気だるい侵入者
床に打ち付け、高鳴るヒールの音。
とある扉の前でピタリと足を止めるやいなや、今度は強烈な拳を叩き付ける。
「出てきなさい!! 居るのはわかってるのよ!?」
ナタリーが鉄拳をお見舞いする度に、震えるか弱いドア。
あまりの暴虐に、後から着いた俺は固唾を呑んで見守ることしか出来なかった。
怒りに息を荒げて、身の毛もよだつ形相で拳を振るう。
一体何が彼女をそこまでさせるのだろうか。
そもそもインクが見つからなかったことと、なんの関係があるのだろうか。
とにもかくにも、大変な事態になっているということだけはわかった。
そろそろ止めに入ろうかと身を乗り出した時、おもむろに扉が開かれる。
「……なに? 今、仮眠中なんだけど……」
寝癖だらけの金髪を掻き毟りながら、一人の青年が扉の先から顔を出す。
青色の瞳は眠そうに垂れ落ち、焦げ茶色の毛先は億劫に揺れている。
「勤務時間にはまだ早いと思うんだけど……?」
恐ろしい剣幕を前にしても物怖じひとつしない青年は、欠伸を噛み締めると溜まった涙を拭った。
一方で、ナタリーは両拳を握って小さな肩をわなわなと震わせる。
「あんた……また私の部屋から勝手に物を持って行ったでしょ?」
ナタリーが顔を引き攣らせながら尋ねると、青年は「ああ」と短く声を上げる。
「……どれの話?」
そう言って首を傾けた瞬間、ナタリーは問答無用で青年を突き飛ばした。
背中から床に倒れ伏す青年を横目に、ドスドスと足を踏みつけながら部屋に入っていくナタリー。
その後に続けば、途端に甲高い悲鳴が上がった。
「あんた、何してくれてるのよ!!?」
今にも泣き出しそうな声を上げて青年の寝台に駆け寄ると、ナタリーは跪く。
そして労しそうにあるモノを抱きかかえては、おいおいと涙を啜り始めた。
覗いてみれば、細い腕の中には大きな紙を丸めた物がひとつ。
中心部には歪な窪みがポッコリと出来上がっていた。
「私の、私の……大事な地図がぁ……」
自分の背ほど大きい地図に頬を摺り寄せながら、ナタリーは涙を浮かべてしゃくり上げる。
その近くでは上半身を起こした青年が、自らの背中を撫で擦っていた。
「あっ……それは枕に丁度良いかなと思って」
なんの罪悪感もなく平然と答えた青年に、ナタリーの眉はついに頂点まで吊り上る。
刹那、床に落ちていた本来の枕を青年に向かって投げつけた。
見事顔にヒットしたが、ナタリーの怒りはそれでは収まらない。
素早く床を蹴って青年に近づき、枕の端を掴んで、高々と天へ向けて振りかぶる。
そして1HIT、2HIT、3HIT……とコンボを繋げていった。
「ばかばかばかばかぁ!! これアンティークなのよ?レアものなのよ!?ものすごーく高かったのよ!!?」
「えっ、そんな実用性皆無の物が――ッ!?」
最後の一撃として、ナタリーは力の限り枕を顔面に叩きつける。
しばらく肩で息をしていたが、そのまま崩れるようにへたりこんだ。
「大体、乙女の部屋に勝手にズケズケ入れる気が知れないわ」
「乙女って。二十八歳は乙女じゃ――うッ!?」
目にも止まらぬ速さで脇腹に肘鉄を見舞うと、ナタリーは何事もなかったかのように澄まし顔をする。
そして俺の方へと振り返るや、ハッと我に返ったように居住まいを正した。
「あはは……見苦しいところを見せちゃったわね」
バツが悪そうに肩を揺すると、ナタリーは頬を掻いて苦笑する。
「見苦しいって言うか、普通にドン引きだよね」
「う、うるさい!!」
ナタリーは脇腹を押さえる青年に一瞥した後、改めて俺に向き直った。
「えーと、この不法侵入者はシグ・サシよ。たぶんタツキ君は初めて会うんじゃないかしら?」
大きく咳払いすると、手の平をシグと呼ぶ青年に向ける。
しかしシグは納得がいかなさそうに顔を顰めると、声高に反論した。
