黒衣の少女
気持ち悪い
目覚め一番に抱く感想としては最悪だ。
頭蓋骨を砕かんばかりの圧迫感。
胃液を全て絞り出さんばかりの嘔吐感。
悪寒に身悶え、前後左右も分からずのたうちまわる。
暗闇に溺れていた視界は、強まる不快感と比例するように明るみを増していく。
だが、それを拒絶するように身体は苦痛を訴える。
目覚めなければ良かった。
激しい後悔が身を焼き、憎悪と嫌悪が胸を引き裂く。
それこそ永遠の眠りについた方が幸せだと思うぐらいに。
助けを求めて手を伸ばすが、掴んだのは無情に零れる砂。
もう一度伸ばせば、掴んだのは――とても冷たい手だった。
「お目覚めの気分はどう? 最悪でしょ」
鈴をころがすような声に顔を上げれば、一人の少女がしゃがみこんでこちらを覗いていた。
夕焼けの空を背に、吹く風に髪を遊ばれながら。
無様に這いつくばる俺の姿を気にも止めない様子で、少女はニコリと笑みを浮かべる。
「拒絶反応が起きてるみたいね……でも、その内落ち着くわ。安心して」
肩から零れる長い黒髪をやや五月蠅そうに片手で掻き揚げた後、包み込むように手を握り返す。
さらにもう片方の手で、俺の頬を撫でると浮かんだ脂汗を拭い取った。
「君は……?」
渇いた喉を酷使して、なんとか絞り出した声。
掠れ掠れで蚊の鳴くような声であったにも関わらず、少女はしっかりと応える。
「私? 私はベルヴィーよ」
首を傾げつつも少女は胸に手を当て、何の躊躇もなく名を明かす。
「ベル……うッ…うェ、ゲホッ! ゴホッ!!」
「無理に喋らない方が良いわ。余計な体力を使うだけよ」
急速に襲う吐き気に咽かえると、ベルヴィーは俺の背中を撫でて労わる。
その献身的な態度に疑問を覚えつつも、衰弱しきっていた俺はベルヴィーに身を預けることしか出来なかった。
××××××
「だいぶ落ち着いたかしら?」
「……おかげさまでね」
ぼんやりと地平線の彼方へ飲み込まれていく夕日を眺めながら、ベルヴィーの問い掛けに答える。
激しい悪寒も不快感もだいぶ和らぎ、今では立ち上がれるほどに体力は回復していた。
だが、時折ズキズキと頭が軋んで目が霞む。それにどことなく体も熱っぽい。
気を緩めば、また倒れてしまいそうだ。
なるべく安静を心掛けて手近な岩に腰を掛けていると、
「なにか飲み物でも欲しくなってきたんじゃない?」
さも当たり前に隣を座るベルヴィーが、身を乗り出して顔を覗き込む。
黒目がちで大きな瞳と長い睫毛。なんとなく直視するには気恥ずかしい
「いや……いいよ、今は何も口に出来ないから」
思わず目を反らして拒否すれば、不満めいた溜息が耳を撫でる。
けれども俺は振り返ることなく、足元で揺蕩う砂を一点に眺め続けた。
それは気恥ずかしい以外にも、彼女を見つめることに苦痛を伴うからだ。
けれど、苦痛と言っても彼女が見るに堪えない容姿だからじゃない。
むしろベルヴィーは、息を呑むほど美しく可憐な少女だ。
肌は陶磁器のごとく滑らかで、淡く朱に染まるさまが愛らしい。
今にも夕焼けに溶け込んでしまいそうだが、身に纏った黒衣が縁取るように華奢な肢体を浮き彫りにしていた。
なにより彼女の顔は実に見目麗しい。
ひとつひとつのパーツが、全て計算の上で整えられている。そう言っても過言ではないほどだ。
例えるなら――人形。どこか現実味を帯びない彼女には、その言葉がぴったりだった。
だが、何故そんな彼女に不穏を抱くのか。
自分でもはっきりとした答えは見つからない。
無邪気で無防備な、かよわき少女。
けれど、揺れる艶やかな髪は決して甘くない。錆びついた匂いがした。
「あーあー…折角気を利かせて、川から水でも汲んできてあげようと思ったのに」
厚意を無下にされたことに、未だ不満タラタラなベルヴィー。
ふと視線を寄越せば、苦言を零しながら宙に向かって両足を蹴り上げていた。
その度にふわりと裾が舞って細い素足が露わになる。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、俺は再び視線を彼方にずらした。
「川と言っても……そんなもの、どこにもないじゃないか」
