カミソリとトラック
ロレーヌ買収の影響第二編です。
時:1930年(昭和五年)、春
場所:東京・霞が関、海軍省・応接室
その日の応接室には、奇妙な緊張感が漂っていた。
陸軍省から派遣された折衝担当官、東條英機大佐は、不動の姿勢で座っていた。
彼の顔には、屈辱と義務感がない交ぜになった、複雑な表情が張り付いている。
永田鉄山からの命令。「海軍に頭を下げて、予算を分捕ってこい」。その任務を果たすためだけに、彼はここにいる。
そこへ、一人の陸軍将校が入室してきた。
栗林忠道大尉。
駐米武官補佐官としてワシントンに滞在し、東郷一成の知遇を得て一時帰国した、陸軍きってのアメリカ通である。
「……東條大佐殿。お待たせいたしました」
栗林は敬礼した。その態度は礼儀正しいが、どこか海軍の空気に馴染んだような、リベラルな雰囲気を纏っている。
「栗林か。……貴様、海軍の使い走りになったのか?」
東條は刺々しく言った。
「いいえ。私はあくまで、日米の架け橋としての任務を遂行しているだけです」
栗林は、一通の分厚い封筒をテーブルに置いた。
「ワシントンの東郷大佐からの、ご提案です」
「……提案だと?」
東條は封筒を開け、中身を確認した。
そこには、フランス・ロレーヌ社の最新鋭軍用トラックのカタログと、詳細なスペック表が入っていた。
『タトラ式6輪トラック(Lorraine Type 72系列)改・日本陸軍仕様』
・独立懸架式、6輪大型オフロードトラック / 装輪式牽引車
・バックボーン・チューブ(中央の太い鋼管)シャシー
・重砲牽引能力:およそ2トンクラスまでの野砲・榴弾砲であれば、悪路でも十分に牽引可能
「……これは?」
「ロレーヌ社が、現在世界最高のオフロード車技術を持っている、チェコスロバキアのタトラ社とライセンス契約を結んだばかりの、最新のトラックです」
栗林が解説する。
「海軍が買収したロレーヌ・アルジャントゥイユ工場の自動車部門のラインを使います。自動車部門が不振に陥っていたロレーヌ社は、軍用・実用車両への転換を図るため、今なら容易に生産ラインの切り替えが進められるとか。
現在部隊の移動を鉄道に、大砲の移動を馬に依存している我が軍にとって、これは『夢の機械』です。
……東郷大佐はこれを年間300台、即納できると仰っています」
東條の手が震えた。
年間300台。
当時の陸軍の部隊、特に砲兵を一気に機械化できる数だ。これがあれば、泥濘の満州でも部隊や重砲を迅速に展開できる。
だが、価格は?
「……何故、価格が書いていない」
東條は呻いた。
「東郷は何を求めている? カネか? それとも満州の利権か?」
「いいえ、大佐」
栗林は、もう一枚の書類を差し出した。
「『人』です」
『航空機操縦者・移籍要請書』
・対象:飛行時間300時間以上の陸軍下士官・兵
・人数:年間300名〜500名
・待遇:海軍への転属、階級の特進、および特別手当の支給
「……なっ!?」
東條は絶句した。
「パイロットをよこせだと!? 陸軍が手塩にかけて育てた鷲たちを、海軍に売り渡せと言うのか!」
「東郷大佐はこう仰っています」
栗林は静かに伝えた。
「『海軍は今、航空機の供給力が爆発的に増えている。飛行機を作るカネとアルミはある。だが、乗る人間がいない。
一から育てるには時間がかかる。だから、基礎ができている陸軍のパイロットが欲しい。
……現在の陸軍は、飛行機よりもトラックが欲しいはずだ。これは、互いの不足を補う合理的なトレードだ』と」
東條の脳裏で、冷徹な計算機が回った。
パイロット一人の育成コスト。数万円。時間にして2年。
対して、装輪牽引車にもなる高性能トラック1台の価値。戦略的効果は計り知れない。
感情的には許せない。陸軍の魂を売るようなものだ。
だが、合理的には?
……釣り合う。いや、陸軍にとって得ですらある。
東條は、永田鉄山や石原莞爾の顔を思い出した。
『凡人が世界をどう誤認するか』
『お前の刃は、紙の上でしか切れん』
あの言葉が、呪いのように蘇る。
ここで感情に流されて断れば、また「現実が見えていない」と罵られるのか。
「……栗林」
東條は、絞り出すように言った。
「……東郷大佐に伝えろ。
『陸軍は、余剰人員(予備役パイロットや、志願者)の整理を検討する』と。
……ただし! これは売買ではない! あくまで『人事交流』および『機材の共同開発』だ!