「不法侵入者ってひどいな。ただ倉庫に無かった物を、ちょっと借りただけじゃないか」
「だからあんたの悪い所は、無断で他人の部屋に入って物を持っていくことなのよ!」
すっ呆けた態度に、今にも金切り声を上げて腕を振り回しそうなナタリー。
それを放っておいて、あくまでシグは自分のペースを貫く。
「タツキ、だよね?」
「ああ……」
始終言葉を失っていた俺は、ここに来てようやく一言を発する。
シグは俺の答えに満足した様子で頷くと、右手を差し出した。
「さっきの紹介通り、僕はシグ・サシだ。一応、ここの自警団の一員だよ」
「……やっぱりそうなのか。同じ所に住んでるのに、今まで会わなかったのが不思議だな」
軽い握手を交わした後、俺は苦笑する。
もうこの詰所に来てから、一週間以上は経っているはずだ。
それなのに今の今まで、ナタリーにもシグにも会っていなかったことがとても奇妙だった。
「ああ……それは、先週まで僕が深夜番だったからだよ。日中は寝てるからね」
「シグは特に起きてる時間より、寝てる時間の方が長いものね。勤務時間外はほぼ惰眠を貪ってると言っても過言じゃないわ」
呆れた様子で目を据えながら、ナタリーは浅く溜息を吐く。
「それじゃあナタリーと会わなかったのは、なんでだろう?」
「私? 私はたぶん、部屋に篭りっきりだったせいね」
俺の問いに目を丸めた後、少し考え込むように頬に手を当てる。
そしてナタリーは苦い笑みを広げると、今度は深い溜息を吐いた。
「村会議が近いから。調書のまとめや、報告書類の作成でここ最近は忙しかったのよね……」
「村会議?」
思わず疑問を口にすれば、ナタリーは意外そうに声を上げる。
「明後日に開かれるのよ。しいて言うなら、村人みんなで集まって近況を話し合う場ってところね」
「へぇ、そんなものが……二人も参加するのか?」
「私は書記役だから当然出るわよ」
きっぱりと言い切るナタリーに対して、シグは覇気のない表情で首を振る。
「僕は出ないよ。どうせ途中で寝ちゃうからね」
「……たまにはやる気のある姿勢を見せたらどうなの?」
「僕は頭が良くないから、難しい話を聞いても無駄さ。だったら寝て、体力を養って、勤務に励んだ方がずっと有意義だと思うよ」
刺々しい視線を横に受け流すと、シグは暢気に欠伸をする。
どうも見ている限りだと、この二人は別段仲が悪いわけではないらしい。
しかし圧倒的なほど性格が食い違っている。
なんというか……小競り合いが絶えない兄妹、もしくは姉弟と言った感じだ。
俺がそんなことを考えていると、不意にシグがしょぼくれた眼を向けてきた。
そして何気なく口を開いては、尋ねる。
「それより、二人して何の用?」
「ああっ、そうよ! インクよ、インク」
シグの言葉に勢いよく立ち上がると、ナタリーは急かすように足を跳ねる。
「あんた、私の部屋からインクも持っていったんじゃない?」
「インク? あー……持って行ったかも」
「だったら、今すぐ出しなさい。迅速かつ至急に手早くね!」
「はいはい、わかりましたよ」
腕を組んで仁王立ちするナタリーを軽く見遣った後、シグは頭を掻いて渋々インクを探し始める。
やけに散らかった机の上を器用に捌き、探ると――どうやら見つかったらしい。
緩慢な足取りで戻ってくるなり、シグは腕を差し出した。
「ほら、これで良い?」
手の平を開けば、そこには二、三個の小瓶。
ナタリーは半ば奪い取るように小瓶を手にすると、蓋を開けて中身を確認する。
「インクはちゃんと残ってるわね、よしよし!」
そしてご満悦そうに口元を緩めるや、咄嗟に俺の腕を取った。
「あんたには色々言いたいことがあるけど、とりあえず今日の所は許してあげるわ」
「わぁ、それは有難いね。さしずめ、タツキがその犠牲になるのかな?」
青ざめる俺に少し視線をやると、シグは晴れやかな笑みを浮かべる。
他人事だと思って……!
