熱狂の春
時:1930年(昭和五年)、4月(ロンドン海軍軍縮会議・延長戦の最中)
場所:イギリス・ロンドン、日本代表団(全権・若槻礼次郎)の控室
その日。
日本海軍代表団随員にして、海軍きっての超エリートである豊田貞次郎は、本国の人手不足も相まって想定よりも早く今月少将に昇進したばかりにもかかわらず、自らの頭を両手で抱え込み、控室のデスクに突っ伏していた。
「……あのな、山本さん、東郷」
豊田は、目の前に座って旨そうに砂糖入りの紅茶を飲んでいる男――山本五十六少将に向かって、虚ろな眼差しで呟いた。ワシントンの東郷から連日のように送られてくる「地獄の報告書」を手渡しに来るのは、いつもこの男だった。
「あなたたち、自分が何をやっているか分かっているのですか?
私はロンドンで条約の条文案と睨み合いながら、英米の小姑みたいな外交官たちと『100トン、いやここの50トンの誤差がどうの』と胃に穴を開けながら交渉しているんだぞ」
豊田は、血走った目で机の上の書類の山を叩きつけた。
「なのに! 私が会議室から出てくるたびに、五十六さんがニヤニヤしながら『新しい契約書』を持ってくる!
『フランスに特型駆逐艦と海中型潜水艦を売却した』『シェルからタンカー17隻を買った』『ヴィッカース(英国)に秘密裏に潜水艦40隻発注した』『建造中の空母龍驤をオランダに売却し、ハゼマイヤー社とフォッカー社への出資権を獲得。さらに蘭印への大型投資計画が進行中』
……そして極めつけはなんだ! 『オーストリア・チェコの中型武器工場群(CA銀行資本)を傘下に収めた』だと!?」
「いやあ、東郷君は、本当に買い物が上手でなぁ」
山本が笑うが、豊田の怒りは収まらない。
「バカか!! 決済はどうすんだ!! 外為法(外国為替管理法)はどうなってる!?
大蔵省への事前稟議は!? なんで海軍の一大佐が、国家予算の倍のドル(15億ドル)をスイスの銀行(BIS)から勝手に動かせるんだ!
しかも、『これは軍隊ではなく純粋な民間商取引だから、軍縮条約第18条には抵触しない(合法である)』だと?」
豊田はネクタイを乱暴に引き結び直した。
「あのなぁ……法学の教科書の上ではそうかもしれないが、現実の国際政治でそんなトンチが通るわけないだろうが!!
……え? 通った? イギリスが黙認した? オランダの主権を盾にして抜け穴を作った?
……アメリカ政府が発狂して、自国の戦艦維持費が払えずイタリアに売り飛ばした!?」
豊田は天を仰いだ。
「おいおいおい、待て待て待て。
あなたたち、軍縮会議という『国家間の厳粛な外交テーブル』を、完全に『中古品転売のフリーマーケット』に変えやがったな!? もう滅茶苦茶じゃないか!」
豊田は、インクの乾いていない巨大な報告書の束を睨みつけた。
「私は今、本国の外務省と大蔵省に対して、『なぜ我が国が突然フランス海軍のスポンサーになり、オランダ王室とズブズブになり、ルーマニアの港を実効支配しているのか』を、書類上・法律上『まったく矛盾のない国策』として説明する答弁書を徹夜で書いているんだぞ! 私の海軍随一の有能な頭脳を、お前の『脱法行為の合法化(事後処理)』のケツ拭きに使わせるな!」
ぜえぜえと息を切らす豊田。
山本五十六は、そんなエリート官僚の肩をポンと叩いた。
「で? 豊田。その『事後処理』、本国の法に組み込む自信はあるのか?」
豊田貞次郎は、書類の束にペンを走らせる手を止め、数秒間の沈黙の後。
深く溜息をつきながら、忌々しげに――しかし、口元に凄絶な笑みを浮かべて言った。
「……ああ。やってやるさ。完璧にな。
……悔しいが、一つだけ言わせてくれ」
豊田は、窓の向こうのロンドンの空をねめつけた。
「おかげで、日本の兵站と工業力は、この会議中に10年分は進歩した。
……実務家として、これほど美味い汁を吸わされたら。
もう、東郷君の作り上げた『制度』の共犯者になるしかないじゃないか。この悪魔め」
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時:1930年(昭和五年)、4月
場所:東京・浅草、カフェー「ライオン」
昭和五年の春、東京の街は「狂騒」という言葉がふさわしい熱気に包まれていた。
ラジオからは連日、ロンドン会議における日本全権団の「痛快な外交戦」が報じられ、新聞は『特型駆逐艦、無制限へ。世界標準と認定!』『英仏、帝国海軍の技術力に脱帽!』といった見出しを踊らせていた。
不況の風は、この街には吹いていない。
海軍の「制度債」が牽引する公共事業と、アメリカから安値で買い叩いた最新の工作機械が、空前の好景気を生み出していた。
カフェーのテーブルで、背広を着たサラリーマンたちがビールジョッキを打ち鳴らしている。
「聞いたか! イギリスがうちの潜水艦の条件を飲んだそうだ! あの大英帝国がだぞ!」
「当然だ! 我が帝国の技術力は世界一だ! この調子で、大型巡洋艦も『対米七割』をきっちり飲ませてやらぁ!」
カウンターの奥で、その喧騒を聞き流しながらコーヒーを飲んでいる男たちがいた。
海軍軍務局長・堀悌吉と、第一課長・沢本頼雄である。
彼らの顔に、大衆のような笑顔はなかった。
「……ちと、困ったことになりましたね、局長」
沢本が、低く嘆息した。
「国民は完全に『勝戦気分』です。我々が裏でどれほど冷徹な計算(バーター取引)をしていようと、彼らの目には『アメリカを力で屈服させている』としか映っていない。
……この熱狂の中で、もし我々が大型巡洋艦の『対米七割』を譲歩するようなことがあれば」
