笑う全権
時:1930年(昭和五年)、5月
場所:東京・小石川、若槻禮次郎の私邸
ロンドン海軍軍縮会議から帰国したばかりの日本全権・若槻禮次郎の私邸には、野党・民政党の巨頭二人が極秘に招かれていた。
党首である「ライオン宰相」濱口雄幸と、党の外交的支柱である幣原喜重郎である。
二人の顔は、渋柿を噛み潰したように険しかった。
「……若槻君。ご苦労だった」
濱口は、重々しく口を開いた。
「世間や軍部、そして枢密院までもが『対米七割を割る屈辱条約だ』『統帥権干犯だ』と騒ぎ立てておる。だが君が国を思い、米英との協調のために血の涙を飲んで妥協してくれたこと、我々だけはよく分かっているつもりだ」
「そうだ」幣原も頷いた。
「外交とは『譲り合い』と『誠意』だ。我が党は田中内閣の政策とはいえ、この条約の批准を全力で後押しする。世間の非難の矢面には、我々も共に立つ覚悟だ」
彼らは友の苦境を助けようと、悲壮な決意を固めていた。
だが、当の若槻は出された茶を啜りながら、どこか気まずそうに目を泳がせていた。
「……いや。その、濱口君、幣原君。君たちの友情には感謝するが……」
若槻は声を潜めた。
「実は、あの『反対運動』は……全部、芝居なのだ」
「……は?」
濱口と幣原の動きが、ピタリと止まった。
「芝居、とはどういうことだ?」
濱口の鋭い眼光が若槻を射抜く。
「いや、その……加藤軍令部長も、平沼枢密院副議長も、東郷元帥も……実は『今回の条約は、アメリカを丸裸にする大勝利だ』ということを、全員知っているのだ。
だが、それを表に出せばアメリカ議会が批准しない。だから、みんなで『悲劇の軍人』や『怒れる国粋主義者』のフリをして、アメリカを油断させている……というのが、事の真相なのだよ」
若槻は、山本五十六と東郷一成が仕組んだ「13年ルール」や「対英絶対量ドクトリンの逆用」、そして「実質20隻の重巡(偽装軽巡)建造枠の確保」という、条約の恐るべき“裏の顔”を、包み隠さず二人に説明した。
説明が終わった後。
部屋には、文字通りの「死の沈黙」が降りていた。
「…………」
濱口雄幸は、ワナワナと震え始めた。
「……若槻君。君は、自分が何にサインしたか分かっておるのか」
「分かっているとも。極めて『合法的な』軍縮条約だ」
「詭弁だッ!!」
濱口が、机を叩いて吠えた。ライオンの咆哮だった。
「条約の精神を完全に骨抜きにする、詐欺行為ではないか! 我々は、国際社会に対して『誠意』をもって接するべきだ! このような姑息な抜け穴で艦隊を増強するなど、協調外交の理念に対する冒涜だ!」
「その通りです!」
平和主義者の幣原も、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「外交とは、信頼関係の上に成り立つもの! もしアメリカがこの『騙し討ち』に気づいた時、日米関係は破滅的な打撃を受けます! こんなペテンを、あの『軍神』の息子が主導したと言うのですか!」
彼らは「ルール(精神)は守るべきだ」と本気で信じている、根っからの生真面目な政治家なのだ。
だが若槻は、懐から一枚のメモを取り出した。
「……幣原君。君は『騙し討ち』と言うが、アメリカ代表団のスティムソン長官は、この条件に納得してサインしたのだぞ? 我々は一文字たりともルールを破っていないし、嘘もついていない」
若槻は海軍から渡されていた『模範解答』を読み上げた。
「『我々が13年の老朽艦を廃棄して新鋭艦を造ることは、我が国のNCPC債を購入してくれたアメリカの投資家の資産を、海難事故から守るための“善管注意義務(Fiduciary Duty)”である』……とね。
アメリカ側も自国の投資家保護という正義の前には、反論できなかったのだ」
「…………っ」
幣原は息を呑んだ。
国際法と外交の専門家である彼だからこそ、そのロジックの「反論できなさ」が痛いほど理解できてしまったのだ。
