プロローグ
彼は普通の男であった。
中流の家庭に次男として生を受けて27年、順風満帆とは言い難いがそれなりの…ごく一般的な暮らしをしている。
都内の商社に勤め、友人たちと日々会社の愚痴や給料の低さを居酒屋で晴らし、あるいは動画サイトやラノベに興じ、休日は同棲中の彼女とデートに出かける……そんなありきたりな人生だった。
そんな人生が今終わりを告げようとしていた。
「……なん…で…」
胸部に刺さったナイフ、それをとっさに抜いたのは誰だったか。あるいは自分で抜いたのか。
どんどんと体内から血が失われていくのが他人事のようにわかってしまった。
身体中が冷たくなっていく感覚、何故か動かない身体、痛みがないのは脳が拒否しているからか……
命が消える前に彼が見たものは、そんな自分を見た彼女が、恐怖に怯えた顔で自分から目をそらし、近くにいた他の男に抱き寄せられる姿だった。
◆
佐々木裕二。
27歳。
血液型O型。
身長165センチ。
体重52キロ。
少々童顔で、愛想はいい方である。
都内の商社で営業に所属。
同い年の彼女と昨年から同棲中。
結婚も考えているが、目下の悩みは薄給でプロポーズの目処が立たない事である。
背が小さいことが悩みのごく普通の青年だった。
そんな彼が人と違う事といえば、恋多き人生であった事だろうか。
彼の初恋は幼稚園の先生だった。
この頃のそんな感情を初恋と言っていいのかは意見の割れるところであるが、少なくとも裕二にとっては初恋であった。
20歳を過ぎた大学の実習生で、美人というよりは可愛い感じの女性で胸がでかかった。
少なくとも彼にとっては、実習に来た彼女との出会いは衝撃的であったし、自分の周りに居ない綺麗なお姉さんであった。
一目で恋に落ち、年相応のいわゆるヤンチャで彼女の気を引いたり、大きくなったら結婚してあげるなんて事も言った。
本当に好きだった。
だから彼女の実習が終わる日は大いに泣いた。泣きすがる彼を彼女も抱きしめてくれた。
彼は泣きながらその両頬で彼女のふくらみを楽しんだ。
彼は泣きながら手紙を書くと言い、彼女も涙を浮かべて返事を書くねと言ってくれた。
彼に返事は来なかった。あと卒園前に、彼女が結婚したことを大人から聞いた。
所詮そんなもんである。
二度目の恋は小学校二年生、同じクラスのアイドルだった。
同学年では一番可愛い子。少しませた子で茶色めの髪をツインテールにしていたのを覚えている。
二学期に隣の席になった時仲良くなり、その時彼女が当時流行っていた魔法少女が好きだったので、サンタにはその魔法少女の変身アイテムをお願いした。
サンタは夢をかなえてくれて、彼はそれを彼女へとプレゼントした。
彼女は喜んで受け取ってくれた。
更に彼は、お年玉をつぎ込んで変身コスチュームを買いプレゼントして彼女に告白した。
彼女は喜んで受け取ってくれた。
「でも、恥ずかしいからお付き合いの返事はちょっと待ってね」
はにかみながらそう言う彼女を前に、彼は有頂天だった。
だが翌月のバレンタインデーに一つ上のクラスのイケメンサッカー少年に手作りのチョコレートを渡す彼女を偶然に見てしまい、絶望の淵に叩き落されることになる。
ちなみに彼は義理チョコももらえなかった。
八歳児ながらにプレゼント作戦とは恐ろしくも在るが、現実は非情である。
それから彼は努力した。
イケメンは無理だったが体育は頑張った。
小学校を卒業するまでに八人の女子に告白した。
全敗だった。
彼なりに足が速い奴ほどモテるという法則を発見していたが、彼自身には通用しない法則だったようだ。
中学に上がってからも、彼は恋をし続けた。
恋をしては告白し、振られ続けた。
好きになった人を振り向かせようとその人が興味を持っていることに興味を持った。
色んな部活に入ったり勉強したり運動したり…広く浅く色んなことに手を出した。
だが全敗だった。
ちょっとギャルっぽい子を好きになり、彼女の好きそうなオラついた感じに身を整え、身体も鍛えて告白して見たが、その子は純情そうに頬を染めて幼馴染の眼鏡君が好きだから無理だと振られた。
