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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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楽譜ではなく、演奏家を

 時:1930年(昭和五年)、4月

場所:ドイツ・メルゼブルク近郊、ロイナ(Leuna)工場


 ザクセン=アンハルトの平野に、灰色の巨塔群が聳えている。


 高さ30メートルを超える鋼鉄の反応塔。蜘蛛の巣のように絡み合うパイプライン。その全てが、数百気圧の水素と石炭の泥漿を飲み込み、黒い石を透明な液体に変える――人類が到達した「錬金術」の最前線だった。


 IG・ファルベン社、ロイナ工場。

 

石炭液化(ベルギウス法)による人造石油の量産を目指し、3億ライヒスマルク(約1億2,000万ドル)という途方もない資本が注ぎ込まれた、ヨーロッパ最大の化学要塞である。


 だが今、その要塞は死にかけていた。


「……ボッシュ博士。これが、最新の決算報告です」


 工場長室。机を埋め尽くす書類の山の前で、カール・ボッシュ――IG・ファルベンの取締役会議長にして、高圧化学反応の世界的権威――は、秘書官が差し出した紙片を受け取った。


 その数字を見て、彼の顔から血の気が引いた。


 米国保有株式の評価損:▲1億5,000万RM。  

 ロイナ工場設備の減損見込み:▲3億RM。  

 米国子会社(ウィンスロップ社)からの送金:停止中。


 合計毀損額、推定4億5,000万ライヒスマルク以上。


 「……馬鹿な」


 ボッシュは、震える手で報告書を握りしめた。


 1929年のあの日。ニューヨーク証券取引所で、ダウ平均が652ドルという異常な高みから墜落した瞬間、世界の信用は音を立てて崩れた。ブローカーズ・ローンの崩壊。FRBは金流出を防ぐために金利を6.5%に釘付けにし、アメリカの信用収縮は津波のようにヨーロッパに押し寄せた。


 IG・ファルベンという欧州最大のコンツェルン(時価総額14億RM)ですら、その津波の前では砂の城に等しかった。


 ボッシュは窓の外、沈黙する反応塔群を見つめた。


 この巨大な鋼鉄の塔は、石炭を油に変えるドイツの夢だった。だが夢を動かすには金がいる。金を稼ぐはずだった米国市場は崩壊し、ドイツ本国のライヒスバンクは為替管理を厳格化し、ドル資金の国外送金を封鎖した。