「暴動が起きるな。いや、テロが起きるかもしれん」
堀は、冷めたコーヒーをすすった。
「艦隊派の連中(加藤寛治や末次信正)も、特型や潜水艦で妥協を勝ち取った分、『大型巡洋艦だけは絶対に七割を死守せよ』と息巻いている。
だが……アメリカも限界だ。彼らは駆逐艦と潜水艦で事実上の敗北を喫した。ここで巡洋艦まで譲れば、フーヴァー政権は崩壊する。彼らは『六割(10:10:6)』を絶対に譲らん」
堀は、窓の外を行き交う熱狂した群衆を見つめた。
「……東郷の奴は、我々に強力な武器を与えてくれた。だが同時に、国民に『過剰な自信』という麻薬を打ってしまった。
……一歩間違えば、国内が火の海になるぞ」
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時:同日
場所:ニューヨーク・マンハッタン、セントラルパークの炊き出しの列
一方、太平洋の反対側では、全く別の「発狂」が起きていた。
冷たい春雨の中、数千人の失業者が、日本海軍からFDRが引き継ぎ、試運転が始まった『ニューヨーク州・緊急救済局(TERA)』の列に並んでいた。
列に並ぶ男の一人が、拾った新聞を広げて吐き捨てるように言った。
「……おい、見たか。ワシントンの連中、ロンドンでまだ『巡洋艦のトン数』で揉めてるらしいぞ」
「トン数? 腹の足しになるのか、それは?」
別の男が、空き缶を蹴り飛ばした。
「俺たちは明日住む家もないっていうのに、スティムソンの野郎は『アメリカの威信のために、日本より大きな軍艦を作らねばならん! そのための予算をよこせ!』って議会で叫んでるんだとよ」
「馬鹿か! その前に俺たちにパンをよこせってんだ!」
アメリカ国民の感情は、完全に分裂していた。
ハースト系の愛国メディアは『日本の軍拡を許すな! 七割など断じて認めん!』と叫んでいる。
だが日々の生活に苦しむ大衆の目には、軍艦の大きさなどどうでもよかった。
むしろ、自分たちにスープを配ってくれた日本を「敵」だと叫び、莫大な税金を使って鉄の塊(軍艦)を作ろうとする自国政府の方が、よほど「敵」に見えていた。
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時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・第一委員会室
会議室の空気は、窒息しそうなほどの疲労と殺意に満ちていた。
アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンは、目の下の濃いクマをこすりながら、日本全権・若槻禮次郎と山本五十六を睨みつけていた。
「……何度言えば分かるのだ、若槻全権。
大型巡洋艦(8インチ砲搭載艦)の比率は、対米六割(10:10:6)。これは我々にとって絶対のデッドラインだ。これ以上の譲歩は、我が国の議会が絶対に批准しない!」
スティムソンは机を叩いた。
彼はすでに、駆逐艦と潜水艦で日本に一杯食わされ、本国から『無能』の烙印を押されかけている。ここで大型巡洋艦の七割まで飲まされれば、彼は帰国した瞬間に政治生命を絶たれる。
「……長官のお立場は理解しております」
若槻は、苦渋の表情で答えた。
「しかし、我が国の世論も沸騰しております。ここで六割を受け入れれば、我々代表団は国賊として東京湾に沈められるでしょう。……せめて、六割九分というような、実質七割に近い妥協案は……」
「駄目だ! 六割だ!」
会議は完全に泥沼化していた。
その泥沼を、離れた席からワイングラスを傾けながら眺めている男たちがいた。
フランス外相アリスティード・ブリアンと、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドである。
「……滑稽だな、ブリアン外相」
マクドナルドが、皮肉っぽく囁いた。
「金がないのに『大きな軍艦を造らせろ』と叫ぶアメリカ人と、金はあるのに『国内のメンツのために引けない』と強弁する日本人。……まるで、子供の意地っ張り合いだ」
「ええ。我々ヨーロッパの大人から見れば、喜劇でしかありませんな」
ブリアンは、優雅に笑った。
フランスはすでに、日本の金(5,000万ドル)でオーストリアの首根っこ(CA銀行)を握り、ヨーロッパの金融覇権を手にした(と思い込んでいる)。
彼らにとって、太平洋の巡洋艦の数など、もはやどうでもいい話だった。
1930年の春。
ロンドン海軍軍縮会議は、史実より遥かに長く、遥かに複雑で、遥かに日本にとって「甘い結末」に向かって漂流を続けていた。
東京のカフェー「ライオン」のカウンターに残された、堀悌吉の冷めたコーヒーカップ。
ニューヨークの炊き出しスタンドに並ぶ、TINカップ。
二つのカップの持ち主は、お互いの顔も名前も知らない。
だが彼らは、同じ一人の男――太平洋の向こうのワシントンD.C.で「インフルエンザから回復した」ことになっている海軍大佐――が仕掛けた巨大な盤上遊戯の駒として、知らず知らずのうちに動かされていた。
豊田貞次郎はロンドンの控室で、今夜もまた「合法の皮を被った地殻変動」の書類整備に忙殺されている。
その傍らで、山本五十六が砂糖入りの紅茶を啜りながら、また一通、ワシントンからの新しい「爆弾」を開封していた。
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