もはやわけが分からない。何を信じていいかわからなかった。
そんな彼に転機が訪れたのは中三の夏だった。
受験の息抜きに友達と出かけた夏祭りで、OGの先輩と出会った。
彼が一年の時在籍していた書道部の三年の先輩で、結構仲が良かったのを覚えていた。
再会を懐かしみ、各々連れていた友達を巻き込んで突発的に発生した合コンのような形になり、彼は先輩に日々の愚痴を聞いてもらったのだ。
そこで彼は、先輩に初めてを捧げることになる。
先輩は初めてではなかったが、それは気にならなかった。
そんな事よりも、これで彼女が出来たという事の方が大事だった。
高校に行って少し変わった先輩、部活をしていた頃は女性として見ていなかったが、これからは大事にしていこう。彼はそんな風に考え、意気揚々と先輩に会いに行った。
「一回したくらいで彼氏面しないでよ」
先輩から返ってきたのはそんな辛辣な言葉と、先輩の本物の彼氏からのキツイ拳だった。
先輩は悪い意味で高校デビューを果たしていたのだ。
彼は絶望のあまり受験に失敗し、高校のランクを二つ落とすことになってしまった。
もうギャルは嫌だ。
彼は高校に進学してから図書館に通った。
それだけ絶望したにも関わらず、新しい恋を見つけたのだ。
彼女は学校の図書館を住処としている文学少女だった。
この時から彼のインドア派生活が始まるのたがそれはまた別の話だ。
何にせよ彼は高校進学と同時に新しい恋に生きた。
悪くはなかった。今までの性急すぎる行動を反省し、入学からひと月彼女との距離を縮め、告白をした。
この時彼の人生で、初めての彼女が出来た。
彼の人生で最も幸せを感じたのはこの時だったかもしれない。
この時彼は確かにリア充だった。
放課後デート、自転車の二人乗り、人目を忍んでのキス……
人生の勝者だと、短い人生の中で感じた瞬間だった。
だが歯車が狂い始めたのは、夏休み友人にアリバイを頼んで親に内緒で外泊をした時だったように思う。
思えば初めてではなかった彼に女の影が見えたからかも知れない。
二学期になって彼女は彼を束縛し始めた。
彼女は別のクラスだったせいか、彼へ行動をつぶさに報告することを要求した。
他の女が近寄ることを極端に嫌がった。
それと同時に彼女は男子との接触を絶った。
もちろん、共学でそんな行動をとればすぐ問題になる。
彼女の友人も減っていき、彼にも非難の目が向けられるようになった。
それから間も無く彼女は教員から呼び出しをくらい、昨今の行動の説明を求められた。
彼女は彼を愛するが故の行動であること、だから彼と同じクラスに変えて欲しいと願った。もちろん学校側が受け入れられる訳がない。
しかし彼女も受け入れられなかった。
そして彼女は職員室で暴れた。
もうすでに彼女は心を病んでしまっていた。
謹慎を食らった彼女を放って置けなかった彼は彼女を見舞った。
しかしそこにいたのは彼女の姿をした何かだった。
時にさめざめと涙を流し、時にヒステリックに暴れ回る。もう彼の好きだったあの子の姿はどこにも存在しなかった。
しばらく彼はストーカー被害にあうのだが、学校も警察もあまり動いてくれなかった。
事が落ち着いたのは三学期も半ば過ぎ、彼女が深夜アニメにハマって完全な引きこもりになってしまってからだった。
流石の彼も、この時ばかりは恋というものから遠のいた。
と思いきや、それでもしばらくするとまた色んな女性に恋をした。
先輩だったり後輩だったり同級生だったり。
しかし、振られてばかりだった。前の彼女のことでいい話を聞かなかったとうのもあったのだろう。
それでも彼は、惚れては振られを繰り返した。
大学進学を機に地元を離れた。
友人と離れ噂を遠ざけ、まっさらになることで起死回生を狙ったのだ。
だがまっさらになった時こそ彼の真価が発揮された。
居酒屋バイトの先輩と懇ろになったが、彼女には強面の彼氏がおりボコボコにされた。