「軍拡」を「投資家保護」と言い換える。アメリカの資本主義のルールを盾に、アメリカの外交の顔面を殴りつける。
「……悪魔だ」
幣原は、力なく椅子に崩れ落ちた。
「東郷一成という男は、外交のテーブルにウォール街の論理を持ち込み、国際協調という神聖な舞台を、ただの『泥棒市』に変えてしまった……」
濱口もまた、深い絶望に包まれていた。
「……若槻君。君は私に、この『国家ぐるみの詐欺』の片棒を担げと言うのか」
「そういうことだ、濱口君」
若槻は、同情するように友の肩を叩いた。
「政府(田中内閣)と海軍が『国辱だ!』と責められているこの状況で、我々野党・民政党が『いや、実は日本は大儲けしているんです!』とバラせばどうなるか。
……アメリカ議会は条約の批准を否決し、我々が吸い上げているアメリカからの利益も、全てご破算になる。そして国民は、アメリカからの富の流れを止めた君を『国賊』として吊るし上げるだろう。政権奪取など夢のまた夢となる」
「つまり……我々もまた、『怒れる野党』として、政府を攻撃する『フリ』をしなければならない、と?」
「その通り。君の得意な『ライオンの咆哮』で、思い切り政府と海軍の『軟弱外交』を罵倒してくれたまえ。……アメリカの新聞記者が、しっかりメモを取れるようにな」
濱口雄幸は、天を仰いだ。
清廉潔白を信条としてきた自分が、国家の利益を守るために、議会という神聖な場で「大根役者」として茶番劇を演じなければならない。
しかも憎き政敵である田中義一と、あの海軍の化け物たちのために!
「ば、馬鹿な……」
幣原喜重郎が、青ざめた顔で立ち上がった。
「カネで……他国の窮状につけ込んで軍艦を買い、票を買収するような真似をして……それが、国際協調だと言うのか! そんな卑劣なやり方で得た『信用』など、いつか必ずメッキが剥がれる!」
「幣原君、現実を見たまえ」
若槻は、冷ややかに言い放った。
「君は『国際社会で誠実に振る舞えば、信用される』と思っている。だが、それは貧乏人の道徳だ。
我々がロンドンで見たのは、『金を持っている者が、ルールを決める』という冷徹な真実だよ。
アメリカは自国が金欠になった途端、手のひらを返して条約違反(戦艦のイタリア売却)をやったではないか。彼らの言う『規律』など、金庫が空になれば吹き飛ぶメッキに過ぎん」
「……嘘だ」
濱口が絞り出すように言った。ライオンの顔が、恐怖で青ざめている。
「嘘だと言ってくれ、若槻君……。
我々が信じてきた、緊縮と、金解禁と、英米協調の道が……間違っていたと言うのか?
我々の掲げる『正義』は、もはやこの世界では、通用しないと言うのか……?」
若槻は、紅茶を飲み干した。
彼とて、最初は東郷一成のやり方を「海軍の暴走」と危惧していた。
だがロンドンで、米英の傲慢な外交官たちが、日本の資金力(と海軍の弁論)の前に手も足も出ず、論破され、買収され、自ら日本の軍拡を承認する書類にサインしていく様を目の当たりにした時。
……彼は、強烈な「カタルシス(快感)」を覚えてしまったのだ。
「……濱口さん」
若槻はもはや同情もしていない、冷徹な目でかつての盟友を見た。
「私はロンドンで学びましたよ。外交とは、テストで百点を取ることではない、とね」
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場所:東京・芝区、濱口雄幸私邸
深夜の書斎。紫煙の向こうで、立憲民政党総裁・濱口雄幸は、ライオンの異名をとるその猛禽のような鋭い眼差しを、机上に広げられた膨大な資料に向けていた。
同席しているのは、濱口が信頼する財政の要である井上準之助。彼の顔色もまた、疲労と焦燥で土気色になっていた。
世間は今、ロンドン海軍軍縮条約の「対米七割妥協」のニュースに沸き立っている。いや、怒り狂っている。新聞は連日「田中内閣の軟弱外交」「海軍の屈服」と書き立てていた。
「……世間の連中は、何も見えておらん」
濱口は、野党党首らしからぬ重い声で呟いた。
