海ガメ
海で遊んだ者は夕食を食べ終わると河口に向かい、肌についた砂と塩を落として着替えをすました。
19時すぎ。
日が沈み、皆は水際から遠のき静かに座る。
アキットはクリップボードの上に紙を数乗せて、膝に抱え込んで座っている。コンテを手に握り渚を見つめていた。
遠く水平線で生まれたうねりの山の頂点は低く、ゆっくりと波打ち際へと近づく。浅瀬へ近づき、形を崩して砂の色を変える。満月。貝の螺旋さえ良く見える。砂浜の裏手の雑木林からはケラやキリギリスがジーともビーと聞こえるような音を出している。キンヒバリなどはリーンリーンといった音を響かせる。遥か古に調和をとった虫の音が波の音ともよく交ざる。暖かくも涼しくもない肌を守るような穏やかな風もときおり流れる。
万象が溶け出したかのような夜の海辺で、皆は自然と口を閉じていた。
年少組も静かであったが、キユキは見切りをつけて立ち上がり皆に伝える。
「じゃあ、みんなそろそろテントに帰ろっか?」
大勢でいる所を海ガメに警戒されるのを防ぐのが目的で、これもアキットからの事前の指示だった。
それぞれ立ち上がりテントに向かう中でルネがアキットの背に回る。
「おとなしい感じにするですよ」
ルネはアキットの水色のリボン付きのバレッタを外し、飾り気のない木製のバレッタに付け替えた。
ミフィ、キユキ、セイ、そしてアキットは横並びで座り波打ち際を見つめる。
アキットが波打ち際から視線を外さず小さな声を漏らす。
「カメさん……」
『どうする? ミフィには止めろって言われたけど』
セイは事前に海ガメを話題に出す事を禁止されていた。これは、ミフィから個人的に受けた注意であった。他にも〝点灯〟速度が落ちている事、そして、それでもアキットは海ガメに会いに行こうとしている事などを告げられていた。中でも再三にわたり注意を受けたのが、〝二年間に何か手がかりがあるのでは無いか〟と言う事だった。だが約一ヶ月の間でセイに見出せるものは何も無かった。
『探しに行くべきか……』
五月蝿くしないように注意も受けていた。しかし、セイは迷いの末に小声でアキットに語りかける。
「きっとアキットに会いに来るよ」
「私には会いに来ないよ」
「そうなのか?」
「うん。海ガメは卵を産みに来るの。ここに来て、それから帰って行くの」
「詳しいな。アキットは」
「本で色々調べたから」
セイは会話の隙間で思考を回す。
『前の海ガメ卵を産まなかった。普通は絶対に産むのか?。なんなんだ……。海ガメは砂浜に俺達がいるから遊びに来たわけでも、餌のために砂浜をうろつきに来たわけでもないのか? 嫌なら普通はすぐに逃げるんじゃないのか?』
語りかけるセイ。それに対してアキットは、ポツリポツリとゆっくり答えて行く。
「今も、その術印に思い入れを持っていてくれて、少し嬉しいよ」
「うん。色々あるけど、色々考えたけど、好きなの」
「そうか。色々考えても好きなもの好きって事はよくあるのかもしれないな」
『術印は思い入れと共に使われるもの。詰まる所、術印が好きって事は海ガメが好きって事だ。でもアキットの〝点灯〟速度が落ちている。だから、アキットの〝好き〟には、今、問題が起きている。原因があるなら二年前だ。アキットの言う事をそのまま鵜呑みにすれば、二年前、海ガメはうろつきに来たわけじゃないって事になる。海ガメが砂浜に来るって事は卵を産みに来るって事だ。この解釈で合ってるか……』
「でも多分カメさんは私のことが好きじゃない」
「そうなのか?」
「多分、そう……。海ガメは、卵を産むとき騒いじゃだめなの……。私、前に会ったときうるさかったから卵を産まずに帰った。……だから、今日は来ないかもしれない」
『合ってるのか。じゃあ俺達は二年前、致命的に間違えたって事か……。二年前の海ガメは卵を産んでない。俺達が騒いだから。いや、でもだとした矛盾する……』
「だから今日来たのは間違いかもしれない」
「……」
「……」
アキットは水平線を見つめ、それ以上口を開くことは無かった。
海ガメは今だ姿を表わさない。
到着を待つ沈黙の時間にセイは思考を回す。
◆ ◆ ◆
アキットも矛盾を分かってる事か……。だけどアキットは海ガメに会いに来た。間違いかもしれないのに会いに来た。俺達は防衛線への出兵を控えている。だから〝修練〟のために来た。
……。……。いや、おかしい。多分、現実はそうじゃない。今、間違ってるならアキットはここには来てない。術印の変更の話は小さいときから再三聞いてきたはずだ。何でその手段を捨ててここに来た。
