ロンダリング・サプライチェーン
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ルーマニア・ブカレスト、財務省大臣室
東ヨーロッパの春は、まだ遠かった。
ルーマニア財務大臣ヴィルジル・マジャルの顔色は、窓の外の灰色の空よりも暗かった。
世界農業恐慌の直撃。小麦価格は暴落し、国家歳入は激減。頼みの綱だったアメリカ資本は引き揚げ、スウェーデンの「マッチ王」イーヴァル・クルーガーから約束されていた3,000万ドルの借款も、彼の資金繰り悪化により宙に浮いていた。
「……大臣閣下。日本帝国海軍の代理人、加納様がお見えです」
秘書の声に、マジャルは重い腰を上げた。
応接室に通された加納久朗は、分厚いアタッシュケースをテーブルに置いた。
マジャルは、警戒心を隠さずに言った。
「ミスター・カノウ。我が国は今、クルーガー氏との交渉で……」
「クルーガー氏は、来ませんよ」
加納は、冷酷に遮った。
「彼の金庫は空です。ドイツへの支払いで手一杯のはずだ。
……我々は、彼に代わって『3,000万ドルの借款』を、即金ドルで提供する用意があります。
しかも、マッチの独占権などというケチな真似は要求しません」
マジャルは息を呑んだ。
3,000万ドルの現金。今のルーマニアにとっては、国家の心臓を動かし続けるための絶対的な血液だ。
「……条件は?」
「コンスタンツァ港です」
加納は一枚の地図と、法的文書の束を広げた。
「昨年、貴国が制定された『フリーゾーン(自由貿易地域)法』。素晴らしい法律ですね。
我々はこの法に基づき、コンスタンツァ港の海軍用0番・1番バース、および背後地の60ヘクタールを、日本海軍の名義で、『10年間』リースしたい」
マジャルの顔が引きつった。
「日本海軍だと!? それは事実上の租借地ではないか!」
「ご安心を。主権はルーマニアにあります。我々はただ、関税の壁の外側で、静かに荷物の積み下ろしをしたいだけです。
……もちろん、ただで貸せとは言いません」
加納は、見積書を提示した。
「専用埠頭の浚渫、最新鋭の穀物サイロ、そして18万立方メートル分の石油タンク群の建設。
これらの初期インフラ投資、約50万ドルは全て日本側が負担します。
そして、年間の地代・ライセンス料として……約3,500ドルを今後10年分、一括で前払い(3万5,000ドル)いたしましょう」
マジャルは、その数字を見て絶句した。
初期投資50万ドル+地代10年分3.5万ドル=合計53.5万ドル。
たったそれだけの「端金」で、黒海最大の港湾の心臓部を、日本に売り渡すことになるのか?
「……安すぎる。我が国のインフラをタダ同然で奪う気か!」
「大臣。数字をよく見てください」
加納は、アタッシュケースを開けた。中にはBIS(国際決済銀行)保証のドル小切手と、制度債(NCPC債)の束が詰まっていた。
「我々が用意した資金は『300万ドル』です。
インフラ投資と地代を引いても、まだ約246万ドル(約3億5,000万レイ)余っている。
……この余った246万ドル。
これをルーマニア政府への『無償資金援助』として、貴国の港湾インフラ予算の赤字補填に使っていただいて構いません」
「……なっ!?」
マジャルは、我が耳を疑った。
246万ドルの無償援助。それは、コンスタンツァ港の年間予算の「2倍以上」に匹敵する額だ。
「さらに、この資金でドナウ川の艀船団を我々が買い上げ、運用します。
ドイツ・オーストリアからの貨物がドナウ川を下り、コンスタンツァに集積する。
港は活気づき、雇用は生まれ、貴国は『東欧の物流のハブ』として莫大な利益を得るでしょう。
……どうです? 3,000万ドルの借款と、この246万ドルのプレゼント。
これでも、日本の要求は『安い』とおっしゃいますか?」
法的には「フリーゾーン法の適用」という完全に合法的な手続き。
財務的には「圧倒的な現金の暴力」。
マジャルは、ペンを握る手を震わせた。
これにサインすれば、コンスタンツァ港の心臓部は、10年間日本の「治外法権エリア」となる。