陸軍の面子を潰すような真似は許さん!」
「承知いたしました」
栗林は、内心で安堵のため息をついた。
東郷の読み通りだ。この男は形式さえ整えれば、実利を取る。
こうして、日本軍史上例を見ない「人とモノのバーター取引」が成立した。
この後、陸軍の練兵場にはフランス製のトラックが並び、海軍の航空基地には、陸軍の軍服を脱ぎ捨てた若者たちが集まるようになる。
後に「海軍航空隊の急激な膨張」を支えることになる中堅パイロットの多くが、実は元陸軍兵士だったという事実は、数十年後まで公式に語られることのない極秘事項となった。
東條英機はこの取引を「陸軍の機械化を推進した英断」として、自らの実績に加えた。
そして東郷一成は無電報告を受けただ一言、こう呟いたという。
「……カミソリも、使いようだな」
⸻
時:1930年(昭和五年)、夏
場所:東京・三宅坂、陸軍省・軍事課長室
その日、陸軍省の空気は張り詰めていた。
海軍軍務局長・堀悌吉が、艦政本部の藤本喜久雄造船大佐を引き連れて、公式に訪問してきたからだ。
迎えるのは永田鉄山軍事課長と、陸軍運輸部(船舶部隊)の技術将校たち。
「……堀局長。海軍が陸軍に『船』の相談とは、日は西から昇るのですかな?」
永田は、皮肉めいた口調で言った。
陸軍が独自に船舶(揚陸艦)を研究していることは、海軍にとって本来なら「統帥権の干犯」と騒ぎ立てる案件のはずだ。
だが、堀は涼しい顔で一枚の図面を広げた。
それは、陸軍が極秘裏に設計していた特殊船『R1(後の神州丸)』の概略図だった。
「永田君。単刀直入に言おう。
この『船尾から舟艇を発進させるシステム』……海軍に売ってくれんか」
陸軍の技術将校たちが色めき立つ。
「なっ! これは我々が苦心して考案した、上陸作戦用の……」
「分かっている」
藤本が、興奮気味に割って入った。
「素晴らしいアイデアだ! 船内にレールを敷き、船尾のハッチから次々と舟艇を滑り落とす(泛水)。
我々海軍の発想にはなかった。クレーンで吊り下ろすより遥かに速く、荒れた海でも運用できる。
……まさに『コロンブスの卵』だ」
海軍本職の造船官からの手放しの絶賛に、陸軍の技術者たちは戸惑いながらも悪い気はしなかった。
「……それで、海軍はこれで上陸作戦でもする気か?」
永田が目を細める。
「いいえ。『監視』です」
堀は、もう一枚の図面を重ねた。
フランスから導入した『ロレーヌ魚雷艇(長距離偵察型)』の図面だ。
「この高速艇は、30ノットで敵を振り切る優秀な目ですが、航続距離が足りない。太平洋の真ん中に張り付くには、母艦が必要です。
……そこで、君たちの『R1』だ」
藤本が、図面を弾いて見せた。
「ロレーヌ艇の全長は約20メートル、重量20トン。
これは、貴軍が開発中の『装甲艇(AB艇)』とほぼ同サイズです。
つまり……『R1』の格納庫とレールは、そのまま海軍の魚雷艇の母艦として流用できるのです!」
陸軍側がどよめいた。
「奇跡的な適合」だった。陸軍が戦車を運ぶために設計した船が、海軍の高速艇を運ぶのに最適なサイズだったのだ。
「……なるほど」
永田は顎を撫でた。
「海軍は我々の設計した船を使って、太平洋に『動く監視哨』を作りたいわけか。
……だが、我々に何のメリットがある? 設計図を渡して終わりか?」
「とんでもない」
堀は、懐から小切手帳を取り出した。
「この『海軍版R1』の建造費は、全額海軍が出します。
さらに……『技術指導料』および『設計ライセンス料』として、同額の資金を陸軍に提供しましょう」
永田の目が大きく見開かれた。
「……つまり?」
「海軍が1隻作る金で、陸軍は『タダで』自分たちのための1隻を作れるということです。
……あるいは、その金で『飛行機を飛ばせる揚陸艦(後のあきつ丸)』の研究を前倒ししてもいい」
それは、陸軍にとっても夢のような提案だった。
優先順位の都合上「R1」の起工は先送りされていた。それが海軍の財布で即座に実現するどころか、お釣りが来る。
「……それに」
堀は声を潜めた。
「この船は、平時は海軍の『魚雷艇母艦』として運用しますが……有事には、陸軍の『上陸用舟艇母艦』としてもお貸しできますよ?