「……井上君。君は日銀総裁として、海軍がアメリカで稼いだ莫大な外貨を、国内に還流させる算段をさせられただろう。あの金は、今どうなっている?」
それこそが、濱口の「金解禁(金本位制復帰)」という目標にとって、最大のガンであった。
そもそも、東郷大佐が南米債権買取の承認と引き換えにアメリカ政府と結んだ『三年間のイヤーマーキング凍結密約』のせいで、日本海軍がアメリカ国内に保有する外貨は、金に兌換することができない。物理的に金解禁など不可能なのだ。
井上の顔が歪んだ。
「……海軍は、そのドルを担保に財閥から巨額の円を借り上げ、国内のインフラ投資――1ギガワット級の発電所建設や、不況にあえぐ農村の米やカニ缶の買い上げに回しています。
……恐ろしいことに、海軍のバラマキのせいで、私が主張していた緊縮による経済の引き締め(デフレ)が完全に無効化されています。失業者は減り、巷には海軍の金が回っているのです」
「そこだ!」
濱口は、机をドンと叩いた。
「軍縮会議でアメリカに『譲歩』するフリを見せ、その裏でアメリカの経済危機をダシにして莫大な富を吸い上げる。そしてその富を使って、国内のインフラを軍の手で作り上げる。……これが、あの東郷一成という男の描いた絵図だ!」
濱口は立ち上がり、書斎を歩き回った。彼の大蔵官僚としての、そして立憲政治家としての血が、激しい怒りで沸騰していた。
「……許せん。断じて許せんぞ」
濱口の声は、地を這うような怒気を帯びていた。
「彼らがやっていることは、ただの経済政策ではない。『国家の二重化』だ!
本来、国家の予算というものは、議会で審議され、国民の代表の承認を得て、初めて一元的に執行されるべきものだ。それが財政民主主義というものだろう!
だが海軍はどうだ? 彼らは『制度債』という議会を通さない“報告書”を作り出し、統帥権という絶対の聖域の陰に隠れて、国家予算に匹敵する金を勝手に刷り、勝手に使っている!
しかも軍事機密は統帥権の管轄だからと言って、この”報告書”は価値をみなすことすらできないから非課税だ!
大蔵省の統制も、議会の監視も及ばない。これは軍事クーデターよりも悪質な、『金融による国家の乗っ取り』だ!!」
井上も、深く頷いた。
「仰る通りです、総裁。彼らは『任務』という名目で通貨秩序を攪乱しています。
円という法定通貨の信認を、海軍という一官庁の私製手形(制度債)が凌駕しようとしている。こんな異常事態を放置すれば、日本は近代的な法治国家から、軍閥が経済を牛耳る中世のアジア国家へと逆戻りしてしまいます」
濱口は、窓の外の暗闇を睨みつけた。
「……田中(首相)の奴め。自分の政権を延命させるために、海軍のこの『毒まんじゅう』を食らいおった。
陸軍もそうだ。海軍から予算を恵んでもらって、おとなしく飼い犬に成り下がった」
政友会内閣も、陸軍も、財閥も。誰もが東郷のばら撒く金に酔いしれ、国家の形がいびつに歪んでいくのを見て見ぬふりをしている。
「……井上君。我々がやらねばならん」
濱口の眼光が、鋭く光った。
「次の議会で、我々は田中内閣と海軍を徹底的に追及する。
だが、右翼や新聞のように『軍縮反対』『軟弱外交』などという、次元の低い言葉で殴るのではない」
「では、何と?」
「『憲政の常道』と『財政規律』だ」
濱口は、力強く宣言した。
「海軍が統帥権を盾に、国家財政の統制から逃げている事実を白日の下に晒す。
『制度債は、国家の信用を食い潰す裏口財政である』
『軍によるインフラ支配は、民業の圧迫であり、議会制民主主義の否定である』と!
そして今回のロンドン条約の妥結は、決して海軍の『裏取引』の成果などではない。我が国が国際社会の良識ある一員として、英米との『協調外交』を選んだ、内閣と議会の理性の産物であると……そう、歴史を定義し直すのだ!」
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