黄禍から盟友へ
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:オランダ・ユトレヒト州ドールン、旧ドイツ皇帝亡命邸ハウス・ドールン
冷たい春の雨が上がった森の中に、規則正しい斧の音が響いていた。
薪を割っているのは、立派な白い髭を蓄えた70代の老人だった。
左腕に障害を持ちながらも、その背筋はピンと伸び、かつて世界を震え上がらせた「威厳」の残滓を纏っている。
元ドイツ帝国皇帝、ヴィルヘルム2世。
彼は日課の薪割りを終え、息をついた。
「……見事な太刀筋ですな、陛下」
背後から、流暢なドイツ語が掛けられた。
振り返ると、そこに一人の東洋人が立っていた。
つい先日、オランダのウィルヘルミナ女王と「空母」をダシにした密約を交わした東郷一成である。(皇帝の前ではドレスを脱ぎ、仕立ての良い三つ揃いのスーツ姿に戻っていた)
「……日本海軍の、トーゴー大佐か。……余が割っているのはただの木切れだ。かつてはイギリスの戦艦を真っ二つに割る夢を見ていたというのに」
ヴィルヘルム2世は斧を置き、鋭い眼光を向けた。
「ウィルヘルミナ女王から話は聞いている。……かつて余が『黄禍』と呼んだ国の軍人が、余に何の用だ? 余はもはや、政治には一切関わらぬ隠居の身だぞ」
「ご無礼をお許しください、陛下」
東郷は、深く、そしてヨーロッパの宮廷作法に則った完璧な礼をとった。
「私は、陛下の『遺産』を買い取らせていただきたいと存じまして、参上いたしました」
「遺産、だと?」
「はい。……陛下が莫大な国費と情熱を注ぎ込み、育て上げた『ドイツ帝国海軍』の誇り高き技術です」
ヴィルヘルム2世の顔が、ピクリと引きつった。
海軍は、彼の誇りだった。イギリスのロイヤル・ネイビーに対抗するため、ティルピッツ提督と共に心血を注いで作り上げた大艦隊。それがスカパ・フローで自沈し、あるいは戦勝国に解体されたことは、彼の人生最大の痛恨事だった。
「……愚かなことを言うな」
元皇帝は、苦々しく吐き捨てた。
「今のドイツに海軍などない。ワイマールの腑抜けた政治家どもは、連合国の顔色を窺うばかりで、我が帝国の牙を自ら抜いてしまったのだ。アメリカの借金で首を絞められながらな」
「だからこそ、です」
東郷は、一歩前に出た。
「我々日本海軍が、陛下の牙をお預かりします。
我々には、アメリカから得た莫大な『ドル』があります。この資金をドイツの軍需産業に注入し、工場の火を絶やさず、技術者たちを養いましょう」
東郷は、ヴィルヘルム2世の目をまっすぐに見据えた。
「ですが、ベルリンのヒンデンブルク大統領や、国防軍の将軍たちは、我々のような東洋の島国と手を結ぶことに、まだ『ためらい』があるようです。
……彼らの背中を押せるのは、ワイマールの政治家ではありません。
彼らが今も心から忠誠を誓う、ただ一人の主君……すなわち、皇帝陛下だけなのです」
ヴィルヘルム2世は、息を呑んだ。
東郷の言葉は、老いた皇帝の虚栄心と、ワイマール共和国への憎悪を、完璧に突いていた。
「……余に、ヒンデンブルクへ手紙を書けと言うのか?」
「はい。『ドイツの誇りたる技術を、アングロサクソン(英米)に屈しない日本へ託し、共に未来の臥薪嘗胆に備えよ』と。
……陛下のお言葉一つで、ドイツの重工業は蘇り、日本の資金で再び世界最高峰の剣を鍛え始めることができるのです」
ヴィルヘルム2世は、森の木々を見上げた。
(……余は、歴史から退場した敗北者だと思っていた。
だがこの日本人は、余がまだ『帝国を動かす力』を持っていると言ってくれているのだ)
「……いいだろう」
元皇帝は、鷹のように笑った。
「ティルピッツの遺産が、地球の裏側で再びアングロサクソンの喉元に突きつけられるというのなら……それも一興だ。
書斎へ来たまえ、トーゴー大佐。余の『勅命』を、ベルリンへ届けてやろう」
⸻
時:数日後
場所:ベルリン、大統領官邸(ヴィルヘルム通り)
ベルリンの空は、ワイマール共和国の末路を暗示するように、重く淀んでいた。
街には失業者が溢れ、ナチスと共産党の小競り合いが日常茶飯事となっている。
アメリカからの資金パイプは完全に切断された。ドイツは、窒息死寸前だった。
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは、執務机に置かれた封筒を見て、震えを止められなかった。
