第三章ノ二
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「アーリアよ、アーリア・ジーライン」
街へ到着し、ノアとセトの二人は、もののついでにと、女、アーリアの自宅まで岩を運んでやった。
「感謝もするし、お礼もするわ。でも先にやらなきゃならないことがあるから、また後で」
そう言ってさっさと家に引っ込んでしまった。
「また会おう、ってことかな?」
「みたいだな」
セトはアーリアのことを少し苦手に思っているようだった。しかし、万が一の間違った解釈を嫌い、僭越ながらも説明させていただくと、苦手と嫌いは決して同義ではない。セトはただ、彼女のどこか冷めたように世を見つめる目が苦手なだけで、性格や容姿などに特別な感情は抱いていない。
ノアの方はというと、年頃の青年らしく素直に喜んでいた。それを隠そうとするのは素直ではなかったが、セトに小肘で脇をつつかれるとすぐにボロが出る程度の張りぼてだった。
「アルル族の女だけはやめとけよ、顔は綺麗でいつまでも若いけど、恋人は芸術だけなんだからよ」
ノアは焦って否定するが、説得力など欠片も無い。蒲公英の綿毛のように吹けばすぐに丸裸だ。
大義というか、義務感というか。普通の青年には戻れないとわかっていても、普通の青年としての日常を味わいたいという気持ちが無いと言えば、それはやはり嘘になってしまう。理解しているし、納得もした。自分でそうあることを決めた。父を殺めたあの時から、ノアの人生はククのために続くのだ。
湧き上がってしまった気持ちには蓋をしてしまわなければならない。蓋をするまでの間の少しだけ。この街にいるほんの少しの間だけ、普通の青年の気持ちを味わうのだ。
こんなことにならなければ、ノアはもっと自由であっただろう。自由に恋をしていたのだろう。今だけは、どうか許してやって欲しい。
「じゃ、俺たちも始めようぜ」
「勝負、だな」
「今度は負けねえよ……」
二人は睨み合い、各々が岩を引きずって街のはずれに向かった。
前回、ノアとセトの闘いは闘技による肉弾戦だった。結果はご存知のとおり、僅差でノアの勝利だった。今回の勝負は、『彫刻』だ。今度は体力ではなくセンスが問われる。一週間後の展覧会でどちらが高評価を得られるかという、素人らしい馬鹿馬鹿しい勝負だ。彼らはきっと、アルル族の技術を舐めているのだろう。当然ながら、芸術を称えるアルル族の展覧会は、素人が食い込めるレベルではないのだ。
だが、彼らは予想外にも健闘することになる。賞を取るにはとどかなかったが、それでも各々にコメントが貰える程度には。
それというのも――
「探したわよ」と訪ねてきたアーリアの協力があったからだ。
「それで、何を作っているの?」
彼女はわざわざ、街の端と端に別れたノアとセトのところを訪れ、アドバイスを残してくれたのだ。
セトには――
「あなたもしかして、素手でこの岩、割ったりできない?」
「できるに決まってんだろ。クラウニン族をなめんじゃねぇ」
「それじゃ、やって」
「……割るだけか?」
「割るだけよ」
「?」
「タイトルは『衝動』にして出してね。紹介文は書かなくていいわ」
ノアには――
「あなた、変わった剣を持っているわね」
「……わかるのか?」
「好きな図形ってある?」
「図形? ……丸、かな」
「じゃあ、発表までの日を全て球を作ることにあてなさい」
「球を?」
「ただし、丸く削ろうとはしないで。絶対に直線だけで球を作ること。その剣ならできるでしょ」
「?」
「タイトルは『太平』あとは小難しい紹介文でも書いておけばいいわ」
――と、こんな感じだった。
何を作ればいいのかわからずに右往左往していた二人には渡りに船というもので、他に頼るものもないのでアーリアの指示通りに作品を完成させた。
セト作『衝動』 紹介文 無し。
コメント『この作品は、花崗岩に素手で穴を開けるという大胆な製法で作られている。道具を用意する暇もなくぶつけられたこの「衝動」が見どころだろう。穴の周りに飛び散った血が人間の持つ「衝動」という荒々しい暴力を表現している。そのアイデアは素晴らしい。』
ノア作『太平』 紹介文 「乱世」という岩を「太平」という真円に向けて少しずつ削るが、人はそこまで器用ではない。どれだけ器用に削ろうとも、やはり角は残ってしまう。この「太平」は、人の目指すべき本当の「太平」なのだ。
コメント『真円を目指して削り続けた岩は、数えきれないほどの面を持つ多面形になっている。断面は鏡面のように磨き上げられ、それが太平へ向かう人々の努力を表現している。理想から一歩引いた現実的な「太平」は、作者の冷静な目線を感じさせる。評価されるべきアイデアであると言える。』