ついでに360度周りを見渡してみるが、川の『か』の字すら見当たらない。
代わりに見えるものは、肩を寄せて並ぶ大岩に、風化した建物。
まるで生命の色を感じられない荒れ果てた大地に、そこから僅かに根を生やして頭をもたげる草花だけだった。
「一体ここはどこなんだ……?」
「どこか想像できる?」
質問に質問を返すベルヴィーは小首を傾げると、悪戯っぽくほくそ笑む。
一瞬口を噤んで黙するも、しばし考えて俺は口を開く。
「……少なくとも、日本じゃないってことだけはわかるかな」
けれどまるで見覚えのない景色に、漠然とそう答えるだけだった。
聞かれたところで、到底正解なんて導き出せるはずがない。
なにせわかることは、気を失う前に駅前通りを歩いていたことだけなのだ。
それなのに目覚めてみれば、見知らぬ荒野に放り出されているのだから堪ったものではない。
おまけに手荷物もすべて失っていた。鞄も竹刀も防具も全てだ。
唯一の手持ちと言えば、身に付けている学生服だけである。
普通だったら動揺してもおかしくない事態だが、如何せん大騒ぎするほどの体力は残っていなかった。
「ここがどこなのか率直に教えてくれないか」
「んー…そうね。教えてあげたいのも山々だけど、なんて言えば良いのかしら?」
はぐらしているのか、焦らしているのか
ベルヴィーは肩を揺らして曖昧に発言を濁す。どこか俺の反応を楽しんでいる節がある。
そして閃いたとばかりに人差し指を突き立てると、形の良い口唇に宛がった。
「あえて言うなら、あなたの知らない世界ってところね」
「俺の知らない世界……?」
「そう。あなたの理解、概念、思想全ての範疇から超える世界よ」
言いながらべルヴィーは勢いをつけて立ち上がると、後ろ手を組んで細足を泳がす。
「この先、あなたが出会うものは全て未知なるもの。でも、心配することはないわ」
ふわりと。黒髪をたなびかせて、少女は微笑む。
「あなたには私が付いてるわ。ずっと……ね、タツキ」
「どうして俺の名前を……」
「そろそろ時間ね」
俺の問いに答える気はないらしく、ベルヴィーはぴしゃりと話を打ち切る。
何かを探すように目を細め、遠く見つめていたと思えば不意に唇を歪ませた。
「ここから西に向かって」
太陽が落ちた場所から少し左にずらした方角を指差すと、
「そこにアレが居るから」
言うやいなや、ベルヴィーは裾を翻して駆け出す。
「ちょ、ちょっと待っ……ッ!?」
遠ざかっていく背中を引き留めようと立ち上がるが、足がもつれて敢え無く倒れ伏す。
腕を付こうにも、力が入らずもたつく。
倒れた衝撃で舞い上がった砂埃に咽かえりながらも、なんとか上半身だけ起こす。
だが、ベルヴィーの姿は既に無かった。
「ッ……クソッ!!」
やり場のない思いを地面に叩きつけて、悪態をつく。
理解出来ない。
この状況も、この場所も、あの少女も。
一体、俺に何をしろと言うんだ?
それに……予選はどうなったのだろうか。
欠場。失格。敗退。
嫌な単語が次々と頭を駆け巡っていく。
「冗談じゃない」
今日という日のためにどれだけ稽古をしたと思ってるんだ。
どれだけの気持ちを募らせてきたと思ってるんだ。
どれだけの期待を寄せられたと思ってるんだ。
積み重ねて来たものが全部無駄になってしまったのか。
いや、まだわからない。
確認するまで納得なんてできない。
簡単に諦めきれるほど、俺はそんな柔じゃないんだ。
「早く帰らないと……元の場所へ」
譫言を呟きながらフラリと立ち上がれば、月明かりが頬を照らす。
その光とは反対の方向へ顔を向けて、呼吸を整える。
無慈悲にも姿を消したが、ベルヴィーは唯一の道標を残した。
『ここから西に向かって』
この言葉になんの意図があるかはわからない。
だが、きっとここで無様にもがいてるよりはマシだろう。
もしかしたら町や人が居る場所を指し示してくれたのかもしれない。今はそう信じよう。
手近に落ちていた枯れ木を杖にして歩き始めると、夜空に隠れていた星々が道を照らし始めた。
しかしその導きを頼もしいと思った俺は、考えが甘かったのだろう。