自らを吊るすロープ
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ニューヨーク、ウォール街。「ギャツビー&カンパニー」トレーディングフロア
ダウ平均株価の巨大な黒板は、大暴落以降の深い傷跡と、FRBの利上げによる実体経済の壊死を反映し、重苦しい死の停滞を見せていた。
フロアに漂うのは医療用ウイスキーの飲みすぎによるアルコールの匂いと、絶望の汗の臭いだった。
だが、その日の午後。
ダウ・ジョーンズ・ニュース通信社のティッカーテープが、ガシャガシャとけたたましい音を立てて「ヨーロッパからの特ダネ」を吐き出した瞬間、フロアの淀んだ空気が一変した。
『速報:日本帝国海軍、ルーマニア・コンスタンツァ港のフリーゾーンに巨大物流拠点を構築。ドナウ川水運網と接続し、中欧の重工業製品を黒海経由で直接輸送する独自ルートを開拓』
若きトレーダー、レオはそのテープを握りしめ、目を血走らせて叫んだ。
「……来たぞ! カイグンのメガ・プロジェクトだ!!」
彼の絶叫を合図に、フロア中から怒号のような買い注文が殺到し始めた。
「USスチールの株を買え! コンスタンツァの港湾設備とタンクの鋼材は、日本海軍が筆頭株主でもあるUSスチールに発注が来るぞ!」
「NCPC債の先物を全力で買い増せ! 南米の石油や資源に加えて東欧の物流利権が担保に乗った! あの債券の格付けはもう『神レベル』だ!」
「ヨーロッパの連中が不況で手放したインフラを、日本が底値で買い叩いてるんだ! これは世界最大のバリュー投資だぞ!バスに乗り遅れるな!!」
電話のベルが鳴り響き、伝票が吹雪のように舞い上がった。誰も、「日本がユーラシア大陸の資源と技術を、英米の干渉を受けずに吸い上げるパイプを完成させた」という地政学的な危機には気づいていない。
いや、気づいていたとしても、どうでもよかった。
明日の株価と債券が上がり、自分たちの手元にボーナスが転がり込んでくるのであれば、相手が何者であっても、何を運んでいようと構わないのだ。
フロアの隅で古参のトレーダー、スチュアートだけが、狂喜乱舞する同僚たちを冷ややかな目で見つめていた。
「……お前らは自分が何に熱狂しているのか、分かっているのか」
スチュアートは、手元の手帳に書いた地図に赤鉛筆で線を引いた。
ウィーンからドナウ川を下り、黒海へ。そこからスエズを抜け、日本へ至る線。
「……これは『血管』だ。
日本という巨大な怪物が、アメリカに頼らずとも生きていけるようにするための、独立した大動脈だ。
もし将来、我々アメリカと日本が戦争になった時……我々が『鉄と油を売らない』と経済制裁を発動しても、この血管がある限り、日本は痛くも痒くもない」
スチュアートは、熱狂するレオの背中を見た。
「我々は今、敵の『無敵の兵站線』が完成したというニュースを見て、万歳三唱しながら、その建設資金を自分たちの借金で提供しているのだ。
……レーニンの言った通りだな。『資本家は、自らを吊るすロープを、喜んで自ら買う』と」
一方チーフ・アナリストのウィリアムズは、欧州から届いた電信の束を読み解きながら、部下のトレーダーたちに興奮気味に説明を行っていた。
「……諸君! ヨーロッパの金融危機は去った! 祝杯を上げよう!」
ウィリアムズは、黒板に『CA銀行』と白墨で大きく書き、そこへ『フランス政府』から太い矢印を引いた。
「あのケチなフランス人が、ついに重い腰を上げてオーストリア最大の銀行(CA)に5,000万ドルの特別融資を実行した!おそらく、クレマンソー気取りで中央ヨーロッパの覇権を握ったつもりなのだろう! だが、そんなフランスの政治的メンツなど我々には関係ない。重要なのは、これでCA銀行の資金繰りが完全に盤石になったということだ!