ルーマニアの税関は手出しできず、日本はオーストリアやチェコの兵器や特殊鋼を、誰にも見られずにこの港に集積し、日本の船で運び出すことができるようになる。
「……君たちは、ヨーロッパをどうするつもりだ」
マジャルは、絞り出すように言った。
「オーストリアからドナウ川を抜け、黒海へ。……これは『鉄の回廊』だ。君たちは我々の国を、その回廊の出口にする気か」
「我々はただの『運び屋』ですよ、大臣」
加納は、冷徹な銀行家の顔で微笑んだ。
「運ぶ荷物が、たまたま少しばかり『重くて黒い』だけです」
マジャルは溜息をつき、契約書にサインをした。
1930年4月。ルーマニアは国家の破産を免れる代償として、黒海の扉の鍵を日本海軍に渡した。
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場所:トルコ共和国・アンカラ、大統領府
だがもう一つの関所は、そう簡単には開かなかった。
そこには、一国の財政難につけ込むだけの小細工が通用しない、稀代の英雄が座っていたからだ。
トルコ共和国初代大統領、ムスタファ・ケマル。
「灰色の狼」の異名を持ち、崩壊したオスマン帝国から近代トルコを力ずくで建国した、軍人にして冷徹な政治家。
彼の眼光は、青い氷のように冷たく、目の前に座る日本大使と武官を射抜いていた。
ケマルは、分厚い葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「貴国の要求は、トルコの主権そのものを要求しているに等しいな」
ケマルは、机の上の地図――ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を指で叩いた。
「『日本船籍の船舶が海峡を通過する際、一切の臨検・査察を免除すること』。
大使殿。我がトルコは現在、ローザンヌ条約によってこの海峡の非武装化を強いられ、国際委員会の監視下に置かれている。それでも、通過船舶の監督権は我々にある。
……その検査をフリーパスにしろ、と言うのか?」
「あくまで、両国の『特別友好通商協定』の枠内において、です」
日本大使は汗を拭いながら答えた。
「軍艦を無断で通すとは申しません。あくまで『商船』と『民間貨物』の自由な航行を……」
「民間貨物?」
ケマルは鼻で笑った。
「その商船が運ぶのは、ドナウ川を下ってきた『オーストリア製の重砲』と『チェコの特殊鋼』だろう?
日本の東郷という大佐の噂は、私の耳にも届いているぞ」
日本側は絶句した。
この男の諜報網と国際情勢の分析力は、欧米のぼんくら政治家たちとは桁が違う。
「……お見通し、というわけですか」
大使に同行していた小沢治三郎が、観念したように言った。
「だが、ケマル大統領。貴国にとっても、悪い話ではないはずです」
……今の貴国の国内事情を鑑みれば」
小沢の言葉に、ケマルの眉がピクリと動いた。
「大恐慌で、貴国の農産物価格は6割も暴落したと聞いております。
農民は高利貸しに借金で首を絞められ、国内には不満が渦巻いている。……先日の選挙で野党(自由共和党)が躍進し、貴方の一党独裁体制が揺らいでいるのではありませんか?」
ケマルの目が、危険な光を帯びた。
図星だった。農村の崩壊は、トルコ共和国の屋台骨を軋ませている。政府は工業化を急ぎたいが、農村を救済する資金がないのだ。
「そこで、我が国からの『オファー』です」
小沢は、新しい書類をテーブルに置いた。
「我が国は、貴国から『綿花1万トン』と『クロム鉱石3万トン』を、向こう9年間にわたり、現在の国際市場価格にプレミアムを上乗せして『まとめ買い』します。
……支払いは、もちろんBIS経由の完全な即金で。総額7,000万ドル規模の長期取引です」
ケマルは、息を呑んだ。
綿花とクロム。
売れずに倉庫と畑で腐りかけていた、トルコの主要輸出品だ。
それを日本が、高値で、しかも長期契約で全量買い取ってくれるというのか。
「……この資金が農村に回れば、農民の借金は消え、不満は解消します。
さらに、貴国が目指す『国家資本主義』による工業化も、一気に10年は早まるでしょう」
