第29話 持ち場
レオスは、広場の中ほどにはためく紺の軍旗を見上げていた。
その旗の下に、盾の兵が身を寄せ合っている。わざと固まらせたものだった。
黒鉄の巨人が、ゆっくりと首をめぐらせ、旗のほうへ向き直った。一歩。石畳が割れる。二歩。広場が揺れる。
レオスは、巨人の肩を見ていた。
腕を振り上げる前に、肩の鉄の輪が、甲高く鳴る。三度目の突進で、それに気づいた。あの巨人は力こそ底なしだが、振りかぶりは鈍い。
「――今じゃ、散れ!」
盾の兵が、四方へ弾けた。
振り下ろされた腕が、誰もいなくなった石畳を叩き割る。軍旗を担いだ兵は、広場の反対側へ駆け抜けていた。そこへ、散った兵が再び集まっていく。
巨人の首が、また旗を追った。
「よし。次は、あちらで固まれ。大通りへは出すな」
同じことを、もう何度繰り返したかわからない。傷を負った者はいる。けれど、倒れたまま起き上がらない者は、まだ一人も出していなかった。
盾の壁は、紫の兵の誇りだった。それを、固めては崩し、崩しては固める。誇りを捨てさせているようなものだ。だというのに兵たちは、文句一つ言わずに走っていた。
レオスは、城壁を見上げた。
軍師殿とあの娘が、壁の向こうへ消えてから、しばらく経つ。
(……元は敵の将じゃったわしに、なにをいまさら、か)
あの若い軍師は、こちらの問いを、問いとも思っていない顔をしていた。
かつて紫の王国の将として、紺と剣を交えた。あの娘一人に、紫一と言われた剣を叩き伏せられた。その老いぼれに、兵の命を預けて、自分は城へ向かう。
ならば、応えるほかあるまい。
そのときだった。
通りのほうから、黒い鎧の新手が十あまり現れた。その先頭に、ひときわ大柄な男がいた。顔に、古い傷がいくつも走っている。
男は、巨人にも、散っていく盾の兵にも、目をくれなかった。
脇目もふらず、こちらへ向かってくる。
(……ザインか)
ジェイドとの戦で、主の亡骸を担いで去っていったと聞く男。腕だけなら四天王に匹敵すると噂される帝国の騎士。
狙いは、この老いぼれの首だ。指揮を執る者を討てば、巨人に追われる兵は、ただの烏合の衆に戻る。
城の中にも、この戦場を見ている者がいる。そう考えなければ、ここまで迷いのない足取りにはならない。
レオスは、傍らのコレットを振り返った。
「……あの男は、わしが引き受ける。そのあいだの指揮は、お前が執れ」
「えええ~!?」
コレットが、目を剥いた。
その声が広場に消える前に、娘の顔つきが変わっていた。
「……いえ。私が行きます。指揮は、レオス殿にしか執れません」
「あれは、お前より格上じゃぞ」
「存じております。ジェイドとの戦で、剣を合わせましたので」
コレットは、剣を抜いた。
「勝たなくていいんです。あの方を、ここまで届かせなければいいんですよね」
レオスは、言葉を返さなかった。
この娘の言うとおりだった。自分がザインと斬り結んでいるあいだに巨人が旗を捉えれば、兵が束で死ぬ。巨人の肩の鳴る音を聞き分けられるのは、今この広場で自分だけだ。
「十人じゃ。それ以上割けば、囮が囮にならん。連れていけ」
「はい!」
麦わら色の髪が、兵を連れて駆けていった。
紺の兵が黒の兵へと向かう中、ザインの前に、緑の軍服が立ちはだかる。大柄な騎士が、足を止めた。
「……あのときの女か。命じられたのは、後ろの将だ。死にたくなければ、退け」
ザインの声には、何の色もなかった。かつて剣を交えた娘を前にしても、怒りも、侮りも浮かべない。
コレットは、退かなかった。
「退きません。兵たちを守れと、キッド様に言われましたので」
ザインが、踏み込んだ。
重い一撃だった。レオスの耳にまで、剣の鳴る音が届いた。コレットの体が、受けた剣ごと押し込まれる。膝は、折れない。
二合、三合。コレットは、打ち返さなかった。受け、流し、半歩下がり、また半歩出る。ザインが脇を抜けようとすれば、その前へ回り込む。剣で勝とうとしていない。ただ、そこに立ち続けるための剣だった。
レオスは、目を細めた。
腕は、明らかにザインが上だ。十度打ち合えば、十度とも押されている。だが、あの娘は、一度も道を空けない。
騎士の剣とは、本来ああいうものだったのかもしれない。誰かの前に立ち、そこから動かぬための剣。
巨人の肩の輪が、甲高く鳴った。
「散れ!」
レオスは、旗のほうへ向き直った。
背中で、剣と剣が鳴り続けている。
振り返らなかった。振り返れば、この盤面のどこかが崩れる。あの娘が守っているのは、自分の首ではない。自分が執る、この指揮だった。
