10 新月は廻る
「桜花、迎えにきたよ」
忘れたくても忘れられないお方が傘を差し出し微笑んでいる。同じ人でありながら、こんなにも綺麗な顔をした男子を見たのは初めてだった。恐れ多いというよりもこの世のものとは思えない神々しさを感じたのを思い出す。この世の不平等は生まれた時から始まっている。
これは夢であることに変わりはないだろうとその顔を見つめながら桜花は思った。
何故なら桜花は、---死んでしまったのだと思い込んでいたからだ。
死んだら人はどうなるのか、様々な言い伝えが語り継がれてきた。
あるものは生まれ変わりを信じ、あるものは楽園の存在を信じた。善行を徳として正しく生きたその先には必ず神のお導きがあると教祖は信者に説いて聞かせた。刹那の今生で救世主は迷える民を信者に変えていく。その日を生きるのに精いっぱいの貧民にはそんな世迷い事が微かな希望の灯だったのだ。
桜花も死後の世界を考えない日はなかった。
あの世に旅立った両親は、死んでからも尚、腹を空かせて悲しい思いをしてしているのではないか。日も当たらない暗闇の中で、生まれ変わるその日までじっと息を潜めて耐えているのではないかと考えていた。
「世子様、人は死んだらどうなるのですか」
「難しい問だね。死んだ者はこの世に存在しないから、想像でしか語ることは出来ない」
「でわ、誰も本当のことは分からないのですか? あの世は誰もが平等で、自由に暮らせる楽園ではないのですか」
「どうだろうか。あの世が楽園だとしたら、この世の苦しみから逃れたいと自害する者が後を絶たないだろう。死後の世界を楽園だと夢に見て生きるのが正しいことだとは思えない。この世は生きるに値する素晴らしい世界だと私は信じているよ」
「生きるに値する世界」
「これは逆説になるけれど、どうして命は生まれてくると思う? この世に存在するあらゆる命はお互いを支えている。生が命を奪い、奪った命で生を支えているんだ。生きるから死はやってくる。つまり死が訪れない限り命は生まれない。命の連鎖だよ。せっかく生まれたんだ。死後の世界を夢に見る前によりよく生きなければ、死ぬことも出来ないだろう」
教えの通り、精一杯桜花は生きた。
尊宮の役に立ちたくて与えられた仕事を無我夢中で成し遂げた。最後は惨めな死に様だったかも知れないが後悔はない。
そうして辿り着いた死後の世界は桜花を苦しみから解放してくれた。
桜花を侮辱し虐げる者は誰もいない。
明朝から起き出し冷たい水を汲み拭き掃除に追われることもない。桜花を優しく支えてくれる友に、可愛がってくれる妃。衣食住は不足なく、空腹に眠れぬ夜も来ることはない。
あの世は楽園であった。
それなのに、ひと度尊宮を目の前にすると心が痛む。
尊宮の成し遂げようとしていた理想の世界を見届けることが出来なかった無念が過る。思い出すのは何故か楽しかった事ばかりだ。
尊宮と見上げた夜空に輝く星たちの宴。
四季折々の美しい風景。
賑やかに花が咲き、散りゆく儚い姿。新緑の葉が風にゆれる様。一日たりと同じ姿を見せず絶えず変化する大空。
命の連鎖を幾度となくこの目に焼き付けてきた。
季節の中に人も生き、喜びや悲しみをあらゆる命と分かち合ってきた日々。
それが生きる力だった。
ここにはそれらは何もない。
悲しみが訪れることはないが喜びも湧いてこない。中身の伴わない上辺だけの楽園。
ここにいる優しい人たちもまた幻でしかないのだ。
「桜花、私と帰ろう」
尊宮の言葉が一層桜花を悲しくさせる。
空が泣いているのか、自分が泣いているのか桜花には区別が付かなくなっていた。
「私は、どこに帰ればいいのですか。私は死んだのです。あの子を助けるために毒を飲んで、死んでしまったのです」
死んだ身に帰る居場所は存在しない。後悔はないと言いながら二度と戻れぬ故郷を思うと悲しみが押し寄せてくる。桜花は痛みに耐えるように胸元の生地をぎゅっと掴んだ。
「私の手を取ってご覧。暖かいだろう。死人がこんな温もりを持っているはずがない。お前はこれからも生きていくんだ。死ぬなんて許さない。もう一度共に生きよう」
「私は、死んでいない---」
「そうだ。桜花は死んではいない。ただ眠りから覚めていないだけなんだよ」
ここはあの世でもなく、自分は死んでいない。
今だ混沌とする意識の中で夢を見ているのだという。
夢の中で生きている。
悲劇はいつから始まったのだろう。
王宮に渦巻く人の業の深さに恐れを抱いた時から心は逃げ出していたのかも知れない。
楽になりたいと心の隅に闇を抱えていたのはずっと前からだっただろうか。
「こんな弱い愚かな人間が、生きることを許されるでしょうか」
「私のために生きて欲しいと言っても?」
「世子様のお志に遠い私に何が出来ましょう」
「それでもお前には生きていてほしい。お前が必要なんだ」
何時だって自信に満ち溢れ正しい道を雄弁に語っていた尊宮が今は見る影もなく沈んでいる。
尊宮の不安気な姿を桜花は見たことが無い。桜花のことなど見捨ててくれたらいい。王宮に働く下女の代わりなど幾らでもいる。
尊宮のために命を投げ出し、志の他にその体さえも捧げる人間はいくらでもいる。
それでも桜花に生きて欲しいという。
己の存在を認められ、必要とされる喜びが湧き上がってくる。
ただ一つの生きる理由がそこにある。
「私をもう一度信じてほしい。楽な道を歩むことがないように見守っておくれ」
差し出された手は桜花の欲しかった温もりを与えてくれる。
それだけで失った希望が輝き出す。
幸せは何も犠牲にしないで手に入れられるものではないのかもしれない。手放したものの数は知れないがそれ以上の幸せを掴んでみせよう。
よりよく生き、死んでいくために。
その為に、さあ、帰ろう。
共に苦難を乗り越えていく場所へ。
しっかりと重なったふたつの手を、何も語らず月は見ていた。
これまでと変わらず、ただ、見ていた。