オタクイベントで良い仲になった娘がいたが、彼女はいわゆるオタサーの姫で、姫の騎士たちにボコボコにされた。
なぜか人生二度目のストーカー被害にあった事もあった。関わりのない部分で大事になり被害がなくなったので、結局彼の何が琴線に触れたのかはわからずじまいだった。
ゼミで仲の良かった娘には、ただいいように使われて自分の単位を落とすこともあった。
合コンで知り合った娘には、ベッドでえげつない性癖を披露され半裸でホテルを飛び出した。
金で愛が買えるなんて言う話も聞いたが、少なくとも彼には壺と絵画しか買う事が出来なかった。
ただ彼もある程度学習したので、左腕に包帯を巻いている娘や夏でも厚手の長袖を着ている娘には近づかなくなった。
悪くはないの、住む世界が違うのよ…
卒業を迎える頃になると、流石の彼も心が折れる……こともなかった。
何とか就職した会社では、営業回りの際に受付嬢を口説き上司に怒られた。
出入りの業者のバイトを口説こうとして危うく取引停止になりかけた。
夜の蝶にいれあげて、黒服に囲まれたこともあった。
ベッドインまでこぎつけても、無いはずのものがそこにあり尻を守りながら逃げ出した。
彼は何度失敗しても挫けなかった。
周りが彼を呆れながらも見捨てなかったのは、彼がとても「善い奴」だったからだろう。
女性関係で日々一喜一憂していたものの、仕事ぶりはまじめで女性に対しても常に紳士であった。
同僚や先輩とも仲が良く、周りから慕われるタイプではあったのだ。
そんな彼を哀れに思った周りは、25歳の誕生会代わりに合コンを開いた。
そこで彼は、人生最後の女性と出会う。
彼女はごく普通の女性だった。
少なくとも彼にはそう見えた。
しかし会った瞬間この人だと思った。
特別美人というほどでもないが可愛らしく愛嬌があった。
同い年で中流企業の事務員。趣味は読書とカフェ巡り。
今まで彼が惚れて来た女の中でダントツの普通さであった。
しばらくして二人は付き合い始めるが、彼は慎重であった。
付き合いはじめこそ早かったが、それからは慎重に逢瀬を重ねた。ベッドインも趣味や嗜好などから気づかれないように性癖の下調べを行った。
同棲は初めてだったが一年以上付き合ってからたどり着いた。
もう大丈夫だと、小さな幸せを握り締めながら二人で歳を重ねて行くのだと、漠然と感じていた。
目標が出来て、少しずつ収入も上がって来た。
きっともうすぐ、二人で本当の家庭を築ける。
そのはずだった……
彼が出張から早めに帰った時に見たものは、自宅でホスト風イケメンの上で腰を振る彼女の姿だった。
人生で一番の絶望だった。
自分に至らぬところがあったのかもしれない。
あるいは彼女は脅されているのかもしれない。
実は彼女に似た別の誰かなのかもしれない。
とにかく弁明を聞かなければ。
ほんのコンマ数秒の間にそんな事が頭をよぎった。
だが固まったベッドの上の男女をじっくり十秒ほど観察している間は何も頭に浮かばなかった。
身体が全ての機能を停止したかのような十秒間。
永遠とも思える十秒間。
その十秒の後、彼がとった行動は逃避だった。
三日間、彼は近所のネットカフェを渡り歩いた。
帰りたくなかった。
携帯は電源を切って会社も無断欠勤した。
その間何をしていたかと言えば……現実逃避だ。
お気に入りの動画を見て、漫画やラノベを読み漁った。この現実は現実ではないと、この明るく楽しい世界こそが現実なのだと言い聞かせるように。
だが三日目に涙がこぼれた。
心がそろそろ受け入れろと言ったのかもしれない。
急に大の男が嗚咽を漏らして泣き出したのだ、周りからすればたまったものではない。
いつしか彼は大声で泣き出し、涙が止められなくなり、周囲の奇異の目に耐えられなくなる自覚が出たところで店を後にした。
夜も更け、泣きはらした目は赤く、剃ってない髭は汚く、風呂に入っていないため少々臭う男。
ボロボロになった彼は、ようやく足を自宅へと向けた。
そこで彼が見たのは、自宅前で言い争う二人の男とその側にいる彼女の姿だった。
一人はベッドの上で見たホスト風イケメン。