間違ってない可能性が高いからだ。それの根拠は多分、海洋生物図録。アキットも本で調べたって言っている。……。……。
やっぱりあの海洋生物図録をアキットから引き剥がしてでも読むべきだったのか? ここに来て分からない事が多すぎる。
落ち着いて洗いなおせ。二年前に真実があるなら、今はそこをもう一度洗いなおすべきだ。
※ 〝俺達と海ガメは触れ合った〟
まず、二年前の時点でおかしい。変なんだ。縄張りを荒らされた野生の動物は逃げるか戦うかの2択だ。だから俺は海ガメを怖れたし不気味だった。ノロノロとこっちに迫ってくる海ガメが嫌で仕方なかった。だから俺は海ガメの分析は今までこうだった。
※ 海ガメは俺達の事を無視できるくらい強い生き物だ
それからはこうだ。
※ 海ガメは俺達と戦いに来たわけではない、人懐こい生き物だ
今年海へ行く事が決まって、もろもろの計画を進めていてもアキットは海ガメの観察をするって事を覆さなかった。だから俺は海ガメは人懐こい生き物だと思っていた。だから海への遠征も成立している。
俺は今日までそう思っていた。
ただ、これは冷静に考えれば前者の解釈でも成り立つ。海ガメは俺達の事を無視できるくらい強い。だから、今日、観察に来る事が許されている。そう考えても問題ない。
近視眼的に矛盾がいくらでも出てくるな。
どっちをとっても俺の海ガメの分析は否定されている。そんな気もしてくる。〝今日来たのは間違いかもしれない〟からだ。今日来たのが間違いだとしたら、俺の先の分析も間違いだ。俺はいま間違っている真っ最中だって事になる。
でも、そうじゃない。今のアキットは高確率で間違えてない。根拠は残ってる。アキットは術印の変更を選んでないからだ。
だけど、今日、海ガメの観察に来たが正しいとも言い切れない。〝間違えているかもしれない″からだ。
冷静になれ。この多義的に解釈できる言葉の意味を吐き違えるな。
俺が今辿り着いているのは、今日の観察は間違えていない可能性が高いという事。そして、二年間は間違えていたという事だ。
そして、この先で必要になる事が二年前の事だ。二年前の事実は最初からそれ自体におかしな所がある。つまり、二年前に何かがズレている。それから、多分だけど、ミフィの直観が貫いてるのはこのズレの先だ。だから俺達は、まず前もってそのズレを治しておく必要がある。
アキットの言った通りに二年間の事実を修正すれば
※ 俺達と海ガメは触れ合ったが、卵を産まなかった
という事だ。これが二年前の事実だ。今も変わらずおかしいところは、
※ 俺達と海ガメは触れ合った
という事だ。
根拠は俺の経験則で、それに、アキットの様子が少し混じる。そして、二年前に海ガメは卵を産んでないって事実が輪をかけてこの事実を狂わせている。
まず、海ガメがそこまで人懐こいなら、二年前に産んでいる。だけど、現実は産んでない。産んでないのは〝騒がしかった〟からだ。騒がしいのが嫌なら、二年前もすぐに海に帰ればいい。海ガメはなんでノロノロ海から出てきた?
ここで、海ガメは俺達の事を無視できるくらい強い生き物だから直ぐには帰らなかった、って考えたらダメだ。これも違うんだ。
そんなに強いなら卵を産んで帰ればいい。卵が弱いからか? これもそうだ。もしそんな事を警戒するなら直ぐに海に帰るんじゃないのか……
引っぱられたダメなんだ。導いた推論に引っぱられたらダメだ。海ガメは騒がしいの無視できるくらい強いくはない。騒がしい中で卵を産むほど強くは無い可能性がある。
意味が分からない事は一つ残ったままになる。
※ 〝俺達と海ガメは触れ合った〟
最初に戻ったか。もう一度考えろ。おかしい事は最初からあった。多分、ここにある疑念は頭を回しても無駄だ。いきなり切り崩さないとダメだ。俺達はどうして海ガメと触れ合えたか……。海ガメが砂浜をうろついていたからだ。だからおかしい事は……
※ 二年前、何で海ガメはノロノロと海辺をうろついていたのか?
という事だ。理由を探せ。強いからじゃない。人懐こいからでもない。引っぱられるな。……だとしたら、だとしたら何でうろついた? 卵を産もうとしたからだ。だから産めないなら直ぐに帰るだろ。ノロノロしてたけど遅いなりにも努力はするはずだ。
……。もしかしてカナブンとかイモリとかに近いタイプか? 海ガメは俺達を無視した? いや、でも、ありえるのか? あのデカさの生き物で……。もしかして海ガメは頭が悪いのか?
