「湯は上得意から」と見限られ仕舞い湯へ回されたので、湯桶を伏せて順から降りました——お宅の一番湯、翌月から誰も並びません
指の節が痛んだ。
湯桶の縁をつかんだまま、菊江は一度だけ弥兵衛の手を見た。張り替えた板の香りがする朝、その手は客から湯銭でも取るように、菊江から湯桶を取り上げた。
「登喜、こっちだ。今朝はおまえさんが先に入りな」
「でも、菊江さんが、最初に湯を見てからって」
「見るだけなら外からでも見られる。湯は上得意から」
待合で萱が、長い袖を口へ当てた。
「まあ、お義姉さんったら。せっかく張り替えたお風呂なのに、また仕舞い湯まで働くのぉ?」
客のあいだから笑いが起きた。銭のかからぬ囃子は、薪よりよく燃える。まことに結構、ただし釜の足しには一文にもならない。
登喜は新しい板へ片足を置き、振り返った。
「ほんとうに、いいのかい」
「どうぞ。足もとだけお気をつけくださいまし」
弥兵衛が湯桶を渡す。登喜のもう片方の足も戸の内へ消えた。
菊江は焚き口へしゃがみ、太い薪を一本引いた。今朝いちばんに来る出職の男衆は、日の出前に湯から上がらねば仕事へ間に合わない。熱く立てすぎれば水で割る、水で割れば次の釜が遅れる。夫の見栄に付き合っている暇はない。あの羽織一枚で釜が十二日立ちますわ。十二日ぶんの火より、一度の見栄がお好きらしいこと。
「火を弱めるのか」
「今朝は風が西からでございますから」
「客が待っているんだぞ。ぱっと燃やせ、ぱっと」
ぱっと。便利な火である。薪の湿りも客の刻限も義理の順も、ぱっと消えてくれるらしい。
菊江は返事の代わりに、割った細薪を二本だけ差した。釜の底で火が細く走り、急かさず、それでも休まず湯を押し上げる。
薪束を下ろしたふさが、焚き口の脇に立っていた。老婆は祝いも言わず、引かれた太薪と差された細薪を見比べた。
「西風なら、それでいい」
「おや、ふささん。今朝の薪はご機嫌がよろしいようで」
「外だけな。芯は昨日の霧を食ってる」
菊江は一本を持ち上げ、重みを手首で量った。なるほど、表面は乾いた顔をして腹に水を抱えている。どこかの誰か様と違って、薪は黙っていても持てばわかるから可愛げがある。
男衆の最初の一人が暖簾をくぐった。
「女将、いつもの刻限で頼む」
「承知しております。今日は肩までつからず、腰だけよく温めてくださいまし。昨日、荷を背負いすぎましたね」
「なんでわかる」
「歩き方で。湯銭を二文増しになさるなら、占いということにしても結構ですわ」
待合が今度は菊江のほうを向いて笑った。その笑いを背に受けながら、菊江は湯口を指一本ぶん絞る。登喜の一番湯と男衆の朝湯を、同じ釜で間に合わせる。
夫の失点を妻が火箸で拾う。朝飯前——と言いたいところだが、菊江の朝飯はたいてい朝飯の刻には来ない。
* * *
二度目は、寄合のある日の留湯だった。
「乾物屋は三人、萱の嫁ぎ先が四人、それから遠縁の二人も来る。今夜の湯はそっちへ残しておけ」
弥兵衛は客の前で指を折った。最後の一本まで折りきってから、菊江の名だけを勘定へ入れなかった。
「産後の方が一人、日が落ちてからお見えになります」
「一人だろう。大勢を先にすればいい」
「熱い湯へ入れますと、のぼせます。人ひとりは三人より軽いという話ではございません」
「口答えをするな。おまえは冷めたあとで入ればいい」
弥兵衛が張った声で言うと、寄合の男が目をそらした。萱だけが兄の隣で、そうよぉ、と語尾を伸ばした。
菊江は頭の中で勘定板を弾いた。乾物屋から今夜いただく増し銭が三十二文。産後の客と、その母親と、同じ長屋の二軒が来月から別の湯へ移れば、ひと月でいくら消えるか。三十二文を一度いただいて、ひと月ぶんを逃す。まあ、ずいぶん景気のよい算術ですこと。
「女将、うちは何刻だ」
「先に頼んだのはこっちだよ」
