役割分担
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:東京・霞が関 海軍軍令部・第一会議室
その日の会議室は、重苦しい沈黙と、そして一人の男の怒気によって支配されていた。
潜水艦戦術の第一人者であり、強硬な艦隊派の筆頭、末次信正中将である。
ロンドン海軍軍縮会議も大詰めを迎えていた。
だが、日本の本国では、条約の数字よりも深刻な「身内の喧嘩」が勃発していた。
「……待たれよ! 空母が主役になるのは百歩譲って認めよう。
だが、それでは我が潜水艦隊はどうなる!?」
末次の目は血走っていた。
彼が心血を注いで磨き上げてきた「漸減邀撃作戦」。そのシナリオでは、潜水艦こそが太平洋を横断してくる敵主力艦隊を奇襲し、戦力を削ぎ落とす「第一陣の切り込み隊長」だったはずだ。
「敵艦隊が来ない? 待ち伏せが成立しない?
ならば我々は、何のために狭い艦内で油と汗にまみれて訓練してきたのだ!
敵の商船を沈めるなど、二線級の任務だ!
我が精鋭なる潜水艦乗りたちに、そのような“海賊の真似事”をさせて、武人の士気が保てると思うか!」
その怒号に対し、連合艦隊司令長官に赴任したばかりの山本英輔は静かに、しかし冷徹に一枚の地図を指し示した。
日本から太平洋を斜めに横断し、南米チリ・ペルー、そしてパナマ運河へと伸びる、細く長い「資源航路」だ。
「末次君。君はまだ、日本海の中だけで物事を考えているのかね」
「何?」
「東郷が南米を買収したことで、我々の『守るべき庭』は、地球の裏側まで広がってしまったのだよ」
山本は、赤鉛筆で航路をなぞった。
「この航路は、銅と石油に硝石、鉄鉱石を運ぶ、帝国の動脈だ。ここをアメリカの潜水艦や巡洋艦に切断されれば、我々は干上がる。
……連合艦隊主力は、敵の喉元(通商路)を食い破るために遠征する。
ならば留守になる本国と、この長大な動脈を誰が守るのだ?」
室内に、重苦しい沈黙が落ちた。
東郷一成が作った「経済圏」は日本を豊かにしたが、同時に守るべき「腹(急所)」を地球の裏側に晒すことになったのだ。
「……ならば、どうする」
末次は呻いた。
「艦隊主力を南米まで派遣する燃料などないぞ。いや、燃料はあるが……距離がありすぎる」
山本は、末次の前に二種類の新しい設計図案を置いた。
「これまでのわが潜水艦隊は中途半端だった。遠洋に出るには足が短く、近海で使うには鈍重すぎる。
……だから、分けるのだ」
提案1:遠洋通商破壊・哨戒型(イ号改・巡洋潜水艦)
「まず一つ目。シェルから買い取ったタンカーの『ヴェルクスプール・ディーゼル』と、アメリカの技術を融合させた、超長距離型だ。
狙うのはパナマ運河の出口や、アメリカ西海岸の港湾だ。
彼らの商船を沈め、心理的圧力をかけ、敵艦隊を分散させる『狼』だ」
提案2:局地防衛・海峡警備型(新型呂号・沿岸潜水艦)
「そして二つ目。これが肝心だ。
今の呂号を代替するような、小型で、急速潜航が可能で、静粛性に優れた『番犬』だ」
山本はまず、津軽海峡、宗谷海峡、そして南西諸島の海峡部とバシー海峡に印をつけた。
「主力艦隊が出払った後、日本の玄関口を守るのはこの艦だ。
過剰な航続力はいらん。その代わり、敵の潜水艦や通商破壊艦を絶対に通さない『聴音能力』と『瞬発力』を持たせる必要がある」
末次は図面を睨みつけた。
そこには、彼が今まで求めていた「艦隊決戦の道具」としての潜水艦の姿はなかった。
あるのは、「経済戦争の道具(通商破壊)」と「兵站防衛の道具(海上護衛)」としての、極めて実務的な兵器の姿だった。