そこに押された封蝋は、紛れもないホーエンツォレルン家(ドイツ皇帝)の紋章。
隣に立つライヒスバンク総裁、ヒャルマル・シャハトが、静かに言った。
「……大統領閣下。日本大使館経由で届けられた、ドールン(元皇帝)からの親書です」
ヒンデンブルクはペーパーナイフで封を切り、その手紙を読んだ。
内容は日本海軍の資金援助を受け入れ、ドイツの技術を日本に供与することを「強く推奨」するものだった。
文末には、彼がかつて命を捧げた主君の、力強い署名があった。
「……おお、我がカイザー(皇帝陛下)」
82歳の老元帥の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
ヒンデンブルクにとって、ワイマール共和国の大統領という職務は、ある意味で「主君に対する裏切り」の連続だった。連合国に頭を下げ、誇りを捨てて生き延びる日々。
だが今、その主君から「日本の援助を受け、帝国の力を密かに養え」という“赦し”と“命令”が下されたのだ。
「……東郷元帥の息子か」
老元帥は、深くしわがれた声で呟いた。
彼の脳裏には、かつて仕えたカイザー(ヴィルヘルム2世)が叫んだ「黄禍論」の記憶があった。黄色い猿たちが欧州を脅かすという悪夢。
だが今、その黄色い肌の男たちが、同じ白人の国(英米仏)に見捨てられたドイツを救おうとしている。
傍らに控えるクルト・フォン・シュライヒャー将軍(国防次官、後の首相)が、冷徹な報告を加える。
「閣下。日本の支援は、美辞麗句だけではありません。
彼らが送ってきた『NCPC債』とかいう証券も、スイスのBIS口座で額面通りドルと交換できることを確認しました」
「……アメリカはどうした? ヤング案の約束は?」
「アメリカは自分の傷を舐めるのに必死です。メロン財務長官はドイツへの融資を引き揚げました」
ヒンデンブルクは、杖で床をドンと突いた。
「……かつて皇帝陛下に笑われる国だった日本が、パンと仕事を持ってくる。
……シュライヒャーよ。これが東洋の『新しい騎士道』なのかもしれんな」
老元帥はカイザーの親書を丁寧に畳み、机の引き出しにしまった。
それは彼の中で「日本」という国の定義が、「異教徒」から「盟友」へと書き換わった瞬間だった。
「……シャハト総裁」
ヒンデンブルクは涙を拭い、顔を上げた。その顔は、ワイマールの老政治家のものではない。タンネンベルクの戦いを指揮した、プロイセンの猛将の顔だった。
「直ちに、国防省と主要軍需企業に極秘の通達を出せ。
『日本海軍からの技術供与の要求に対し、一切の出し惜しみを禁ずる。これは国家の存亡を賭けた、我が国の総意である』とな!」
「……承知いたしました、大統領閣下」
シャハトは、恭しく頭を下げた。
だが、部屋を出たシャハトの顔には、冷徹な銀行家の笑みが浮かんでいた。
⸻
場所:ベルリン、ライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)総裁室
ヒャルマル・シャハト総裁は、ヒンデンブルク大統領から預かってきた「元皇帝からの親書」の写しと、日本海軍から提示された「金融支援スキーム」の書類を並べて、狂ったように笑っていた。
「ハハハハ! 傑作だ! 天才的だ!」
同席していたクルト・フォン・シュライヒャー将軍が、怪訝な顔をする。
「総裁。何がそんなにおかしいのですか?」
「これを見ろ、将軍!」
シャハトは、日本の提案書を指差した。
「日本は、我々にドルを『あげる』のではない。我々に『貸す』と言っているのだ。
まずBIS(国際決済銀行)を通じて、我々の口座に『NCPC債』を振り込む。
そのNCPC債は、スイスの窓口に行けば、いつでも額面通り東郷の預けた莫大なドルと交換できる。
……そしてその貸付金利は、年利たったの『3.5%』だ!」
シュライヒャーは首を傾げた。
「3.5%? それの何が問題なのですか?」
「問題どころか、奇跡だよ!」
シャハトは机を叩いた。
「現在、アメリカのFRBの金利は6.5%、ということは世界の市中金利はもっと高い。破産寸前の我が国が金を借りようとすれば、10%以上の高利を吹っかけられる。
それを、3.5%という破格の低金利で貸してくれるのだ!