いや、違う。頭が悪いのは俺達も同じだ。深夜の海にヒトがいる事は無いに等しい。実際、二年間の俺達は頭の悪い遠征をして、海ガメに遭遇したわけだから……。
俺達はスイカしか食ってない頭の悪い遠征をした。俺達は楽しんだけど間違いを残したかもしれない遠征。疲れて昼寝して、夜、寝れなかった遠征……。今よりもっと馬鹿だった俺達の遠征。……。もしかして、海ガメも俺達の事を頭が悪そうな奴らがいる、くらいにしか思ってなかったのか?
いや、でも、いや、ありえる。
※ 頭の悪そうな奴らと、それに油断した海ガメが顔を揃えて様子見をした。海ガメは様子見ついでに砂浜をうろついて、俺達が騒がしかったから卵を産まずに帰った。
これが2年前の真実か?
◆ ◆ ◆
月夜の波打ち際から海ガメが一匹這い出てきた。ヒレの形に似ている脚を前方にバタっ、バタッと動かしては、後方へ砂を掻き分けるようにスライドし、反作用と共に体を前方に引きずり動かす。陸では重過ぎる甲羅をずずっ、ずずっと引きずって、砂浜に跡を残しながら進む。
『来たか……。何だかんだ言っても2年前も来た。だから間違いじゃなかった。多分、アキットの計画の通りに事は進んでいるし、二年前の遭遇の解釈も間違ってない……。それは次ぎで分かる。次ぎは光術の〝修練〟のためにデッサンとかスケッチとかをする。それで〝修練〟は進む。アキットの手筈通りだ』
セイはアキットを見る。
『なんで行かないんだ。動けないのか……、いや……』
アキットは動かず海ガメを見続けている。
セイはアキットの瞳に揺るがぬ直線性を見て黙って様子を伺うことにした。
海ガメ砂は波打ち際から離れ、砂浜のやや奥まった所まで進み、前進を止めて、後脚で穴を掘り始めた。ヒレのような後ろ足で砂を削りとっているとも見える。後ろ足の強力な力で穴を掘り起こし、ときおり50センチ程度の高さまで砂が巻き上がる。
しばらくして海ガメの後脚の動きが止まった。
「行ってくる」
アキットは囁き、一人で海ガメの方へ向かう。そしておおよそ3メートル程度離れた、近くになりすぎないような位置で座り込んだ。
アキットは月明かりを頼りにコンテで紙にサラサラと海ガメの姿を写し始めた。
『順調に進んでいる。そう思っていいのか?』
セイは辺りを見渡した。セイの視界で、ミフィはどこか悲しみに満ちた瞳でアキットを見つめている。
『まだ終わっていないのか……どこが終わりだ?』
セイは視界の中のキユキと向き合い、静かに告げられる。
「スイカを切れる用意を慎重に持ってきてくれる?。あと水のタンクと布」
『スイカが今いるのか?』
セイはキユキの奥に座っているミフィと目が合う。ミフィは軽く頷きセイを促した。
『二人も事情は察したのか……。少なくともミフィも同じ所までは来てるって思っていい』
セイはキユキに対して頷いて承諾を示しリアカーの元へと向かった。
セイが立ち去り、それからミフィは膝に顔を埋めた。
「気付けなかった」
「それは私も同じ」
「私に生態の意味、聞いてた」
「仕方のない事はあるわ。それが見落すような事だったとしても」
「私は任せてばかり……。私は自分の事ばっかり……」
「ここまで黙って来たアキットちゃんを信じましょう。何か思うところがあったのは間違いないはずだから。三人が見つけた術印もきっとアキットちゃんを支えているから」
キユキは気丈にふるまっていたが、内心はこの事態に対して解決策を思いついてはいなかった。思いつく以前にそれはどうしようもない事のようにも感じていた。クォーサイドタウンに赴任して半年のキユキがようやく分かってきた事は、田舎の孤児院でありながらセイ達はけなげに生きているという範疇を越えた位置にいるという事だった。そして今の自分ではまだその位置には少し遠いのではないかという事だった。
それゆえキユキはミフィとセイを離した。恐らくミフィが傷ついているであろう事を予測し、立ち直る時間を与えたかった。
ミフィは泣いていたが視線をアキットに戻して涙を止めた。
セイは両手で慎重にスイカを運び、次いで水の入った小さめのタンクを運び、最後に布と膝丈程度の作業台とナイフを運んだ。
セイが砂浜に座り、しばらくするとアキットはキユキの元へ戻って来ていた。
アキットはキユキを見上げて相談する。
「海ガメ描いたから、多分、点灯速度は戻ると思う」
「ええ。分かったわ。でも今日はもう休みましょうか?」
「ううん。あのときのカメさんは卵を産まずに帰った。私が悪いことしたから。今日の海ガメは卵を産み始めたから、多分もう大丈夫」
