さかしま
竜王の姿は忽然と消えてしまった。まただ。以前も同じやり方で俺の前から姿を消したのは記憶に新しい。
なんの魔法だ。それにしても信じろか。よく俺に向かってそんな大言壮語が吐けたものだ。
通常、三十段以上ある階段から落ちれば怪我は免れない。真上から見下ろすと傾斜のきつさがよくわかる。
「カタツムリは足が速い」
精神を統一し、自分に言い聞かせる。
「竜王は正義の味方」
俺は竜王を信じ、階段から足を踏み外した。
そうだ、この世界は逆さまにできている。あいつが真逆の存在を司るならば、この階段は落ちるためではなく駆けあがるために存在するはずだ。
風景が乱暴に跳ね周り、俺の体をかみ砕く。
痛みが限界を超え、俺の意識は容易に途絶した。
こめかみに刺すような痛みが走る。目を開けて自分の状態を確認してみたが、目立った外傷はなかった。頭痛も引いてきた所で、服を叩いて立ち上がる。
俺の背後には境内へと続く階段が聳えていた。竜王を追って階段から転げ落ちたらしい。単純な挑発に引っかかり危うく命を落としかけたというわけか。
「イタズラがすぎるぞ、竜王」
どこまで本当の話か疑わしくなる。ことによると全てか。俺をたばかるとは良い度胸だ。当初の目的とは違うが警察に出向くことになりそうだな。
耳元に生ぬるい息を吹きかけられた気がして振り返る。誰もいない。風でも吹いたか。再び階段に目を向けると、見知らぬ人物が目に付いた。真夏なのにフード付きの黒いロングコートを着て階段の中腹に立っている。フードを被っているせいで自信はないが目線は俺に向いているような気がする。
ピアノの鍵盤を弾くような軽快な足取りで、コートの人物が下りてくる。近づいてくるにつれ、その異様な姿から目が離せなくなった。コートには所々泥のような汚れが目立った。右手に棒状の何かを握っているが、ギリギリまでそれが何なのかわからなかった。
残り十段を切ろうとした時膝を曲げ、階段から飛び降りてきた。着地を考えないような無謀な飛び方だ。安全なはずの俺の方に冷や汗が出る。抱き止めようと腕を広げたが、そのまま後ずさっていた。
棒の先端が光を反射している。目を細めて見るまでもなく、斧の凶刃が俺の脳天を狙っていた。
「うわっ……!」
ズシンと、腹の底に響く音がして、俺の足下の土に刃が刺さった。後ずさりの最中、尻餅をついたのが幸いして避けられた。
フードの下から過呼吸に近い荒い息が聞こえてくる。こいつは、危険人物だ。
斧が深く刺さったのか、抜くのに苦労している。逃げるには絶好の機会に思えた。
ところが俺はミスを犯した。相手のフードを取って正体を暴いてやろうとしたのだ。これに相手は激しく抵抗し、俺は頬を殴りつけられた。
生まれて初めて顔を殴られた俺は、怒りと恐怖に我を忘れた。脳の調節弁が狂い、次なる痛みに怯える羽目になった。がむしゃらに腕を振り回し、痛みを回避しようと足掻いた。
感情に任せた単調な動きは、逆に利用されてしまう。
敵は俺の腕を取ってねじり、引き倒そうとしてくる。俺が腕に力を込めるとがら空きの足を蹴り上げられ、転倒した。
起きあがろうとすると、鼻先に斧を突きつけられた。脇に冷たい汗が滴る。日常において命の危険を感じる機会は少ない。自転車に接触しそうになってひやっとする程度か。
そんなこととは比べものにならないほどの差し迫った脅威に、肝を潰して動けなかった。
狙いすまされた斧が降り下ろされる。その時、目を閉じ顔を背けるだけだった俺を救う者が現れた。
「エチカ、やめなさい!」
鋭い制止の声に襲撃者は固まり、俺はその間に距離を取ることができた。聞き覚えのある声の元に這っていく。
俺を助けてくれたのは竜王だったが、先程とは違い、和服に下駄を履いている。
「竜王……、なのか?」
「他にいないでしょ。どう? VAFの感想は」
俺の目は未だコートの怪人に魅入られたままだ。肩をだらりと垂らし襲ってくる気配はなかったが、湿った殺気はそのまま俺を貫いている。
指一本動かせない緊張感の中、怪人が手の甲を顔の位置に引き上げた。汗でも拭こうとしたようだが、フードを押し上げて素顔を露わにした。意図せぬ動きだったのだろう。怪人本人が一番驚いていた。
怪人の正体は、年端もいかぬ幼女である。
アッシュブロンドの髪は厚みのある前髪を形成し、流麗な眉目、幼いながらも整った顔立ちは一目瞭然だった。
彼女の薄紅色の唇が儚く震えている。先ほどまで斧を振り回していた怪人と同一人物とは思えない。
「お前……、可愛いな」
俺が思わずつぶやくと、幼女がはにかんだように見えた。俺もつられて顔を綻ばせる。きっとこれは夢だ。金髪幼女が斧を振り回したり、竜王がコスプレをしていたり脈絡がなさ過ぎる。やれやれ俺の空想癖もなかなかどうして憎い采配をしてくれる。
天使のような顔をしていた幼女が、突如白目を剥いた。そして頭部を上下に振り、怪鳥のような叫びを上げて嘔吐した。
「オォエーッ!」
流動性のある何かが、幼女の口から溢れる。いくら現実離れした容姿をしていても彼女は俺と何ら変わらない人体構造をしているとわかり、安心する。そうとわかった途端、俺の胃までもが逆流の兆候を見せ始めた。貰いゲロという奴だ。こうなったら幼女一人に恥をかかせてなるものか。
「ちょっと君までなにやってんの! なんか私まで……、うっ!」
続いて竜王も木の陰に駆け込み嘔吐した。
俺たち三人はゲロを吐くことで共通の知見を得ることができた。
ゲロを吐くすなわち、同じ人類ということだ!