軍事において綿花は、艦砲や航空機銃の発射薬である「無煙火薬」の主原料として絶対に不可欠な戦略物資だ。
当時の日本海軍は、平塚海軍火薬廠などでニトロセルロースベースの無煙火薬を大量生産していた。また海軍の夏用軍装(陸戦隊のカーキ色軍服や水兵の事業服など)、艦載艇用の帆布、ハンモックなども大量の綿糸を消費する。
そのため英米ブロックからの経済制裁に備え、「依存しない独自の綿花供給地」を血眼で探していた。
そして同じく、軍事の要である艦船の装甲板や航空機エンジン(特殊鋼)に欠かせない希少金属「クロム」。トルコはこの大恐慌下でも年間3万トン近くを産出する数少ない資源国だったが、買い手がいなくて山積みになっていた。
「……ミスター・オザワ。極東の島国が、これほど腹の据わった買い物をしようというのだ。我々の国家の血(綿花とクロム)を丸ごと引受けてやる代わりに、日本帝国は何を対価として求めるのかね?」
小沢はニヤリと笑い、たった一言だけ告げた。
「『目隠し』と、『紙切れ一枚』です、閣下」
「……ほう?」
「我が日本側が用意した特別船団が、ルーマニアのコンスタンツァを経由し、黒海からボスポラス、地中海、そしてスエズ運河へと向かいます。船の中には、我々が買ったトルコ産の美しい綿花とクロムが山積みになっている。
第一に、その船団に対して『トルコ政府の公式輸出証明書(武器や禁制品は一切含まず)』を発行し、税関の封印シールを絶対に切らせない『目隠し処置』をお約束いただきたい。
第二に、イギリス海軍の面倒な検閲(臨検)をスルーするため……船団の半分程度に、『親日国家・トルコの船籍(国旗)』を使用する許可を与えていただきたい」
ケマルは、数秒間無言のまま小沢を見つめ……やがて、肩を揺らして低く笑い出した。
「……ハハハ。なるほど、そういうことか! だからヨーロッパからの船にトルコの産品を混ぜ合わせるわけだ。流石だ。やる事のスケールがイカれきっている」
ケマルは、提案の「真の意図」を完全に理解した。
船の奥底に積まれている本当の積荷。それはもちろん綿花などではない。中欧から日本が根こそぎ爆買いした軍事技術と極秘兵器(工作機械の大群)だ。
ケマルの青い目が、微かに見開かれた。
(……7,000万ドル、か)
トルコの国家予算は、年間およそ1億ドルに満たない。
現在、彼は国家の近代化を進めるため「第一次五カ年工業計画」を構想しているが、その資金援助をあの忌まわしいソ連に頼み込み、やっとの思いで800万ドルの借款を引き出そうとしているところだった。
日本はそのソ連の借款総額の「9倍近い額」を、借金ではなく「売上」として叩き出そうとしているのだ。
「……日本の海軍か」
ケマルは、葉巻を灰皿に押し付けた。
「あのバルチック艦隊を、対馬の海で海の底に沈めた提督。トーゴー……。
その息子が、今度はカネと知恵で欧米を手玉に取っているというわけか」
ケマル自身、ガリポリの戦いでイギリス海軍を撃退した軍人である。
そして何より東郷平八郎という名前は、当時の中東・イスラム世界において「有色人種の希望の星」だった。
「……いいだろう。これで我々は、数万の農民を借金地獄から救い、国内に巨大な国営工場を建てるための元手を得る。せいぜいイギリスの連中には、極東と中東の海賊が結んだ『知恵』というものを見せつけてやるがいい!」
ケマルは、契約書を引き寄せた。
契約は成立した。
ルーマニアの無関心と、トルコの高度な地政学的計算。
この二つの扉が開いた瞬間、日本海軍の「ロンダリング・サプライチェーン」は、物理的にも政治的にも完全に開通したのである。
そしてトルコは、日本の資金と技術で大恐慌を最速で脱出し、中東最強の工業国への道を歩み始めることになる。
数週間後。
深夜のボスポラス海峡を、船体に真新しいアラビア文字(トルコ国籍の偽装)を描いた巨大な高速貨物船が、灯火管制を敷いたまま、滑るように通り抜けていった。
その腹の中には、ヨーロッパの最高技術と、日本の未来が満載されていた。
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