アキットは海ガメの方を振り返える。
「それはアキットちゃんが調べたこと?」
「うん。海洋生物図録に載ってた」
「私達もいてもいいのね?」
「うん。静かにしてたら大丈夫。私みたいに、うるさくしなかったら……」
アキットはその場に座った。
ミフィはどこか寂しげに砂地に視線を落としている。
『まだ、終わっていないのか……』
セイはミフィの視線から事態が収束していないと悟った。同時にミフィから解決の糸口が紡がれる事が何らかの理由で不可能に近くなったと理解した。妹として、そして、恋人として、二人が時をかけて生み出した深深度の一瞥は、潜在意識の元で状況を理解させ、事態の解決を迫った。〝何か〟が終わってない事と〝何か〟を解決しないといけないということをセイに理解させた。
セイは過去を下地に、未来を予測し始める。
『なんなんだ。アキットは何で動かないんだ。〝修練〟をするなら描けばいい。観察するならまた近づけばいい。もう近づいたらダメなのか……。騒がしいのが嫌ならテントに帰ればいい。この場所で観察するのは何のためだ?』
キユキの心にも影は挿しかかっていた。
『酷な事をやらせてる。こうなると、もう私ができる事がないんだけど……』
キユキはミフィを見て直ぐにセイを見る。
少しうな垂れているように見えるミフィとは異なり、セイの表情はどこか厳しく、そして視線がゆっくりと地を這い彷徨っている。
キユキは二人の様子を確認してから、アキットに微笑みかけて語り始めた。
「アキットちゃんが感じている事は、知らなかったけれど悪いことをしたって事じゃない?」
「うん。そう。悪いこと」
「今日は、悪い事をしないために、たくさん海ガメのこと調べて来たんでしょう?」
「うん、うるさくしない。卵を産むときは触っちゃいけない。後ろ足で穴を掘る。卵は百個くらい産む。生まれたばかりの卵は柔らかい。後で硬くなる」
「あのね、生き物の中には、ときどき何故か人にそういう感情を与えてくる者がいるの。私達がただ近づきたくなるだけの生き物ね。そういう生き物と私達は、少しづつ長い年月を重ねて、少しだけ良い関係を築いてきたの。それから、また長い年月をかけて共生関係を築いてきたの。それでやっと、当然の事の様に生き物の事を知っている人が増えて来たの。海ガメともこれから少しづつ、そういう関係が築いていかないといけないの。そうするとアキットちゃんみたいな事もきっと減るから」
「うん。もう一回、海ガメ描いてくる」
アキットは側に置いていたクリップボードを拾い、ゆっくりと立ち上がった。
『なんで立った? キユキさんに言われたからか? その程度の事か? だとしたら最初から行けばいい。今日はアキットの計画通りじゃなかったのか? くじけそうにでもなっているのか? ……。アキット、確かに俺達は悪い事をした。だけど、色々考えた上で好きだと言った気持ちを、お前は自分で汚すのか?』
セイはアキットの手を取り、引き止めた。
アキットは力なく止まり、視線は砂地に落ちた。
セイが小さな声で感情を込めずに語りだした。
「アキット。少しだけ聞いて欲しい。俺は前に来たときから間違えたままだった。でも今はアキットのおかげで間違えずにこの場所に来る事が出来ている。前に来たとき、俺達は偶然ここで海ガメに出会って、海ガメの邪魔をした。俺達は悪い事をした。それを誤魔化すつもりはない。ただ、その時に、俺は正直に言えば海ガメに触りたくは無かった。良い悪い以前に、俺には夜になって突然海から出てきた得体の知れないこのでかい生き物が不気味で仕方なかった。出てきたのがカメだって分ったときも、その感情から抜けだせなかった。でも近くまで一緒に行ったお前は触りに行った。恐れも、ためらいも無く触りに行った。あのとき俺の頭の中で何かが切り替わった。その瞬間に動いたお前の心を俺は否定できなかった。それから俺も少しだけ海ガメの見方が変わった。触るのがダメならそれはしちゃいけない。俺もアキットも海ガメにとって悪い事をした。それを消すつもりもない。取り返しのつかない所まで来たら、後は砕いて自分に馴染ませるしかない。でも、良いとか悪いとかじゃなくて、怖いとかかわいいとかも関係なくて、お前の近づく心と、あの時砂浜に上がってきた海ガメがいなければ、お前と海ガメの距離はずっと縮まらないままだった。でも俺にはそれが正しい事とは思えない」
「……」
アキットの視線は砂地から離れる事無かった。セイも自身が述べている事になんら手ごたえを感じなかった。