「……武人の本懐ではない、と言いたいか?」
山本が問う。
「……いえ」
末次は、長い沈黙の後に首を横に振った。彼は狂信的ではあったが、無能ではなかった。
南米からの資源が途絶えれば、海軍、いやひいては日本そのものが動かなくなることを理解していた。
そういった末次は、渋い顔で二枚の図面を見比べた。
一枚は、日本国産の誇りである『海中六型(呂33型)』。
もう一枚は、英国ヴィッカース・アームストロング社製の『S型(S-class)』潜水艦。
「……そしてその候補がこれか。本気で呂号を捨てて、このイギリス製の豆鉄砲を採用しろと言うのか?」
末次のプライドは傷ついていた。海中型は、日本が独力で開発した高速潜水艦だ。それを捨てて、なぜ今さら英国製に戻る必要がある。
S型の水上速力は13.75ノット。呂33型の19ノットに比べれば、亀のような遅さだ。
これまで沈黙を守ってきた堀悌吉軍務局長は、茶を飲み干しながら淡々と切り出した。
「捨てろとは言いません。ただ『役割分担』を変えるのです」
「末次閣下。我々の主戦場は、もはや日本近海ではありません。パナマ、ハワイ、そしてインド洋です。
そこへ行くには、大型の『伊号』が必要です。
しかし、ドックの能力と人員には限りがある。中型の『呂号』にまでリソースを割いていては、肝心の『伊号』の整備が遅れます」
堀は、S型の図面を指先で弾いた。
「そこで、こいつです。
速力は呂号より遅い。そして狭い。
ですが、急速潜航は30秒。故障知らずのヴィッカース・ディーゼル。そして何より……」
堀は、一枚の報告書を末次の前に滑らせた。
タイトルは『南方海域ニオケル、ディーゼル機関及ビ居住環境ニ関スル比較調査報告』。
「……先日、シェルから購入したタンカー『足摺(旧フォボス)』に便乗させた、潜水艦隊の機関長たちからの報告です。読んでいただけますか」
末次は不機嫌そうに頁をめくったが、数行読んだところで手が止まった。
『……赤道直下ノ機関室温ハ摂氏45度ヲ超エルガ、シェルノタンカーハ換気装置ト冷却水循環ノ設計ガ優秀デアリ、機関員ノ疲労ハ最小限ニ抑エラレテイル』
『一方、比較対象トシテ随伴シタ伊号潜水艦ハ、艦内温度50度、湿度95%ヲ記録。乗員ノ半数ガ皮膚病ト熱中症ニ罹患シ、判断能力ガ著シク低下。急速潜航訓練ニオイテ、反応速度ガ平時ノ二倍(遅延)ヲ記録セリ』
「……なんだこれは」
末次が唸った。
「精神力が足りんのか? 暑さごときでバテるとは」
「精神力ではありません、閣下。物理的限界です」
堀は、別のデータを提示した。
『英国S型潜水艦ノ最新鋭ハ、フロンガス式空調ヲ試験装備シ、熱帯海域デノ長期哨戒ヲ可能ニシテイル。
対シテ我ガ海中型ハ、空調ナシ。真水生成能力モ排熱依存デ潜航中ハ造水不可。
……結論。現在ノ装備デハ、南米ヤ南洋デノ通商破壊戦ハ、敵ト戦ウ前ニ“暑サト渇キ”ニ敗北スル』
堀は冷徹に告げた。
「閣下。我々が今後目指すのは、パナマやインド洋での長期作戦です。
今の呂号や海大号では、あそこまで行って帰ってくるだけで精一杯です。戦果を挙げるには、乗員を生かしておかねばなりません」
「……エアコンだと?」
末次は呆れた。
「潜水艦に冷房なぞ、贅沢品ではないか。スペースの無駄だ」
「いいえ。これは『兵器』です」
堀は、イギリス海軍の極秘レポート(スパイが入手したもの)を指差した。
『Skelton's Law(スケルトンの法則):最も快適な船を持つ側が勝つ』
「イギリス人は知っています。快適さは贅沢ではなく、戦闘持続能力そのものだと。