作品に付けられたコメントを見た二人の感想は、全く同じものだった。芸術の皮肉というか、学者の深読みというか『そんな意図は全くなかった』と語るのである。事実、二人はアーリアの指示に従って制作したに過ぎない。考えていたことなど「なぜこんな事をしているのだろう」ということくらいだった。つまり、これはもうアーリアが他人の手を使って作った作品と相違ないのである。
二人の勝負は有耶無耶になってしまった。
「結果は上々みたいね」
アーリア・ジーラインは得意げに腕を組み鼻を鳴らした。ノアとセトは、感謝と戸惑いの入り混じったような苦い表情をもって彼女を見た。この皮肉めいた二つの作品を口だけで作りあげてしまったアーリアに畏怖を抱かなかったのは、彼女の仕草や表情にどこか子どものようなあどけなさがあったからだ。
「お陰様でね」と皮肉を噛んだのはセトだった。何だかんだで楽しみにしていた彫刻を、台無しにされてしまったような気分がなかったと言えば嘘になる。
「正直、見向きもされないと思ってたけど」と、語るノアは嬉しそうに頬を緩ませた。アーリアと出会ってからの彼は彫刻対決にも俄然乗り気になり、この一週間、疑問を抱きつつも夢中で岩を削り続けた。それは芸術を楽しむと言うよりは、削り終わった後、アーリアと出会うことを目論んでのことであった。その目論見は見事果たされたわけだ。
「ただの岩と球に賢そうなコメントついてたけどよ、俺にはこれが彫刻だ、ってのはどうしても思えねえよ。やっぱ、人とか動物とかの方がしっくり来るぜ」
「芸術なんてそんなものなのよ」
ため息をつき、呟いた。憂いた瞳は月を映したサファイヤのように美しく、アンニュイな雰囲気が艶かしく周囲の注目をひいた。
「別に何でもない風景や物を絵に描いたり、曲にしたり。はたまた文字にしてみたり像にしてみたり、ね。結局は何でもない風景や物なのにね。でもね、そこに何を見出すかというのが芸術だったりするのかもしれないな、とは思うのよ。つまり、『何も無いところから何を感じるのか』って言うのが芸術ってこと。朝に日が昇るのは、この世界にとって不変で絶対、当然で当たり前の事なんだけど、そこに何らかの情緒を感じる人もいるの。きっとこれが芸術の入り口。『当たり前の事の筈なのに情緒を感じてしまった』この感動を誰かに伝えたいから絵に描いたり、曲にしたり、文字にしたり像にしたりするのよ。そういう当たり前の事に何かを感じる人達だからこそ、あなた達の作品も評価されたのよ」
ただの岩と球でもね、と再びため息をつくが、その表情には抑え切れない喜びが滲み出ていた。呆れたような憂慮したようなポーズを作ってはいても、こうして芸術のあり方に悩んでいることが楽しくてたまらないのだろう。芸術を称えるアルル族を体現したような女だ。
しかし、これで彼女が部族内でも変わり者扱いされているのは、彼女の活動が多岐にわたっているからであった。アルル族とはいえども芸術の道は深く長い。通常はひとつに絞って突き詰めるようだが、ところが彼女は何でもやる。文字通りに。彫刻、絵画、音楽、文学、王道は全てを網羅したと豪語する。そして彼女の発表する作品は分野を問わず素晴らしいものばかり。多岐にわたって尚、一級品を生み出すのである。
そんな彼女を指さして、いつしかアルル族の中でささやかれるようになった噂がある。「きっとあの女は世界の全てを描き尽くしても己を見つけることは出来ない」というものだった。アルル族の口伝の中には「己を表す為には最も相応しい方法が必ずある」という旨の言葉がある。アーリアが全てを得意とする以上は、表現すべき己というものを見つけることができないだろう、ということだ。そして現に、彼女の作品は一級品ではあるが、どこか物足りない、余白のようなものを残していた。そのせいあってか、展覧会で頂上に立ったことは一度もなかった。
今日までは――
会場に、大賞の表彰を行う旨の声が響いた。集合し、客はそれぞれに手を打った。壇上に進み出たのはアーリア・ジーラインその人だ。彼女は大賞の賞品と、族長の証であるフィルマーの腕輪を受け取り、客に向かってこう言った。
「改めまして、本日族長になりましたアーリア・ジーラインです。よろしくね」
客に混じって手を打っていたノアは、彼女の笑顔が自分に向けられたものだと勘違いして赤くなっていた。この時点ではまだ気づいていないのだ。
彼女が己の作品に込めた思いに――
作品は、今にも飛び立とうとしている鳥の彫像だった。