻れないのです」
岩崎の宣告に、濱口と井上は言葉を失った。
彼らは信じていたのだ。
自分たちの政策は痛みを伴うが、財界の良識ある人々は、その必要性を理解し、支えてくれるはずだと。
だが、現実は違った。
資本は、道徳や政治的理想よりも、圧倒的な「利益」の前にひれ伏す。
東郷一成はアメリカの強欲を利用したのと同じ手口で、日本の財閥をも完全に「共犯者」として飼い慣らしていたのだ。
「……つまり、財界は我々民政党を見限る、ということですか」
濱口が、絞り出すように問うた。
「見限るなどとは申しません」
團は、薄く笑った。
「議会において、政府や海軍に『苦言』を呈する野党の存在は、民主主義国家の体裁を保ち、アメリカを油断させるためにも必要不可欠です。
ですから、今後も適度な献金は続けさせていただきますよ。
……良き『ブレーキ役』を、演じ続けていただくためにね」
それは、政治家に対する完全な死刑宣告だった。
「お前たちの政策はもういらない。ただ、海軍の目くらましのために、怒っているフリだけをしておけ」と。
打ちのめされ、力なく料亭を出た濱口雄幸は、夜の丸の内のオフィス街を見上げた。
不況の影はどこにもなく、煌々と灯る電気が、夜通し働く人々の活気を伝えている。
その光は、彼が理想とした「緊縮と忍耐の末の繁栄」ではなく、海軍がもたらした光だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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