おかえり
匂いが取れるまで髪と体を洗った後。
しばらくしてトニが替えの衣服を携えてやって来た。
「おーい、待たせたな」
振り返った俺に一度大きく手を振った後、徐々にこちらへ近づくトニ。
にこやかに、かつ足取りは軽快な一方、その腕から垂れさがる裾は力なくへたり込んでいる。
見れば、衣服は無残なほど乱雑に折り畳まれていた。
「……もう少し、綺麗に畳められなかったのか?」
「贅沢言うなって。大急ぎで持ってきてやったんだからさ」
俺の苦言をさらりとかわすや、トニは平然とした顔で衣服の束を傍に放った。
やや納得いかないものの、渋々積みあげられた山を物色する。
すると、不意にトニが疑問の声を上げた。
「どうしたんだ、その顔?」
「えっ?」
ギクリ、と思わず肩が強張った。
もしや怪我のことを悟られたのではないかと不安が過る。
「なんか青ざめてないか? 風邪でもひいたみたいだぞ」
しかしどうやら余計な心配だったらしい。
そもそもトニは全ての過程を見ていないはずだ。たとえ見ていても、機人の女に不意打ちされた瞬間だけだろう。
ともすれば俺の異変に気が付かないのも当然だ。
「顔が青いのは、体が濡れたままだからだろ」
全く乾いていない髪を抓んで見せれば、トニは納得いった様子で手を叩く。
「ああ、なるほど! で、なんで濡れたままなんだ?」
「拭くものがないからだろ……」
タオルどころか、手持ちがまるで無いのだからどうしようもない。
自然乾燥に頼ってみたものの、さすがに無理があったようだ。
おかげで体は完全に芯から冷え切り、手先まで震え始める。
「いやー悪い悪い、忘れてたわー。これ貸すから、勘弁してくれよ。な?」
言いながら、トニはベルトポーチから取り出した織り布を手渡した。
体を洗ってから気付いた自分も大概間抜けだが、このおちゃらけた態度からわざとやったのではないかと疑ってしまう。
文句のひとつでも言いたい気分だが、ぐっと喉元に留めて髪と体を拭く。
すると、またしてもトニが疑問を口にした。
「おまえのそれって、タイツなのか?」
唐突な質問に思わず怪訝な顔付きになる。
向けられた指の先にある物は、紛れもなく俺のボクサーパンツだった。
「いや、タイツっていうか……下着だけど」
「へぇ、それが下着か!」
俺が答えるなり、トニは驚嘆にも感嘆にも聞こえる声を上げる。
あまりにも大袈裟な反応に眉を顰めるが、次の言葉でハッと息を呑む。
「最初に着てた服もそうだけど、お前って珍しい物を着てるよな」
最初に着てた服とは、恐らく俺の制服のことだろう。
もはやボロ布と化してしまったため気にも止めていなかったが、この世界では十分珍しい代物に違いない。
トニが気難しい顔つきで押し黙った途端、背筋から嫌な汗が滲み出してきた。
思い切って異世界から来たことを打ち明けてみようか。
しかしどう考えたって頭のおかしな奴だと思われるのがオチだ。
俺だったらそんな世迷言を信じるわけがない。
あれこれと思案していると、ついにトニが重い口を開けた。
「それってきつくないのか……つか、痛くないのか?」
「……は?」
「だってそんなぴっちりした物、絶対痛いだろ!? いや、間違いなく痛い! 想像した俺が痛い!!」
頭を抱え独り悶絶するトニに、俺は開いた口が塞がらなかった。
またしても余計な心配をしてしまったようだ――いや、むしろ心配して損するレベルだ。
無駄に溜めた緊張を肩と一緒に落とした後、俺は手早く着替えるのだった。
××××××
「おー、結構似合ってるんじゃないか?」
不意に俺の姿を軽く眺めた後、トニは口の端を持ち上げる。
「まぁ俺の見立てのセンスが良かったおかげだな。うんうん」
他人を褒めたと思いきや、自画自賛をしていた。
まるでマジックのような切り替わりの良さに、俺はもはや掛ける言葉は無かった。
男二人、虚しく詰所へと向かう道中。
なにげなく自分の体を見下ろしてみれば、真新しい衣服が生き生きと輝く。
シャツに、上着に、ズボンに、ブーツに、革の手袋。