「昨日、子が熱を出したって言ったろ。ぬるめを残してくれる約束じゃなかったかい」
三軒が待合の端で一度に口を開いた。弥兵衛は聞こえぬふりで、寄合の客へ新しい手拭いを配っている。手拭い一枚八文。愛想は無料で配れるのに、なぜそちらを惜しむのか。見栄はいつも仕入れ値が高い。
「大工仕事の方は先に。お子さん連れはその次、戸口から遠い腰掛けでお待ちくださいまし。三軒目には、井戸端へ遣いを出します」
「でも、留湯は足りないだろ」
「足りないのは湯ではなく、順でございます」
菊江は一軒目へ札を渡し、二軒目には火照った子の額へ当てる布を持たせた。三軒目の遣いには、半刻遅らせれば湯銭を一文引くと伝えさせる。差し引き一文の損。怒った四人を宥めるより安い。人の機嫌を薪へ換算できれば、弥兵衛は毎日ひと山ずつ燃やしている。
登喜が乾物屋の手代を連れて来た。菊江を見るなり、小さく眉を寄せる。
「また先にって言われたよ。あたしは待てるんだけどねえ」
「今夜は寄合でございますから」
「菊江さんの分は?」
菊江は湯銭箱を引き寄せ、銭を数えた。一、二、三。濡れた指では銭が逃げる。銭はよい。逃げても拾えば戻る。
「わたくしは店の者でございます」
登喜は何か言いかけ、手代に袖を引かれて湯殿へ入った。萱の嫁ぎ先の客が続き、遠縁が続き、約束の留湯は桶一杯ずつ減っていく。
産後の女が来たとき、菊江は釜の脇へ残しておいたぬるい湯を少しずつ足した。冷えすぎず、熱すぎず。女は腹へ手を当てて、ほっと息を吐く。
「女将さんがいると、頼みやすいよ」
「そのお言葉、増し銭に替えていただいてもよろしくてよ」
「そこまで言うなら一文だけね」
「毎度ありがとうございます」
一文が手のひらへ落ちた。三十二文を誇る夫の背中より、よほどよい音がした。
夜更け、菊江に残ったのは足首にも届かぬ湯だった。入れば板の冷たさまで一緒にいただくことになる。無料でも要らない。菊江は桶を洗い、翌朝の男衆の刻限を書き直した。
* * *
三度目には、数える銭がなかった。
湯殿の戸を開けると、仕舞い湯の水面に髪と垢が浮いていた。桶で掬えば掬うほど、底のぬるさが顔を出す。菊江が一日かけて丸めた揉め事だけが、きれいに煮溶かされて残ったような湯だった。
「お義姉さん、お待ちかねのご褒美よぉ」
萱が戸口から覗き、鼻にかかった声で笑った。
「今夜はたっぷりあるじゃない。仕舞い湯が」
待合に残っていた二人も、萱の顔を見て口もとを緩めた。弥兵衛は羽織の紐を解きながら水面を見て、それくらいで十分だろう、と笑った。
菊江は湯銭箱へ手を置いた。いつもなら、この客が月に何度来る、あの客が払う銭で薪が何本買えると、指が勝手に動く。けれど三度目だけは、返事の前に一文も数えなかった。
「左様でございますね」
萱の笑い声が、ほんの少しだけ短くなった。
「なんだい、その言い方」
「あなた様のお決めになった順でございますもの」
「わかっているならいい。明日の朝は遠縁が五人来る。早めに沸かせ」
「承知いたしました」
菊江は湯殿の戸を閉めた。入らなかった。澄んだ湯へ入れてもらえぬことより、濁った湯なら与えてやれると笑われたことのほうが、妙に冷えた。
それでも仕事は残る。明朝来る遠縁と、いつもの出職の講を同じ刻限へ入れれば、裸で肩をぶつける。二軒のうち片方へ遣いを走らせ、もう片方には裏口で待ってもらうことにして、火の上がりを半刻早めた。弥兵衛の威勢一声、始末に薪四本と遣い賃二文。はい、採点は赤点。答案用紙ごと焚き口へどうぞ。
夜が深くなってから、菊江は台所の握り飯を見つけた。朝に握ったものらしく、米粒は指で押しても戻らない。
いつもなら、味噌を塗って炙る。焦げ目がつけば大抵のものはご馳走になるし、ついでに甘酒があればなおよい。甘酒は熱いほどよい。舌を焼き、喉を通り、腹へ落ちて、ああ働いたと体に教えてくれる。