 アスピリンがアメリカで売れても、その代金がドイツに届かない。  

 世界最高の化学技術を持ちながら、経理の帳簿が止まれば、工場の火も止まる。


 「……閣下。ベルリンの財務省から、極秘の打診がありました」  

 秘書官が声を低くした。  


 「このままでは、IG・ファルベンは年内にデフォルトに陥る可能性がある、と。救済に必要な資金は、約4億から6億ライヒスマルク……」


 ボッシュの顔が歪んだ。


 4億から6億RM。

 たった1社のためにその規模の公的資金を注入することは、税収が激減した今のワイマール政府には物理的に不可能だった。


 残された道は二つ。  

 事実上の完全国有化か、トラストの強制解体と優良部門の切り売り(清算)か。


 どちらに転んでも、カール・ボッシュが半生を捧げたIG・ファルベンの夢は終わる。


 「……こんな形で、ロイナを失うのか」


 彼は、自らが設計した反応塔を見上げた。  

 大金を注ぎ込んだ鋼鉄の巨人たちは動力を失い、ただ錆びて朽ちるのを待っている。  


 石炭を油に変える夢。ドイツをアメリカやイギリスの石油支配から解放する夢。  

 それが今、「座礁資産」という冷たい会計用語で葬られようとしていた。


 そこへ、一通の電報が届いた。

 差出人は、ライヒスバンク総裁ヒャルマル・シャハト。


 『至急、ベルリンへ来られたし。東洋の「天使」が、貴殿の工場を買いたいと申しておる。  ――ただし、買うのは設備ではない。「貴殿自身」だ』



場所:ベルリン、ライヒスバンク総裁室


 カール・ボッシュがベルリンに着いた時、シャハト総裁室のテーブルには一人の東洋人が座っていた。


 切れ長の黒い目。礼儀正しいが、どこか底知れない笑みを浮かべた男。  

 日本帝国海軍大佐、東郷一成。


 「ボッシュ博士。お会いできて光栄です」  

 東郷は流暢なドイツ語で立ち上がり、完璧な礼をとった。


 「貴殿のロイナ工場の窮状は承知しております。率直に申し上げましょう。  

 我が帝国海軍は、貴殿の工場を救うつもりはありません」


 ボッシュの顔がこわばった。シャハトが隣で薄く笑っている。


 東郷は続けた。


 「工場を救う、などという生ぬるいことは致しません。  

 ……我々は、ロイナの全てを、日本に移植します」


 「移植、だと?」


 「はい。設計図だけではない。反応塔も、配管も、触媒も、そして――貴殿の頭脳と、現場の技師たちも。全てを丸ごと」


 ボッシュは椅子の背にもたれ、しばし無言で東郷を見つめた。

 彼は科学者だった。政治家でも軍人でもない。

 だが、目の前の男が言っている意味は、化学者だからこそ正確に理解できた。


 「……東郷大佐。貴殿は、設計図と実機の違いを知っているのですか」


 「存じております」  

 東郷の目が光った。


 「設計図は楽譜に過ぎない。温度管理の微妙なコツ。バルブの締め具合。触媒の調合比率。一つ間違えば、反応塔は数百気圧の水素もろとも爆発する。  

……楽譜だけでは、音楽にならない。だから我々は、演奏家を求めているのです」


 ボッシュの目が、わずかに潤んだ。  

 科学者としてのプライドが、この男の言葉に反応していた。


 IG・ファルベンを救えなかった。ワイマール政府にも、アメリカの資本家にも見放された。  

だがこの東洋人は、自分の工場を「錆びた不良資産」ではなく「世界最高のオーケストラ」と呼んでくれている。


「……条件を聞こう」


 シャハトは葉巻に火をつけ、芝居がかった口調で言い添えた。

「博士。先に言っておくが、この男の条件を聞いた後で断ることは、理論上は可能だ。……ただし、断った場合に博士の工場がどうなるかも、理論上は明白だがね」


 東郷は、テーブルの上にファイルを広げた。

「第一に、ロイナの高圧反応塔および主要設備を日本へ輸送する費用と、博士および主要技師50名の渡航費・滞在費・報酬は、全てNCPC債で日本海軍が負担します。BIS経由でドル建て決済も可能です」


 シャハトが補足する。  

「ボッシュ博士。安心したまえ。このNCPC債とやらは、スイスのBIS窓口で額面通りドルに換わる。帝国銀行ライヒスバンクの為替封鎖には引っかからん。……私が保証する」