前の服は素朴な印象が強かった分、こちらはそれなりに凝った服だった。
トニがシェルマン商店で買いつけてきた物らしいが、当然タダではない。
トニ曰く、女の子以外には奢らないとのこと。
そのため俺は耳が揃い次第、トニに返済することになっている。ただし返す目処は今のところない。
「ああ、それと……あの子犬の飼い主がえらくお前に感謝してたぞ」
「フレッドか……」
雌なのに、名前がフレッドの子犬。
確か飼い主は年端もいかない男の子だった気がする。
無事再会を果たせたのなら何よりだ。
「んで、後日挨拶したいって言ってたけど……」
「言ってたけど?」
「断っておいたから」
あっけらかんと言いきるトニに対して、俺は足を止めるほど衝撃を受けた。
「なんで……なんで断ったんだ?」
「え? もしかしてまたあの子犬に会いたいとか思ってるのか?」
俺がわなわなと口を震わせると、トニはこれみよがしに驚いてみせる。
そしてわざとらしく手を左右に振るっては、意地の悪い笑みを浮かべた。
「やめとけ、やめとけ。他人の物に情が移ると良いことないぞ。指を咥えて見てるよりも、すっぱり諦める方が健全だ」
「なっ!? そんな大袈裟な……たかが犬一匹の話だろ」
「たかが犬一匹、されど犬一匹。実際あの犬が俺に懐いたのを見て、ショックを受けていたのはどこのどなたでしょうか?」
「ぐっ……」
反論できない。まさしく図星だった。
歯噛みして睨みつけるも、トニは何処吹く風で一笑する。
「まっ、お前は物事に対して思い入れが強すぎる。適度に力を抜かなきゃ、押し潰されるぞ」
「……どういう意味だ?」
「年長者からの軽いアドバイスだよ。いや、もしくは――先輩かな」
トニは爪先を変えてこちらを振り返ると、顎で後ろを指し示す。
その先には、ヴァルハラ自警団詰所の扉が待ち構えていた。
「ルシルから話しは聞いてる。今日からお前もうちの家族なんだろ?」
「あ、ああ……」
ぎこちなく首を縦に振れば、トニは破顔してみせる。
「なら、これからは此処のことで手いっぱいになるはずだ。他所のことなんて気にしてられなくなるぞ」
「なる、ほどね……じゃあ、会わない方が良いのか」
「そうそう。それに、今この中でお前に一番会いたいって思ってる奴が待ってる」
ドアノブに手を掛け、握り締めると、トニはゆっくり扉を開ける。
その先には――目を見開くルシルが立っていた。
ルシルはしばらく呆然と俺の顔を眺めて玄関で立ち尽くす。
だが途端に顔をひしゃげると、弾かれたように髪を大きく振って駆け寄ってきた。
あまりの勢いのよさに、思わず腕を広げて身構えるが――ルシルは腕の手前でぴたりと止まった。
「タツキさん! ちょっと屈んでください」
両手を腰に当てて仁王立ち。
その剣幕は今まで見たことないほど、おどろおどろしいものだった。
「こ、こうか……?」
言われるがままにルシルの背に合わせて軽く腰を折る。
「いッ!?」
刹那、鋭く駆け抜ける痛みに呻く。
ルシルに両頬を抓られたのだ。
決して耐えれられないほどの痛さではない。
けれど制裁の意味が込められているのか、ほどほどに強い力加減だった。
「る……ルシル?」
未だ離れることなく、かといってそれ以上力も籠められない小さな両手。
恐る恐るルシルに顔を向ければ、涙を溜めた翡翠の瞳と視線が合った。
目を真っ赤にして、唇を噛んで、ぐしゅぐしゅと鼻を啜る。
それを見た瞬間、なんともいえない暖かな気持ちが沸き上がった。
「ルシル、ごめ――」
「ここは謝る時じゃないですよ!」
俺の言葉を打ち消すや、ルシルはそっと両手を離して自分の頬を拭う。
しばらく肩を震わせてぐすぐすと泣いていたが、時期にゆっくり背筋を伸ばしては両手を組む。
「家に帰った時、言う言葉はひとつですよ?」
そしてくしゃくしゃな笑顔を向けると、小さく首を傾けた。
一瞬。言葉に詰まるが、釣られて俺も笑みを落とす。
「……ただいま」
そう一言口にすれば、ルシルは眩しく微笑む。
「おかえりなさい」