菊江は握り飯を持ち上げなかった。布巾をかけ直し、焚き口の灰を均した。
濁った水面が、暗い湯殿で揺れもしなかった。
* * *
翌朝、菊江はいつもの襷を掛けなかった。
釜の火は客を迎えられるところまで立ててある。湯銭箱の中身も数え、釣り銭を横へ分け、男衆の札を刻限の順に並べた。壊さない。奪わない。客の朝を巻き添えにしてまで夫へ思い知らせるほど、菊江の腕は安くない。
「あなた様」
弥兵衛は帳場で羽織を広げていた。振り向きもせず、早く湯を見ろ、と言う。
「昨夜のお話、よくわかりました」
「なら、遠縁を先に——」
「あなた様のお決めになる順に、わたくしは要りません」
弥兵衛の手が止まった。羽織の片袖だけが畳へ垂れる。
「何を言っている」
「お客様へ出す湯は整えてございます。札もこちらに。今朝の西風なら、三刻までは細薪を二本ずつお足しください」
「そんなことを聞いているんじゃない。店の女将が勝手をするな」
菊江は棚から自分の湯桶を取った。十二年、縁が薄くなるたび削り直し、箍を締め直して使った桶である。両手で伏せ、棚へ戻した。
乾いた音が一つした。
それから焚き口へ行き、焚きつけへ出してあった薪を一本取った。自分が湯を一杯使うなら、それだけ余分に要る。もう使わない一本を、菊江は朝の束の紐へきちんと戻した。
太さは腕の半分。火持ちは四半刻ほど。いつもならそこまで目で値踏みできた。
伏せた湯桶を見たまま、菊江の査定は止まった。
「わたくしはこの一杯を、十二年、わたくしの湯だと思うて沸かしておりました」
灰を火箸で一度だけ整えた。白い灰の下で、赤い火が細く息をした。
菊江は外出着の襟を合わせ、風呂敷を持った。入っていたのは替えの着物と櫛、それに自分で買った小さな銭入れだけ。釜の道具も客の札も薪も、ひとつとして持たない。
「待て」
弥兵衛が帳場を回ってきた。
「今出たら朝の客が困るだろう」
「火は立っております」
「昼はどうする。夜の寄合は」
「あなた様がお決めくださいまし」
「おまえがやれ。これは亭主の言いつけだ」
菊江は戸へ手を掛けた。弥兵衛の声はまだ命令の形をしていたが、その先が続かない。口というものは厄介だ。人前で景気よく切った手形ほど、自分で支払う羽目になる。
戸を開けると、師走の風が頬へ当たった。冷たい。けれど濁った湯よりは、ずっとましだった。
「菊江」
「お客様がお待ちでございますよ、あなた様」
外へ出て、戸を閉めた。
してやったり、と笑うには胸の奥が静かすぎた。けれど戻る薪は一本で足りても、戻る菊江はもういない。それだけは、ずいぶんよい勘定だった。
* * *
菊江のいない最初の朝、釜はよく燃えた。
弥兵衛は太薪を惜しまず放り込み、火を高くした。金を落とす客から入れればよい。札を増し銭の多い順へ並べ替えた。
出職の男衆が来たとき、湯はまだ熱すぎた。
「いつ入れる」
「もう少し待て。よい湯にしてやる」
「もう少しじゃ仕事に遅れる」
「朝から細かいことを言うな。湯は逃げやしない」
男は湯殿を一度見た。手拭いを帯へ戻し、仲間へ顎をしゃくった。
「行こう。川向こうなら腰だけ温めて出られる」
六人分の足音が、入ってきたときより揃って外へ出た。弥兵衛は追わず、待合の客へ聞こえる声で、せっかちな連中だ、と言った。
同じ朝、折り合いの悪い二軒が同じ札を持って現れた。弥兵衛は片方へ昨日、もう片方へ今朝、先に入れると約束していた。
「うちが先だ」
「こっちは子どもまで連れてるんだよ」
「増し銭を払ったのはこっちだぞ」
「払えば何をしてもいいってのかい」
肩と肩が待合の真ん中でぶつかった。弥兵衛は声を張り、両方入れば済む、と湯殿を指した。二軒は互いの顔を見て、同時に踵を返した。湯銭箱には一文も落ちなかった。なるほど、二軒いっぺんに片づいた。菊江がいれば満点を差し上げたところだ——悪い意味で。