(早うせい、軍師殿。……あの娘の腕が、もつうちにな)
キッドが城壁の内側の石段を降りると、回廊が四方へ延びていた。
どこか遠くで、巨人がまた腕を振るったのだろう。霊子の波が、身の内をかすめていく。来た方角は、右の奥。
「こっちだ」
ルイセは、黙ってついてきた。
皇城の中は、驚くほど人の気配が薄かった。兵の多くは城壁に上がり、残りは巨人とともに外で戦っているのだろう。もっとも、いつ角の向こうから誰が出てくるかはわからない。
「――ダークアイ」
頭の芯が、焼けるように軋んだ。
城の中では、球を高くは昇らせられない。回廊の天井すれすれを滑らせ、角の先へ、先へと送り出す。空の目ほどの景色は望めないが、角の向こうを先に見られる。それに、いざというとき、球を生む一瞬を惜しまずに撃てる。
石の床に響くのは、自分の足音ばかりだった。すぐ後ろにいるはずのルイセの足音は、ほとんど聞こえない。真似てみたが、自分の足音は少しも小さくならなかった。
霊子の波を辿り、右へ、左へ。階段を降り、また回廊を折れる。巨人が腕を振るうたびに、波は強く、近くなっていった。
回廊が、冷えてきた。石の壁が、熱を吸い取っていくようだった。
球の目に、長い回廊の突き当たりが映った。
鉄の扉が一つ。その前に、人が五人。
見張りらしい兵が一人。軽装の兵が二人。そして、ひとりの男の肩に手を置き、目を閉じて立つ女がいた。
濡れ羽色の長い髪。
(……エイミ)
緑の公国の戦場で、アンチマジックの剣を振るった、帝国の魔女。
兵の目を借りて、外の戦いを見ているのだ。指揮を執るなら、外に立つほうがずっと速く、確かなはずだ。それを、こんな回廊の奥で。
――ここだ。あの扉の向こうにいる。
確信したとき、エイミの目が開いた。
魔女は、男の肩から手を離した。顔を上げる。回廊の天井の、その一点を、まっすぐに見た。
球を、見ていた。
(気づかれた!)
あの女は、緑の公国の戦場でも、背後の球を気配で拾った。城の中では、気配の届かない高さに逃がせない。
エイミの唇が、開きかけた。
(――させるか)
キッドは、撃った。
黒い弾が、続けて五つ。見張りが、軽装の二人が、肩に手を置かれていた男が、ほとんど同時に崩れ落ちた。
ただ、エイミへの一つだけは、振るわれた剣に触れて消えた。刃に、初めからあの魔法をかけていたのだ。
彼女は、倒れた部下たちに視線を落とさず、剣を構え、回廊の先を見据える。
「いくぞ、ルイセ。この先の扉をエイミが守ってる。その奥に、巨人を操ってる奴がいる」
キッドとルイセが角から飛び出す。
回廊の先に、エイミが静かに立っていた。
息が、白い。回廊の空気が、外とは比べものにならないほど冷えていた。
双剣を手に、すっとルイセがキッドの前に出る。
エイミの左手が、腰の後ろから短剣を抜いた。右に剣、左に短剣。構えがわずかに低くなる。
「扉へ。あの方は、私が引き受けます」
「だが――」
「ここでの遅れが、味方の命を削ります」
広場の盾の兵たちの顔が浮かんだ。旗のそばで声を張るレオス。「一人も、死なせません」と言ったコレット。
わかっていた。ここで費やす一息ごとに、広場で誰かが倒れる。
そうだ。背負われたときの肩は華奢だったが、この女は負けない。相手が誰であろうと。
「中の奴は、俺が止める」
ルイセの束ねた髪の先が、一度だけ小さく揺れた。うなずいたのだろう。次の瞬間には、黒髪が床を蹴っていた。
白と黒の刃が、エイミへ襲いかかる。正面からではない。扉を背にしたエイミを、壁際へと押しやる筋だった。エイミの剣と短剣が、それを受けた。冷たい火花が散る。受けるたびに、エイミの足が、扉の前からずれていく。
キッドは、駆けた。扉へ。
エイミの目が、一瞬だけこちらへ流れた。
すぐに、ルイセへ戻った。目を離せば斬られる。そういう相手と向き合っている目に見えた。
それでも、魔法の一つくらいは飛んでくると思っていた。何も、来ない。
(それにしても、あまりにも……)
違和感はあった。
だが、ためらう理由にはならない。
キッドは、鉄の扉に手をかけた。重い。体ごと押し込むと、軋みを上げて、内側へ開いていった。
振り返った。
ルイセは、こちらを見なかった。エイミから目を離さず、声だけを投げてきた。
「行ってください。すぐに、追いつきます」
キッドは、扉の内へ踏み込んだ。
窓のない部屋だった。厚い石の壁。正面に、黒い水晶の盤が、ぼんやりと光を灯している。
その前の椅子から、黒い王服の男が、盤に手を置いたまま、こちらを振り返った。
磨き上げた金貨のような、冷たく光る金の髪だった。