「すまない、ここからは同じ事しか言えない。俺達がした事は悪い事だ。でも、アキットのように動き始める者がいないと、海ガメとヒトの関係も、海ガメとアキットの関係も良くはならない」
「うん」
「平気か?」
「うん」
セイはアキットの正面で膝をついて、アキットの瞳を見る。
アキットはセイの瞳を一瞬だけ見て、再び砂地に視線を落とした。
『そうか。だからアキットは最初の1回だけは自分で行って……。そういう事か……』
セイはためらいがちに口を開いた。
「もしかして……」
俯いていたアキットは、すぐに右腕を使い、逃げるように両目を覆い隠す。
「もしかして……アキットは今日来ている海ガメと、あのときのカメさんが違う事を知っているのか?」
「……」
アキットの首は前に倒れ、残された腕でクリップボードを抱き、膝を崩して砂地に落ちた。深く、静かで、狂った息づかいが続く。
「お顔が違う……。模様も……」
無音でつたう雫が頬から落ちて、砂地にぶつかり微かな音を残す。
「行かないで」
アキットの左腕はクリップボードを包み、紙に描かれた海ガメを涙から守っているが、両目を隠した右腕も動かなかった。乱れた呼吸が体を上下に揺らし、それを押さえる様に口を閉じようとするが、腕の奥の瞳から流れる涙は次ぎの通り道を作るだけだった。
ミフィが立ち上がりセイの背中をそっと押して、セイはアキットを抱きしめた。
「今日じゃない。別の日に来ている」
「嘘は……ダメ」
「嘘じゃない。信じたいだけだ」
「私はダメ……。私だけがわがままだった」
「……」
「私が……壊した……」
セイはそれ以上考える事ができなかった。二年間に事態を止める事は不可能であったとセイは自身でも判断を下せてはいたが、後悔を消せるわけもなかった。事の発端を担ったという事を今まで隠しとおして思考を回し、後回しにしていた自身を攻め立てる心が動き始めて、それ以上何かを口にする事も出来なかった。アキットの痛みも痛烈にセイ自身に反射している。
しばらく間をおいて、ミフィが低く静かな声で喋り始める。
「アキット、いい。アキットの術印のカメさんはもういない。何処にいるかも分からない。生きているかもわからない。だから、触った事は一度忘れなさい。でも、それだけじゃないでしょ? アキットは海ガメの事も好きなんでしょ?」
「……」
「どうなの?」
「好き」
「じゃあこれからは防衛線で生き残れるように、海ガメの事を調べて、その術印に速度をのせて、光術を強くして行きなさい。それが終わったらまた海ガメの事を調べて、海ガメのために出来る事を探しなさい。それからまたここで、あの時のカメさんを待ちなさい」
「……」
「本当の意味で許しくれるかは永遠に分からない。悪い事をしたと言い、歩みを止める愚かさを憎みなさい。今からしないといけない事はそういう事」
「……」
「いいわね?」
「……」
アキットはコンテを包む右手でセイの肩を押し出して、自身を包み込む腕を引き剥がした。くすんだ瞳ながら立ち上がり顎を持ち上げミフィを見つめる。
「あたなは私の誇りよ。アキット。だから、今の海ガメの姿も、あのときのカメさんの姿も借りて、その術印を速く点灯できるように今の内にたくさん海ガメを描きなさい」
「わかった」
「線を引きなさい、アキット。私達〝ドロワー〟は何度でも思い描くの」
「うん」
アキットはタンクの上の布を掴み、顔の涙を横殴りに拭いた。近くの岩の上に描いた紙をそっと置き、新たに紙を数枚手に取りスケッチボードに乗せて、また一人砂浜の海ガメの方へ歩き出した。
アキットは海ガメの近くに座り線を引く。パーツのバランスから組み上げるデッサンを始める。視界のカメと紙上のカメを交互に注視して、右腕に込める力の加減に留意した。
そして、デッサンが終わると次ぎは自身の術印をコンテで紙に描く。円を描き、〝点灯〟のときに光点が通る経路と同様の奇跡で線を引き術印を完成させる。
三人はアキットの様子を静かに見守った。
アキットがしばらく海ガメの側で術印やスケッチを描いていると、海ガメは無事に産卵を終えて海に帰って行った。アキットはその場で首だけ動かし最後まで見送り、キユキ達の元へ戻った。
再び四人で二匹目のカメを待っていたのだが、また少し間が空いたのでキユキは簡素な台の上でスイカを切り分けた。
「休憩も大事よ」
キユキは静かに伝え、四人は月明かりの下でスイカを食べた。
アキットは黙々とスイカを食べて、食べ終わるとタンクの水で手と口を洗ってからスケッチセットを拾い上げ二匹目が来るのを待った。