……南洋の海で、本当に怖いのは敵の駆逐艦ではありません。『暑さ』と『音』です。
呂号は速いですが、うるさい。そして暑い。乗員がバテて、敵に見つかれば逃げられない。
対してS型は、遅いですが静かです。そして涼しい。
急速潜航時間30秒というのは、呂号の半分です。潜れば消える。
……通商破壊の哨戒任務において、どちらが生き残ると思いますか?」
末次は沈黙した。
彼の脳裏に、かつての部下たちが汗と油にまみれ、疲労で目の焦点が合わなくなっていく姿が蘇る。あれを「精強」と呼んでいいのか。それは単なる「消耗」ではないのか。
「……それに」
山本英輔はニヤリと笑った。勝負師の顔だ。
「『安い』のだ。
不況で死にかけているヴィッカース社は、工場を維持するために、実費割れでもいいから注文が欲しいと各国に泣きついているそうだ。
我々が国内で呂号を一隻作る金で、S型なら二隻買える」
「……安物買いの銭失いにならんか?」
「いいえ、閣下。
シェルから買ったタンカーで実証済みですが、英国の居住性への拘りは本物です。さらに今の我々には、インチ規格に対応した工作艦と、技術指導者として招いたアメリカ人技師、熟練工がいます。
……それに、これを見てください」
堀は、S型の発射管配置図を示した。
「艦首魚雷発射管、6門。呂号は4門です。
一撃必殺の火力なら、S型の方が上です。
……もしこれに、我々が開発中の『第二空気(酸素)魚雷』を積めるように改造したら?」
末次の目がギラリと光った。
静かで、潜るのが速く、涼しくて、そして酸素魚雷を6本斉射できる小型艦。
それは、奇襲攻撃において最強の「暗殺者」になる。
「……またイギリスは『リベット打ちのサドルタンク式』で、深度90メートルを実現しています。将来的に全溶接化すればさらに安全深度105メートルを実現できる見込みだとか。
我々のリベット打ちでは75メートルが限界。
……この差は、爆雷攻撃を受けた時の生死を分けます」
「さらに、光学機器。
イギリスのバー&ストラウド。彼らの潜望鏡は、我々のものより遥かに明るく、距離測定も正確です。
……これらも全て、今なら買えます」
堀は、末次の目をまっすぐに見つめた。
「末次閣下。
こういった性能差を精神力でカバーしろと言うのは、カネがない時の言い訳です。
今の我々にはカネがある。技術もある。
……部下たちに、最高の武器と、最高の環境を与えてやってください。
それができるのは、潜水艦の神様である貴方だけです」
末次は天井を仰いだ。
そして、長く深い息を吐き出した。
「……分かった。認めよう」
彼は、S型の図面をテーブルに叩きつけた。
「買え。次期計画の『巡潜』……いや、全ての新型潜水艦に、空調と造水装置、そして最新の溶接技術と光学機器を導入せよ。
予算は……東郷の財布から出させろ」
「はっ!」
「その代わり!」
末次は、もう一枚の図面――大型潜水艦『伊号』の設計図を掴み上げた。
「浮いた金と技術者を、全て『伊号』に集中させろ!海軍休日の数年間で、アメリカ人技師からも技術を全力で学べ!
中型艦はイギリス製でいい。だが主力艦は、世界最強でなければならん!
アメリカ西海岸まで無補給で往復し、敵戦艦を葬れるだけの牙を持たせるんだ! 分かったな!」
その日、日本海軍の潜水艦ドクトリンは、「速力偏重」から「生存性と火力重視」へと大きく舵を切った。
そしてその転換を支えたのは、かつて「贅沢品」と切り捨てられてきた「冷房」という名の兵器だった。
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