思わずナタリーに代わって俺が色々言ってやりたい気分になった。
だが口を開くよりも先に、ナタリーが俺の体を引っ張っていく。
右手に地図を、左手には俺を。
両腕いっぱいに戦利品を抱えたナタリーは、うきうきと足を運んでいく。
後ろを振り返れば、シグがにこやかに手を振っている。
つんのめりながらも助けを求めて手を伸ばすが――無情にも鼻先で扉は閉められた。
×××××
「さてさて、ようやくお待ちかねの観察タイムね!」
後ろ手で扉を閉めると、ナタリーは三つ編みを大きく振って燥ぎだす。
対して俺は、げんなりと項垂れながら丸椅子に腰を掛けていた。
ああ、ついに帰ってきてしまったか。この部屋に。
ふと周りを見渡せば、目が痛くなるほど派手な家具が色を放つ。
しかしよく目を凝らしてみると、年季が入った骨董品もいくつか一緒に並べられていた。
少女趣味な家具と年寄り趣味な骨董品。なんともアンバランスな組み合わせだ。
そんな真逆の趣味を持ち合わせた張本人は、怪しげな笑みを零しながら近づいてくる。
「覚悟は決まった?」
両手を合わせて、ニコリと無邪気に微笑むナタリー。
けれどその眼鏡に映る瞳は、邪気そのものを燻らせていた。
「……どうぞ」
寒々しい気持ちに身震いしながらも、仕方なく頷く。
『インクを見せたら、何でもさせてやる』
そう約束してしまったのだから、もう諦めるしかなかった。
「素直でよろしい」
言いながらナタリーは腰を屈めて、視線の高さを俺と合わせる。
おもむろに両手を眼鏡のフレームに添えると、静かに取り外した。
ガラスを通して見るよりも、少し小さい。
けれどぼやけもなく透き通る瞳は、まさに宝石のような美しさがあった。
思わず息を呑んで見惚れていると、不意に両腕を伸ばされる。
「やっぱり肌の色は日焼けじゃなくて、元々のものなのね……」
頬に触れる柔らかな感触と温もり。
ナタリーは俺の頬を包んでは、やわやわと撫で上げる。
先程のふざけた態度がまるで嘘のように、その顔つきは真剣そのものだ。
「年の割には顔が幼いわね。彫りもさほど深くないし、鼻もちょっと低いかしら」
あくまで丁寧に、けれど確かめるように。
何度も触れながら、ナタリーは俺の姿を瞳に映していく。
「少し釣り目がちだけど、細くもなく瞳も大きいわね。目が黒いお蔭かしら? 髪も色素の薄いところがなくて、染め上げたみたい」
息遣いが耳を掠めるほど、近い距離。
すっかり言葉を失った俺は、ただただされるがままに身を硬直させた。
熱い吐息に、暖かい肌。
首筋が火照り、手汗を握り締める。
果てしなく感じたのも、束の間。
不意にナタリーは、俺の頬から手を離す。
もうこれでお終いなのだろう。そう思った俺は、緊張からの解放にホッと息を吐く。
だがそれは大きな間違いだった。
「ちょっ!?」
突然俺の服を捲り上げると、なんの遠慮もなくナタリーがその中を覗きこむ。
ほぉっと零した溜息が素肌に当たり、なんともむず痒い気分になった。
「細身な割に筋肉質ね。特に上腕筋が発達してるかも」
無遠慮にも俺の二の腕を指先で突っつくナタリー。
しばらく好き勝手に俺の体を触って楽しんでいたが、突然ハッと声を上げる。
「やっぱり体毛も黒――きゃっ!?」
言い終るよりも先に、小さな肩を掴んで引き剥がす。
唐突な出来事に、ナタリーは驚いて睫毛を瞬かせていた。
「ちょっと、もう……勘弁してください……」
「えー! まだまだ調べ足りないのにー」
平伏して許しを請うが、それでもナタリーは不満げに口先を尖らせる。