二匹目の海ガメが波打ち際から海ガメが姿を表わしても、アキットはすぐに動き出さなかった。しばらく座ったままでその場で待ち、海ガメの動きが止まってから立ち上がった。アキットはそっと歩いて海ガメに近づいて砂浜へ座り込み再び海ガメを描き始めた。
新たな海ガメの姿をまず素早く写し取り、次いで紙を入れ替え、陰影を入れずに忠実に写し取る。そして影を入れて描く。描写のパターンを変えて、時に自身の術印を描きつつ、アキットは紙上で術印と現実の姿の統一を試みる。
海ガメが後ろ足で掘った穴に、螺旋の貝殻を背負ったヤドカリのような生き物が近づく。アキットは筆を止めただジッと見つめていたが、ヤドカリが卵の入った砂穴に入ると、そっと這って穴の方へ近づいた。
ヤドカリが卵を1個拾い上げて穴から出て行こうとするとき、アキットはその手をヤドカリへと延ばしたが、すんでの所で手が止まる。
『……。これのどこに、海ガメのためがあるの……』
瞼の縁に貯まった涙が歪んだ表情と共に落ちる。延ばしたその手は力なく砂地に着地した。アキットは震える瞳でただヤドカリが卵を遠くへ持ち去っていく様を見続けた。
『もう……来ないで』
アキットはその場で小さくうずくまった。
「中止でいいですか」
確認は口にしていたがセイは既に立ち上がっていた。キユキも動き出しつつ頷ずいたが、ミフィがセイの方を向いて静かに遮る。
「続けるわ」
「無理だ」
「無理じゃない」
「きつすぎる。状況を考えろ」
「これくらいいつ起きてもおかしくない」
「行ってやれ。アキットはミフィを待っている」
「嫌よ」
「じゃあ俺が行く」
「止めて。アキットはそれでも描くわ。立ち上がる時間くらいあげなさい」
『私は、しなくていい事ばかり……』
アキットが一ヶ月近く抱えこんだ海洋生物図録の序文には、金字塔のように公国全土の生態系の豊かさとその維持の重要性が説いてある。
図録の余白はコラムで埋められており、生気説が否定される可能性や定向進化説、および、諸説における注意事項が記載されている。
食物連鎖を記載している項もあり、そこにはヒトを頂点とするピラミッド構造、ヒトを循環する輪の中に置く構造、ヒトがガルフと拮抗を保つ事で為し得ている公国の豊かな食糧事情などの可能性が示唆されている。
『私は……今は……』
アキットは右手に薄汚れた侮蔑の視線を送り、それを最後に心から沸く声を遠く彼方に捨て去った。
おぼろげな瞳ながら立ち上がり、置き去りにしたスケッチセットの元へ戻り、再び海ガメの描写を再開する。ただコンテを動かし海ガメの姿を紙と共に脳へと焼き付ける。出あったのその日、感情と共に記憶に流し込んだ世界とは一線を画す領域へつぶさに写し取る。涙は乾いて消え去り、無駄な線を一本たりとも引かずして、ただ海ガメを描く。
ミフィが穏やかにセイ静かに告げる。
「ね。最後まで信じてあげて」
セイは表情を消して冷たい響きで否定する。
「偶然だ」
「大丈夫。ほら、紙も入れ替えたわ」
「ヒトはそこまで強くない」
「でもアキットはそこまで強かった」
「どう転んでもおかしはなかったはずだ」
「どこに転んでもお兄ちゃんなら何とかするでしょ。違う?」
「できるわけがない」
「できるよ」
「できない」
「できる」
「できない。ここから先、俺からアキットにかける言葉は無い」
「ある。それがあるからお兄ちゃんはお兄ちゃんなんでしょ?」
「買いかぶりすぎだ」
「だとしても、私は全部加味して決めたから」
「全部加味したなら二年前の答がミフィから出ていただろ」
「それは謝るわ。落ち度はあったし、後で怒っていいから。でも途中で修正はしたでしょ」
「不安定が過ぎる」
「そんな事ない。今年の遠征はお兄ちゃんがいるっていう前提で私は計画を進めてきた。いないなら、もっと早くから別のやり方にしてた」
「納得はしない。全部を加味しても」
「アキット達は〝第二世代〟でしょ。これでもダメ?」
「変な名前を勝手に付けるな」
「これ以上は五月蝿いわね」
二人は声を荒げる事無く表情さえも崩さずに静かに冷気だけを交換するように喋っていたが、それ以上は口をきかなかった。
セイは僅かに顔を歪めてミフィの瞳から視線を外し、アキットを見守った。
キユキは少し困った顔で二人を見る。
ミフィがキユキに微笑む。
三人は誰もそれ以上口を開かず、静かにアキットを見守った。