三つ目は登喜だった。釜を急かした湯は、白い湯気を激しく上げている。
「さあ、今朝も一番だ」
弥兵衛が戸を開けた。
登喜は敷居で足を止めた。湯桶で水面を押し、指を入れる前に手を引く。
「熱いねえ」
「一番湯は熱いものだ。水を入れればいい」
「そういうことじゃないよ」
登喜は澄んだ水面へ足を入れなかった。持ってきた手拭いを畳み直し、懐へ戻す。
「来月の留湯、うちはもういいよ」
「なぜだ。乾物屋にはいつもよくしてやっただろう」
「よくしてもらったから、言いにくかったのさ」
登喜はそれ以上言わず、戸口を離れた。引き止める弥兵衛の横を抜け、外で待つ女房へ、今日はよそう、とだけ告げた。
翌日から、留湯の口約束が一軒ずつ消えた。熱すぎる、間に合わない、会いたくない家と鉢合わせた。客の不満は短く、そのあとの足はもっと短い。川向こうへ渡れば済む話だった。
弥兵衛は湯銭を上げ、減った分を埋めようとした。すると今度は、月に十度来ていた客が七度になり、七度の客が三度になった。高く払う一度だけを見て、その後ろの九度を追い払う。菊江が聞けば、算盤へ謝れと申したいところである。
萱はしばらく待合で、貧乏人が減って広くなったわねぇ、と笑っていた。だが自分の嫁ぎ先が湯を替えると、兄へ何も告げず姿を見せなくなった。笑い声はよく響いたくせに、逃げ足には音がない。
弥兵衛は薪を余らせるようになり、ふさへ量を減らせと言った。その三日後には、湿った薪が燃えないから来てくれと使いを出した。
ふさは使いの口上を最後まで聞き、束の紐を締めた。
「あいにく、その日は火が立ちませんので」
「主が困ってるんです。長い付き合いでしょう」
「長く見てきたよ。だから行かない」
使いを帰すと、ふさは川向こうにいた菊江へ向き直った。菊江は古い湯屋の焚き口で、ひびの入った釜と積まれた薪を見比べていた。
「弥兵衛さんの店へ、戻らなくてよろしいので?」
「うちらはあんたの火加減に売ってたんだ」
ふさの答えは、それだけだった。
* * *
川向こうの古い湯屋は、戸を開けるたび上の桟が鳴った。板はくすみ、釜の縁には修繕の跡がある。だが借りも家族も押しつけられず、菊江が任されたのは、朝の火と客の順、それから売上に応じた取り分だけだった。よろしい。話が早い。情より先に分け前を決める者は信用できる。
ふさが乾いた薪を運び、出職の講が傷んだ板を張り替えた。菊江は手伝い賃を湯札で払える分と銭で払う分に分け、誰にもただ働きをさせなかった。恩は湯気より早く冷める。銭と湯札は、冷めても数えられる。
開きの日、夜明け前から戸の外に人が並んだ。
「女将、今日は北風だ。いつもより早く出たい」
「でしたら腰まで。肩は仕事場で動かして温めなさいまし」
「こっちは昨日、釘を踏んだ」
「湯へ入る前に傷を見せてください。隠して悪くなっても、湯銭はお返しいたしませんよ」
「女将は相変わらず銭に細かいな」
「細かくない銭など見たことがございません」
笑いながら男衆が一番湯へ入った。張り替えた板に濡れた足跡が続き、湯桶の音が高く弾む。菊江の名で立てた一番湯である。菊江の火加減を知る足が、暗いうちから戸の外へ並んだ。
胸を張るには忙しい。次は子連れ、その次は夜番帰り、半刻空けて冷えの強い女衆。相談は次々飛んでくるし、釜は待ってくれない。感慨にふけって湯を煮詰める女将など、三文でも雇いたくない。
昼前、登喜が手拭いを抱えて来た。
「菊江さん。あたしも、相談していいかい」
「もちろんでございます。どなたと刻限が重なるとお困りで?」
「誰かをどかしてほしいんじゃないよ。店を閉められるのが四刻だから、そのあとで」
「四刻半にぬるめが立ちます。乾物を運んだ日は、先に水を一杯お飲みくださいまし」