 「第二に」東郷は続けた。


 「触媒です」


 ボッシュの目が鋭くなった。  

触媒こそ、石炭液化の心臓部であり、IG・ファルベンが最も厳重に秘匿してきたブラックボックスだった。


 「博士。我々は貴殿の触媒レシピを、世界で唯一、完全な形で受け取りたい。  

 さらに……」


 東郷は、もう一枚の書類を重ねた。  

『スタンダード・オイル(SONJ)との接触分解クラッキング技術共同研究に関する覚書』


 「我々は、貴殿のスタンダード・オイルとの提携関係を承知しております。  

日本海軍は、スタンダード・オイルとも独自の関係を構築しました。  

……つまりドイツの石炭液化技術と、アメリカの石油精製技術。  

 この二つを、我々の手の中で融合させるのです」


 ボッシュは椅子から立ち上がった。


 「……待て。それは……」


 彼の科学者としての頭脳が、東郷の言葉の意味を瞬時に組み立てた。


 ベルギウス法で石炭から粗製油を絞り出し、次にスタンダードの接触分解技術でそれを高オクタン価の航空燃料やガソリンに精製する。


 ドイツの「液化」とアメリカの「精製」。  

二つの技術体系が合体すれば、石炭から、粗悪な石油から最高品質の航空燃料を量産できる。


 「……考えうる最強の組み合わせだ」


 ボッシュの声が、かすれた。  

 科学者として、その構想の美しさに震えていた。

 自分が半生を捧げた技術が、見知らぬ東洋人の手の中で、想像もしなかった形に進化しようとしている。


 ボッシュは窓際に歩み寄った。ベルリンの灰色の空。通りには失業者の列が蛇のように伸び、角を曲がったところではナチスのビラ配りと共産党員が睨み合っている。


 科学者としての誇り。ドイツへの忠誠。そして、ロイナ工場で油まみれになって反応塔を動かしてきた、何千人もの技師たちとその家族の顔。


 全てが、天秤の上で揺れている。


 ――だが。

 天秤は、もはや傾いていた。


 「……東郷大佐」


 振り向いた彼の顔には、もう迷いはなかった。


 「一つだけ条件がある。  

 日本で我々の技術を動かす時は、必ず私が現場に立つ。  

 設計図を渡して終わり、などという仕事はしない。私は科学者だ。自分の反応塔が、自分の手で火を入れるまで、席を立つ気はない」


 東郷は、深く頭を下げた。


 「――博士。それこそが、我々が最も望んだ答えです。

 楽譜ではなく、演奏家を。  

 そして演奏家が自ら指揮台に上がってくれるならば――もう、何も恐れることはありません」


 契約書にペンが走った。

 IG・ファルベンの最高機密――石炭液化の触媒レシピ、高圧反応の運転マニュアル、そしてカール・ボッシュ以下50名の精鋭技師団。


 その全てが、NCPC債という「見えない水脈」に乗って、地球の裏側の島国へ流れ出そうとしていた。



場所:横須賀、東郷邸の書斎


 数週間後。

 東郷幸は新聞や雑誌、書籍の束を整理していた。椅子に座るその姿は、控えめでどこか庇護欲をそそる小動物のように可憐な令嬢である。

 使用人たちは皆、幸のことを「お優しくて、ちょっとおっちょこちょいな、可愛らしいお嬢様」だと思っている。


 ――その認識は、正確に半分だけ正しい。

 しかし、幸が書類の束から一枚を抜き取り、机の明かりの下に置いた瞬間。  


 その黒い瞳の奥に、空気の温度が変わるような、冷たく精密な光が灯った。


「……IG・ファルベン」


 幸は、ベルリンの通信社経由で届いた業界紙の翻訳記事を、指先でとんとんと叩いた。


 「……えーっと。つまりお父様は、IG・ファルベンの救済に必要な4億から6億ライヒスマルクのうち、ロイナの技術移転分を丸ごとNCPC債で買い叩いた……と」


 幸は、ブルッと小さく身震いした。

「……もし幸が経営者だったら、絶望して首をくくっちゃうかも……」  

ぽつりとこぼした弱音は、年相応の少女らしい本音だった。しかし、彼女の思考は止まらない。


「IG・ファルベンの時価総額はおよそ14億ライヒスマルク。でも、彼らはロイナ工場の人造石油プラントに3億RMも投資しちゃってる。これが完全に『不良資産』になる……」  


 幸は、自ら弾き出した数字に息を呑んだ。


「……ありえない。史実の1931年のドイツ金融危機で、政府がダナート銀行やドレスナー銀行みたいな『主要な大銀行3行』を救うのに使った公的資金が6億5000万RM。  


 つまり、IG・ファルベン1社を救うコストは、国の主要銀行システムを丸ごと救済するのと同じ重さ……でもお父様にとっては、そここそが『買い場』なんだよね」


 幸は、次の書類に目を移した。  

そこには、ロイナから日本へ輸送されるだろう設備と人員の推定リストが記されている。


 「……反応塔も、配管も、全部まるごと日本に持ってくるの……!? し、しかも開発者のボッシュ博士ご本人と、50人のドイツ人技師さんたちまで……!?」 


 幸は天を仰いだ。


 「史実の日本って、ドイツからライセンス(楽譜)だけ買って、自力で再現しようとして爆発して、水素脆化で配管ボロボロにして、触媒の調合が分からなくて何年も無駄にして……って、惨憺たる有様だったのに。


 でも、お父様のシナリオだと、作曲家ボッシュが指揮棒を持って来日して、最高級の楽器(クルップ・USスチールの鋼材)と会場(発電所)が全部揃ってる状態で、初日から演奏開始……」


 彼女は、頭を抱えた。


 「しかもスタンダード・オイルのクラッキング技術まで組み合わせるって? ドイツの『石炭→粗製油』とアメリカの『粗製油→高オクタン航空燃料』を合体……?

 ……それって要するに、この時代の人造石油における世界最強のハイブリッドシステムなんだけどっ!?」


 令嬢らしからぬ甲高い声が、書斎の壁に反響した。慌てて口を押さえる。


 「……こんなこと、幸がいくら分かっていても、誰にも話せないんだけどね」  

 小さく呟いた。お父様の凄さを、世界で一番正確に理解できるのは自分だけ。でもそれを証明する術がない。


――ちょっとだけ、寂しい。


横須賀の街には、ドイツからの『技術者とプラントという名の楽団』のための仮の住宅が、着々と整備され始めている。


「……ほんと、性格悪いんだから」  

呟いた言葉は毒づいていたが、その声は微かに震え、頬は紅潮していた。

どこか心細げで、甘えるような、年相応の少女の声。

白いカーテンが風に揺れた。

いつもお読みいただきありがとうございます。


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ボッシュ博士が来日されるなら、ハーバーボッシュ法を使ってアンモニア、科学肥料を食料の増産に?
石油も資源も合法な取引で全部あるし、南進して東南アジアの植民地に侵攻して戦争する理由が無くなってしまいましたね。FDRはイタリアだけじゃ役不足ですし、ソ連と組むくらいしかないか?
史実では仮想敵アメリカの石油輸入する方が安上がりとか国防舐め腐った結果大戦中にアレコレして結局無駄金になった奴か・・・。こっちでは設備も人員もまるっと輸入することで軌道に乗るしオクタン価問題も解決しそ…
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