一人は見たことのない爽やかスポーツマン風イケメン。
だが皆その整った顔を歪め、スポーツマンは声を荒げていた。
「なんでだよ!俺よりこんなチャラそうな男を取るっていうのか!?」
第三の男の出現である。
彼は理解した時点で考えることを放棄した。
とにかく部屋に帰ろう。これはきっと悪い夢だ。寝て起きれば、きっと何事もなかったかのように彼女が隣で寝ているのだ。
そして朝から少しイタズラをして彼女に怒られながら出勤し、変えれば彼女の手料理が出迎えてくれる。
そうだ、そろそろプロポーズをしよう。なに、家計は厳しいかもしれないが二人で頑張れば何とかなるさ。待たせすぎて逃げられては目も当てられない。
彼女のことは愛しているんだ、きっと受け入れてくれる。彼女も俺のことを愛してくれているはずなんだ……
一歩踏み出した彼の存在に、三人が気づいた。
スポーツマンは近所の住人に見咎められたと思い眉をひそめた。
ホスト風は彼が寝室にいた彼と同一人物だと気付き、苦渋を舐めたように更に顔を歪めた。
そして彼女は、一瞬目を見開いて……彼から顔を背けた。
もういい、もうわかった。
彼は何も言わずに三人をかき分け、自宅のドアノブに手を掛ける。
すると待ったをかけるようにゴツく力強い手が彼の腕を握った。
「ちょっとアンタなんなんだ!?ココは彼女の部屋だぞ!?」
何も知らないスポーツマンが吠えた。
「……違う…ここは俺の部屋だ」
三日前からほとんど飲まず食わずで憔悴した彼の声は、か細く、弱く、彼自身の耳にさえほとんど届いていなかった。
「アンタなに言ってー」
「俺の部屋だ!」
彼が遮るように吐き出した言葉は重く、大きかった。
先ほどまでの弱さはそこになく、堰を切ったように涙と言葉が怒りを伴って溢れ出した。
「俺の部屋だよ!俺が借りて、家賃も払ってる!ここに来てもうすぐ一年だ!彼女とここに住んで、もうすぐ一年だ!必死になって手に入れたんだ!俺なりに、必死で、彼女を愛して!愛されてると思って!頑張って来たんだ!それなのに!それなのに!なんで!」
ダンッー
いつのまにか握った拳がドアに叩きつけられていた。
だが痛みはない。もはや麻痺してしまったのだろう。
そんな彼の異様な様子に、知らぬうちにスポーツマンの手も彼の腕を離していた。
もういい、とにかく部屋へと思った彼はドアノブを回しー
「なんで!なんなんだよその男は!」
男の声に遮られた。
スポーツマンでも、ホスト風でも、まして彼の声でもない。
声の方を向くと男が立っていた。
イケメンだったようだが、頰がこけて悲壮感に満ちている。目の下のクマも深く、何より目が濁っているように見えた。
一言で言えば「病んだイケメン」とでも言うのか……
「俺だけだって、言ってくれたじゃないか!」
悲壮な叫びと共に男が取り出したのは一本のナイフだった。
大ぶりで警察に見咎められれば一発逮捕の品である。
「う、うわぁっ」
その声は誰があげたのか判断がつかなかった。
ただ男たちはその場から逃げ出そうとし、彼女は足を竦ませ棒立ちになっていた。
病んだ男が一歩踏み出した瞬間、彼は当たり前のように彼女を庇っていた。
凶刃をその胸に受け、彼女を守った。
彼にとって、彼女は命をかけて守るべき人だったから……
身体から血が、力が抜けていく。
いつの間に倒れていたのだろうか、視界の半分が廊下のコンクリートで埋まっていた。
視界だけ動かした先には彼女が見えた。
恐怖に顔を歪め、ホスト風の男に身を寄せていた。
逃げた男にすがっていた。
「……なん…で…」
もう彼にはそれが精一杯だった。
あるいは、彼女が泣きながら後悔して、彼にすがってくれれば、彼の人生も救われていたかも知れない。
だが現実は非情だった。
結局今際の際まで彼は裏切られ続けた。
(ああ…くそ…)
人生で初めて心が折れた。
絶望しても、何度振られても思いもつかなかったこと。
(俺はもう、恋なんてしないぞ…)
恋に生き続けた男の最期は、恨み言と共に幕を閉じた。