やがて二匹目の海ガメも、産卵を終えて、後脚で卵が入った穴に砂をかけて埋める。そして、まだ暗い海へ帰っていく。海ガメを見送った後でアキットは立ち上がり、振り返りゆっくりとキユキ達の元へと戻っていく。紙を新しいものと入れ替えて、再び座り込み水平線を眺める。
ミフィはアキットの後ろに座り、背もたれになるように抱えて、髪をニ、三度なでてやった。
四人はしばらく三匹目の海ガメが訪れるのを静かに待ったが、それ以上は姿を表わさなかった。
空が明るみ始めて、4人は道具を仕舞いテントの設営地に戻った。
キユキが昼寝をしたテントへと入る。
セイがキユキと分かれて残りのテントに入った。
アキットがキユキの元へ向かおうと足を動かすと、ミフィが後ろからアキットの両肩を掴み体の向きをセイが入ったテントの方へ調節する。
「はい。アキットはあっち」
「えっ」
ミフィはそそくさとキユキが入っているテントへ向かいサンダルを脱ぎ、中に入っていった。
キユキは寝床の位置へと四つんばいになり向かっていた。テントの入り口が開いてそちらを振り返り目を疑う。
「あれ? ミフィちゃんはあっちじゃないの?」
「だって、アキットだってお兄ちゃんと寝たいかなって……」
「だったら3人で寝ればいいんじゃない?」
「それだと、キユキさんが一人でかわいそうでしょ」
「気にしなくていいのに……」
「なんでちょっと嫌そうなのよ」
二人は喋りながら寝床の位置に着く。
「だ、だって、嫌でしょう? ちゃんとセイ君と仲直りしたら?」
「大丈夫。お兄ちゃんは怒ってないから。こういう事はいままでも合ったし」
「そうなの?」
「うん。だから最後ちゃんと納得したでしょ?」
「私には納得いってないようにも見えたんだけど……」
「だったら、絶対まだ話合ってるから。お兄ちゃんはそういう人。それに私はお兄ちゃんの彼女でもあるんだから、私がいると寝にくいでしょ? 知識だけは豊富なんだから」
「え、ええ。でも知識が豊富な男の子だからって、いつでもって訳じゃないでしょ」
「なに? そんなに私と寝るのが嫌なの?」
「う、ううん。そんな事ない。せっかくだから一緒に寝ましょう。静かにね」
「これから寝るんだから静かでしょ?」
「ええ、だから早く寝ましょうって事ね。時間も限られてるから」
「そうね。なにか違和感はあるけど、おやすみ。仲良く寝ましょ」
ミフィはキユキの腕に組み付くような体制で寝始めた。
「お、おやすみなさい」
キユキは迷ったがそのまま仰向けで目を閉じた。
アキットにはキユキのテントへ問答無用で向かうミフィを止めるような気力は残っていなかった。テント6台が並ぶ雑木林の中で一人取り残され、少し周囲を見渡し、セイが入ったテントへ向かう。
テントの入り口を開くと同時にアキットは呟くように呼びかけた。
「セイ……」
暗いテントの中で、セイの顔が一瞬だけ怒りに歪む。
「おにいちゃん」
アキットの呼びかけを最後まで聞いて、セイは上半身を起こす。そこには、いつもの穏やかな表情があった。
「なんだ。アキットか……」
「ミフィお姉ちゃんが、こっちって……」
「そうか。えっと、これでも枕にするか?」
セイは自分の横にミフィのバッグを置いて、それからアキットに背を向けるようして目を閉じた。
アキットは這うようにテントの中を進み寝床へとつく。それから、切れた糸のように頬に涙をつたわせ始めた。ためらい、さまよった手が、セイの背中へ向かう。
アキットの掴もうとするその手より早く、セイは振り返ってアキットを抱きしめた。
アキットは、むせるように泣き始め、それから、静かに泣き始め、力尽き眠りについた。
セイは強く握られたままのアキットの手を崩してやり、それからテントの天井を見上げて、少しだけ昔の事を思い出した。
◇ ◇ ◇
一般に、公国の孤児院は食材を十分に確保できる権利・あるいは義務にちかい規則はあるが、調理され胃袋に届く形になった食事の賛否は保護役の技量に任せられている。
たった一人のクォーサイドタウンの保護役の味覚が通常より幾分かずれていて、その食事が口に出来ないほど酷いものでなければ特別目に付くようなものではない。
孤児院の子供達は基本的に生活習慣の習得を早期に迫れる。これは公国全土において共通であり、クォーサイドタウンであるからという問題でない。この生活習慣の内で食事や排泄といった最も基礎的な訓練は全員当然のものとして習得している。しかし、その過程を覚えている者はいない。幼子達にとって最初に強く記憶に残るのが洗濯である。幼い者ほど保護役からの助力が得られる。しかし、日々の生活の中で仕上がりの差が生まれたとしても、それは訓練期間という位置づけで解釈する事も可能である。