登喜は札を受け取り、両手で包んだ。
「あのとき、あたし——」
「湯が冷めますよ、登喜さん」
登喜は口を閉じ、頭を下げた。四刻半に来るとだけ言い、列の後ろへ回った。
夕方、最後の客を送り出しても、釜には熱い湯が一杯ぶん残っていた。余りではない。菊江が最初から自分の刻限を札へ入れて、薪を一本足した湯だった。
棚には、新しい湯桶が伏せずに置いてある。菊江はそれを取り、湯殿へ入った。板の香りがする。足を入れると、熱が爪先から膝へ、膝から腹へ上がった。
「あああ——」
女将の品格が湯気と一緒に抜けた。客がいないのだから構うものか。十二年ぶん温まるまで出ません、と宣言したいところだが、のぼせれば明朝の火が立たない。四半刻。女将たるもの、自分の湯にも厳正である。たぶん。
湯から上がると、ふさが台所から湯気の立つ椀を持ってきた。
「飲むかい」
「甘酒!」
「返事だけは娘みたいだね」
「熱いものの前では、人は皆、若返るのでございます」
椀へ手を伸ばしかけ、菊江は踏みとどまった。まだ客の札が一枚、帳場に残っている。
それを片づけてからにしよう。働いたあとの甘酒は逃げない——もっとも、ふさが先に飲まなければ、である。
* * *
半年後、弥兵衛は小さくなった待合を背にして来た。
かつての羽織は着ていなかった。紐の擦れた地味なものをまとい、菊江の湯屋の戸口で、並ぶ客が切れるのを待っていた。待つことを覚えるまで半年。授業料は留湯何百杯ぶんか。たいそう高くついた。
「菊江」
「いらっしゃいませ。お湯でしたら、空きは夕方でございます」
「客として来たんじゃない」
「では、戸口でどうぞ」
弥兵衛は中を見た。張り替えた板、積まれた湯桶、刻限ごとに並ぶ札。女衆が奥で甘酒の鍋を混ぜ、ふさが薪の割れ目を確かめている。
「店が、立ちゆかない」
「左様でございますか」
「おまえが出てから、客が勝手ばかり言う。早いの遅いの、熱いのぬるいの。いちいち聞いていたら商いにならん」
「こちらでは商いになっておりますよ」
弥兵衛の口が閉じた。客前では待合の端まで届いた声が、戸一枚を越せぬほど痩せている。
「戻ってくれ」
頭が下がった。
「もう後回しにはしない。女将として一番に置く。だから戻って、前みたいに釜を見てくれ」
菊江は呼称を変えなかった。労をねぎらいもしなければ、半年の失敗を数えて差し出しもしない。客の湯を一杯も止めずに出てきた女へ、空になった待合の勘定まで持ってくるとは。さすがあなた様、見栄の次は損まで妻持ち。採点不能である。
「あなた様」
弥兵衛が顔を上げた。
「湯は上得意から」
奥で薪が爆ぜた。
「こちらの順に、あなた様のお名前はございません」
「菊江、夫婦だろう」
「十二年、そのつもりでございました」
菊江は戸口を越えさせなかった。弥兵衛の後ろでは、旧い湯屋から連れてきたらしい空の手桶が風に揺れている。
「待ってくれ。せめて火の見方だけでも——」
「ふささん。次の薪は?」
「よく乾いてる。あんたなら立つよ」
「だそうでございます」
菊江は戸を閉じた。向こう側で名を呼ばれたが、呼称を返す用はもうない。
閉じた戸の内では、女衆が甘酒を椀へ注いでいた。焼いた餅も浮いている。これはいけない。甘酒だけでも大事だというのに、餅まで入れば薪の勘定より先に片づけねばならない。
「女将、今度こそ冷めちまうよ」
「ただいま!」
菊江は新しい湯桶を棚へ置いた。伏せず、明朝すぐ手に取れる向きにして。
張り替えた板の向こうには、働いたあとの熱い湯がまだ残っている。菊江は湯気で曇る椀を両手に包み、ひと口すすった。熱が舌を焼き、喉を通り、腹へ落ちた。
「これですわ。湯も甘酒も、湯気があるうちにいただくに限ります」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