しかも……これは『借金』だ。分かるか? 『利益』ではない!」
シャハトは、立ち上がって部屋を歩き回った。
「日本にとっても、我々にとっても、これが最強の免罪符になる。
もし日本が我々に金を『投資』や『贈与』すれば、アメリカ政府は『日本が得体の知れない金で欧州を支配しようとしている!』と騒ぐだろう。課税の問題も発生する。
だが、これは単なる『銀行(BIS)を介した融資』だ。借金には、どこの国でも税金はかからない! 完全な非課税スキームだ!」
「なるほど……。日本は法的に文句のつけようがない形で、我々に資金を供給するわけですね」
「それだけではないぞ、将軍」
シャハトの目が、獲物を狙う鷹のように細められた。
「日本はこの借金の『返済方法』として、ドルではなく『現物(ドイツの技術や機械)』での支払いを認めている。
……つまり、我々は日本のカネ(NCPC債)でアメリカの借金を返し、その日本のカネを自国の労働者が作った軍艦や大砲の設計図で返済するのだ。
外貨(ドルや金)は、我々の金庫から一滴も流出しない!」
シュライヒャーもついにその計画の全貌を理解し、息を呑んだ。
「……無からの錬金術ですね」
「そうだ。そして、その錬金術のスイッチを押すための『心理的な免罪符』として、あの東郷大佐は、わざわざドールンにいる老いぼれ(カイザー)に手紙を書かせたのだ。
ヒンデンブルクのプライドを守り、国内の保守派を黙らせるためにな」
シャハトは日本の方向を向いて、深くグラスを掲げた。
「……脱帽だよ、東郷一成。
……喜んで、あんたの描いた絵図に乗らせてもらおう」
シャハトは、即座に理解した。
東郷はBISという「国際機関の皮」を被ることで、アメリカ政府の監視を逃れ、ドイツに資金を流し込もうとしている。
その目的は、ドイツの救済ではない。
瀕死のドイツ重工業界を、日本海軍の下請け工場として再稼働させることだ。
「……総裁。これは、罠です」
ある部下が青ざめて言った。
「技術を売り渡せば、ドイツの将来が……」
「馬鹿者!」
シャハトは一喝した。
「将来だと? 明日食うパンがないのに、将来があるか!
アメリカの銀行は我々を見捨てた。イギリスは戦債回収の鬼だ。フランスは敵だ。
……今、この地球上でキャッシュ(現金)を持って微笑んでいるのは、あの東洋の海軍だけなのだぞ!」
シャハトは、受話器を取り上げた。相手はクルップやシーメンス、IGファルベンといったドイツ重工業界の重鎮たちだ。
「……諸君。朗報だ。アメリカの金持ちは死んだが、代わりに新しいパトロンが見つかった。
金払いはいいが、注文はうるさいぞ。
『戦艦の装甲板の製法』だの『合成石油のプラント』だの、軍事技術ばかり欲しがる」
電話の向こうで、ためらう気配がした。軍事技術の流出を懸念しているのだ。
シャハトは、冷酷に言い放った。
「……何を迷うことがある?
工場を閉鎖して座して死ぬか、東洋の海軍に魂を売って生き延びるかだ。
それに、よく考えろ。
その金は、元を正せばアメリカ人がドイツに貸すはずだった金だ。
それが日本を経由して戻ってくるだけだ。……利子は『技術』で払うことになるがな」
シャハトは電話を切ると、窓の外、荒廃したベルリンの街を見下ろした。
「……アメリカ(メロン)は、金融の素人だ。市場を締め上げれば、金が逃げるとも知らずに。
だが日本(東郷)は……プロだ。
奴はBISを『洗浄機』にした。アメリカから吸い上げた金を、ここで『NCPC』という綺麗な水に洗い直して、世界中にバラ撒こうとしている」
彼は、ポケットの辞表をゴミ箱に捨てた。
まだ、辞めるわけにはいかない。
ドイツ再建のための資金を東郷から引き出すには、自分のような悪党が必要だからだ。
シャハトは、壁のアメリカ地図にダーツを投げつけた。
「アメリカ人よ、見ていろ。
貴様らが自滅している間に、我々は日本のドルを使って、不死鳥のように蘇ってやる。
……たとえその体が、日本の鎧をまとうことになったとしてもな」
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