我が社がCA銀行に貸し付けている2,000万ドルの短期融資も、これで焦げ付く心配はなくなった。
……すぐにロールオーバー(借り換え)の手続きをとれ! フランス政府がバックにいる銀行から、資金を引き揚げる手はない!」
トレーダーたちが歓声を上げる。
「さらに素晴らしいニュースがある」
ウィリアムズは、黒板の端に『日本海軍(NCPC)』と書き加えた。
「我々が愛してやまないNCPC債の裏付けが、さらに強固になった。
奴らは我々から吸い上げたドルを、スイスのBIS(国際決済銀行)に預託した。アメリカの泥沼経済から、安全なアルプスに資産を退避させたんだ。完璧なリスクヘッジだ」
ウィリアムズの目は、もはや一国の軍隊に対する警戒など微塵もなく、優秀なヘッジファンドを称賛するそれだった。
「そしてその豊富な資金を使って、彼らは欧州で『実物資産』の買い漁りを始めている。
スウェーデンのベアリング(SKF)、フランスの航空機エンジン(ロレーヌ)、イギリスの最新鋭タンカー……。
分かるか? NCPC債を買うということは、日・米・欧の最高級の産業インフラに分散投資しているのと同じことなのだ! しかも非課税で!」
「買いだ! NCPC債をさらに買え!」
トレーダーたちが受話器に飛びつく。
「日本人は天才的なアセット・アロケーション(資産配分)を行っている! ドル紙幣なんて持っているより、彼らの紙切れを持っている方が100倍安全だ!」
アメリカの金融エリートたちには、フランスのドヤ顔の融資も、日本のえげつない技術強奪も、彼らの目には「自分たちの資産価値を高めてくれる素晴らしい好材料」としか映っていなかったのだ。
その日の夕方。
ニューヨーク・タイムズの経済面には、こんな見出しが躍った。
『日本海軍、バルカン半島の物流を刷新! 米国企業にも莫大な恩恵か』
『アナリストは語る:「彼らの経営手腕は、ウォール街のどのバンカーよりも洗練されている」』
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時:同日
場所:東京・日本橋兜町、東京株式取引所
一方、地球の裏側の東京・兜町は、アメリカの「偽りの好景気」とは違う、実体を伴った文字通りの「狂乱の坩堝」と化していた。
天井の高い立会場では、場立ちたちが手の指で激しくサインを交わし、喉から血が出るほどの怒号が飛び交っている。
「川西航空機、ストップ高!! まだ買いが入るぞ! ロレーヌの技術移転が確定した!」
「三菱造船! 住友金属!川崎重工! 海軍お抱えの重厚長大銘柄は全部買いだ、買い!! 家を担保に入れてでも買え!!」
相場師たちは、インクの匂いも真新しい新聞の号外を握りしめて歓喜の涙を流していた。
そこには、政府と海軍が共同で発表した「帝都および全国工業地帯の近代化計画」の概要が記されていた。
『……海軍、米国市場ニテ獲得セシ外貨ヲ背景ニ、欧州ヨリ最新鋭ノ工作機械群ヲ大量導入!
川西航空機ニハ、仏国ロレーヌ社ノ設備ガ移管サル!
製鋼、造船各社ニモ、瑞典ノ特殊鋼・ボールベアリング技術及ビ墺国ノ特許技術、海軍ヲ通ジテ提供へ!』
立会場が見渡せる二階のバルコニー席で、兜町の大物相場師は、仕手戦の仲間たちにキューバ産の高級葉巻を配りながら高笑いした。
「……見ろ! 軍縮会議の裏でどこの誰かは知らねえが、海軍さんがアメリカの財布から金を引っこ抜いて、ヨーロッパの最新技術を山ほど買ってきてくれたんだ!」
「全くですぜ、大将!」
手代の一人が、興奮で体を震わせながら葉巻に火をつけた。
「海軍さんが何食わぬ顔で持ってくる工作機械や特許は、普通なら日本の企業がどれだけ血と汗を流して、何十年かかっても手に入らないスゲェ代物ばかりだ。 それを『タダ同然でリースしてやるから、いいモノを作れ』って言うんだから、たまらねえ!」
日本の実業家たちは、海外の最新技術――自分たちが喉から手が出るほど欲しかった『基礎工業力の土台』――が、次々と横浜港や神戸港に陸揚げされ、自分たちの工場に運び込まれる情景を脳内で見て、狂喜乱舞していた。
しかも、資金の出し手である海軍は「円」の予算を使っていない。アメリカから吸い上げた「外貨」と「制度債」で回しているため、国内でインフレが起きることもない。
「……まさに神風だ」
相場師は、兜町の空を見上げた。
「アメリカが不況で死にかけている時に、日本だけが『欧米の技術と資本』を丸飲みにして進化している。……この国の重化学工業は、ここから10年で世界をひっくり返すぞ」
海の向こうのウォール街が「自らの首をくくるロープ」を喜んで編んでいる間に。
極東の島国はその強靭なロープを使って工業国家へと駆け上がる絶壁を、一気に這い上がろうとしていた。
購入額のシミュレーション(セクター別)
ウォール街のアナリストたちが「世界最高のバリュー投資」「完璧な分散ポートフォリオ」と絶賛した結果、以下の資金がNCPC債に流入したと推計される。
① 米国の一流機関投資家(商業銀行・信託銀行)
推計購入額:1億5,000万ドル
動機:国内の製造業向け融資が焦げ付く中、確実な利払いが期待でき、かつ「実物資産(石油・鉄・物流網)」で裏付けられたNCPC債は、バランスシートを健全に保つための最高の担保(優良資産)とみなされた。クーン・ローブ商会やモルガン系などの大手がこぞって引受・購入に走った。
② ヘッジファンド・投機家(自己資金トレーダー)
推計購入額:1億ドル
動機:レオたち若手トレーダーが熱狂した層。「ヨーロッパの底値インフラを買い叩いているメガプロジェクト」という成長性に賭け、レバレッジをかけて先物を買い漁った。
③ 欧州の逃避当座資金(ウォール街経由)
推計購入額:5,000万ドル
動機:経済不安の続くヨーロッパからアメリカへ逃避してきた富裕層の資金が、皮肉にもウォール街の証券会社を経由して「最も安全なユーラシアの物流インフラ債(NCPC)」へと再還流した。
【結論】ウォール街が自ら差し出した「建設資金」の総額
総額:3億ドル(当時の為替レートで約6億円)。1オンス=約20ドル固定の時代、3億ドルというのは「約460トンの純金」に相当する。
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