何しろ、中身の規格は同じなのですから」
永田は即決した。
陸軍の本分は、あくまで『地』だ。
トラックの件といい、合理性の塊のようなこの取引を、断る理由は1ミリもなかった。
「……商談成立だ、堀局長。
陸軍船舶部の全技術を、海軍に提供しよう」
⸻
時:1930年(昭和五年)、秋
場所:茨城県・霞ヶ浦海軍航空隊
霞ヶ浦の空は、茜色の複葉機――三式初歩練習機(赤トンボの前身)の大群で埋め尽くされていた。
その数は、例年の倍以上。
滑走路脇では、海軍航空本部から視察に訪れた山本五十六少将と、若き後のエースパイロット・源田実大尉が、その光景を眺めていた。
「……信じられません」
人が足りず、予定より半年早く大尉に昇進したばかりの源田は、上空を見上げて呻いた。
「予科練の第一期生……本来なら79名しか採らないはずが、今年は500名を入れたと聞きます。
これだけの人数、誰が教えるのです?
我々現役の搭乗員は、空母の離着艦訓練や、新型機のテストで手一杯です。新人を手取り足取り見る暇などありません」
源田の言葉は、当時の海軍航空隊の常識だった。
操縦とは「選ばれたエリート」のみに許された特権的技能であり、先輩から後輩へ、拳骨と共に一対一で継承される「秘伝」だったからだ。
「だから、彼らを呼んだのだよ」
山本は、滑走路の端を指差した。
そこではカーキ色の飛行服を着た教官が、予科練習生たちを怒鳴りつけていた。
だがその言葉遣いは、海軍のそれとは微妙に違っていた。
「おい貴様! スロットル操作が雑だ!
エンジン音をよく聞け! 機械と対話しろ!
……精神力で飛ぶんじゃない、理屈で飛ぶんだ!」
源田は眉をひそめた。
「……陸軍あがり、ですか。
聞けば、トラクターと引き換えに来た連中だとか。
海図も読めず、洋上航法も知らぬ“陸の鷲”に、海の荒鷲の卵が育てられますか」
「源田君。君は泳げない人間に、いきなり遠泳を教えるか?」
山本は問いかけた。
「まずはプールで顔のつけ方、手足の動かし方を教えるだろう。
……彼ら(元陸軍パイロット)の任務はそれだ。
『飛行機を離陸させ、空中で制御し、安全に着陸させる』
この基礎動作に関しては、彼らは僕たち海軍士官よりも、よっぽど教え方が丁寧で論理的だ」
山本は、教範のカリキュラム表を見せた。
【前期教育(12ヶ月):担当・陸軍転籍教官】
・基礎操縦法
・編隊飛行訓練
・機体整備学
【後期教育(6ヶ月):担当・海軍教官】
・洋上航法
・空母発着艦
・雷撃および爆撃
「見ろ。本来予科練の育成は3年かかるはずだった。
だが基礎教育を彼らに“外注”することで、期間を半分に圧縮できる。
君たちベテランは、基礎ができあがった生徒に、海軍の戦い方だけを教えればいい」
源田は、なおも食い下がろうとした。
「しかし、海軍魂が……」
その時、上空から3機の練習機が降りてきた。
見事な編隊着陸。翼と翼が触れ合うほどの密接隊形を保ったまま、滑るように接地する。
降りてきたのは陸軍上がりの教官と、まだ飛行時間50時間台の練習生たちだ。
「……なんてこった」
源田は絶句した。
「あの練度……海軍なら300時間は飛ばないと無理だぞ」
教官が、生徒たちに訓示している声が聞こえる。
「いいか! 空戦は一人でやるもんじゃない!
僚機を守れ! 編隊を崩すな!
敵を一機落とすより、味方を一機連れ帰る方が価値があるんだ!」
それは、「個人の武勇」を尊んできたこれまでの海軍航空隊には希薄な「組織戦」の思想だった。
「……源田君」
山本は、ニヤリと笑った。
「陸軍は『集団で戦う』プロだ。
彼らの教えを受けた生徒たちは、最初から『編隊空戦』が身についている。
そこに、君たち海軍の『洋上技術』と『一撃必殺の技』を上乗せするんだ。
……個人技の海軍と、組織力の陸軍。
この二つが混ざり合った時、世界最強の航空隊が生まれると思わんか?」
源田は唇を噛み締めた後、深く息を吐いた。
目の前で行われているのは、職人芸の否定ではない。職人芸を量産するための、産業革命だった。
「……参りました。
東郷大佐はカネで『技術』を買っただけじゃなく、『新しい血』まで買ってきたのですね」
「そうだ。
これなら今後、年間1,000人、いや2,000人のパイロットを養成できる。
飛行機はある。燃料(南米石油)もある。そして人も育つ。
あとは、君たちがどう戦うかだ……言い訳は許されんぞ」
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