けれど、俺はもうこれ以上の辱めは耐えられない。
それを必死に訴えて懇願すれば、ナタリーは渋々ながらも了承した。
「まぁ十分見れたしね。これぐらいにしておきましょうか」
再び眼鏡を掛け直した後、ナタリーは腰を伸ばして立ち上がる。
だが陽気にくるりと体を反転させると、片目を瞑った。
「でもまた機会があれば……調べさせて、ね?」
「嫌です」
「ケチー」
即行で拒否すれば、ナタリーは口をくの字に曲げた。
人の気も知らないで、と小言を言いたいのはこっちの方である。
心の中でぶつくさ文句を言いながら、俺は乱れた服を整えた。
「それじゃあ、これがお約束のインク。返さなくても結構だからね」
少し離れて棚を探った後、すぐさま戻ってきたナタリー。
俺の胸に押し付けるように手渡すと、どこか得意げに鼻をそらす。
「それと、ちょーとだけサービスしといたから」
「サービス?」
言われて視線を下げれば、俺の腕の中にあるのはインク瓶だけではない。
それよりもさらに小さい小瓶がいくつか紛れ込んでいる。
中身を確認しようと蓋を開けた途端、柔らかな香りが鼻をくすぐった。
「花から抽出した精油よ。良い匂いでしょ?」
驚いて顔を上げれば、ナタリーは悪戯が成功した子供ようにあどけなく笑う。
「そのまま嗅いで使うのも良いけど……お湯に二、三滴入れて足を浸けると、もっとリラックス出来るわよ」
ナタリーは精油の使い方を懇切丁寧に説明する。
一体どんな風の吹き回しなんだろうか。思わず俺は首を捻らせた。
精油と言えば、エッセンシャルオイルのことである。
香りも良くリラックス効果も高いため、アロマテラピーでよく使われるものだ。
しかし何故、それを俺に渡すのか。いかんせん疑問だった。
「最近あまり寝てないんじゃない?」
まるで俺の心を見透かしたように、ポツリと呟く。
ナタリーは目を見開く俺の顔をみるなり、やれやれと首を振った。
「目の下の鬱血、肌荒れに、むくみ、低体温……上げればキリが無いほど、ストレス症状が現れてるわ」
「それは……」
「なにを悩んでるかはわからないけど、適度なリラックスは必要よ」
口籠れば、ナタリーは手厳しく人差し指を突きつける。
だがすぐに顔を綻ばすと、小さく肩を揺らした。
「必要なものがあれば、いつでも私を頼りなさい。なんでも貸してあげるわ」
もはやお決まりにも近いウインクを飛ばした後、勇ましく胸を叩く。
しばし呆気に取られたが、気が付けば自然と笑みが零れていた。
「ありがとう……是非そうさせてもらうよ」
恐らくこれが初めてナタリーに向けた笑顔だ。
そのためか、ナタリーもひどく驚いた表情を浮かべていた。
しかしすぐ頬を緩めると、二カリと歯を見せる。
「今日は良い夢見なさいよ?」
「……出来るだけ努力する」
わざとらしく溜息を吐けば、ナタリーは可笑しそうに破顔した。
そして控えめに片手を上げると、小さく振るう。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
短くも、簡単な挨拶。
けれどそんな些細なやり取りも、とても大切なもののような気がした。
自室に戻ったら、早速精油を試してみよう。
僅かに小瓶を見遣った後、背中を向けてドアノブに手を掛ける。
だがふとあることを思いついて振り返れば、ナタリーが小首を傾げていた。
「厚かましいのは承知で、ひとつお願いがあるんだけど……」
ますます首を傾げるナタリーに向け、苦笑を落とす。
「地図を貸してくれないか?」