クォーサイドタウンの孤児院で解釈からはみ出るような事は無かったが余白も残っていなかった。
孤児院内の人間関係の形成は孤児院事にケース・バイ・ケースとなる。ただし、関係と呼ぶには疑わしい著しい争いは避けられるのが基本だ。手が出るような喧嘩はときにあるが、肉体的、あるいは、精神的な外傷が残るような事はないよう注力が注がれる。さらに都会の孤児院において事の顛末が慈愛に基づく事は多分に多い。公国が1000掛けて作り上げた国民性だ。
ただ、クォーサイドタウンの孤児院の保護役は早期に部屋を引き離して終結させる事が多かった。
公国における大人とは防衛線滞在中の者、あるいは〝滞在期間〟を追えた者の事だ。彼らは30歳にして死ぬ運命を理解している。ゆえに彼らは自身の子供が暮す都市から離れた土地の居住を使用し、その人生に幕を引く者も少ない。親子間の愛情の喪失が心に傷を残すことも多くの者が理解し、それは公国において解消できない問題であった。自身の子供に対してそうであるのだから、言語能力が弱い子供に対して積極的に関係性を持とうとする者は少ない。
クォーサイドタウンの村人においても事態は等しく広がっていた。
つまり、クォーサイドタウンの孤児院には特別な過酷もなければ受容もなかった。
7歳のセイは兄ではなく、ただ一人の年長組として孤立して過ごす時間が多かった。
6歳のミフィは小食であり、活力がなかった。
5歳のカリナは無口であり、他者への関心が無かった。
4歳のヒースは泣く事はあっても、叫ぶ事は無かった。
3歳のルネの瞳に仲の良い兄と姉が写る事は無かった。
それが概ね、居たはずの13の少年が去った直後のクォーサイドタウンの孤児院だった。
月日が流れ、セイは8歳になる。
夕食を終えると一人で男子年長組の部屋へ戻る。
年長組の部屋には入り口から数歩先に3メートル四方の絨毯が敷かれている。その次にはテーブルを挟んでソファーが2台規則的に置かれている。そして奥にベットが4台ならべられている。しかし、布団が載っているベットは一台だけで、残りの3台は木の骨組みを晒している。
セイは入り口付近の壁のフックに掛っている木剣を手にして、部屋の絨毯の上で胡坐をかき、瞳を閉じる。
見よう見まね。影を重ねているのはかつて13歳の少年が行なっていた修練だ。しかし、彼の修練とは異なり、セイには剣に問いかける言葉などはなく、そこにあるのは只の瞳を閉じるという行為だけだった。
セイは影を追いかけ立ち上がり、部屋を出て、孤児院の庭の石造りのベンチの近くで木剣を振る。だが現実は振られている。膝が伸び腰の位置も高く、それは文字通り浮き足だっている様だ。連撃の形を振れば二分に別れ、頭上から振り下ろせば腕が勢いで崩され剣は地面に弾かれる。腕だけ振り回してる刃筋はただただ鈍く、そこに年齢を超えるような威力や技巧は無かった。
幼きセイが受け継くことができたのは、かつて強烈な一閃を放っていた13歳の少年の習慣だけだった。
7歳のミフィが一冊の本を両腕で抱きかかえて孤児院の玄関から庭に出て来る。本の表紙は汚れていて、天地や小口からはページが千切れて飛び出している。
公国の新年度。
ミフィも孤児院の規則に従い、一人では広すぎる年長組の部屋を与えられ、そして術印のモチーフを探す〝修練〟に入っていた。季節は晩冬。寒空の下でヒュっと情けない風切音とコツリとも聞こえる弱々しい衝撃音が二人の間を流れている。
セイから少し離れてミフィはしばらくセイを見つめて立っていた。
セイはミフィに気が付いたが、直ぐに視線を外して剣を振り続けた。ミフィの涙が冷たい頬をつたっても、セイの心からすぐに何かが生まれる事はなかった。
ミフィが振り返り孤児院の中に戻ろうとしたとき、セイは言葉をかける。
「なんだ?」
パチリと瞬きしてミフィの涙が止まる。しかし、振り返ったミフィの瞳に映ったのは、素振りを続けたままのセイの姿であった。ミフィは視線を地面へ落とすしかなかった。
セイの語気に温もりは無い。奥の瞳にも生気は無い。セイが辛うじて出した言葉が拠り所としたのは、ミフィの不自然な動作に対する疑問だった。
「うん」
「なにか言えって」
「術印のモチーフ探して来いって言われた」
「もう夜だぞ」
「うん」
「指導役はどうしたんだよ」
「探せって」
「本があるだろ」
「もう見た」
「見つからないのか」
「うん」
「なにかあるだろ。その辺に」
「……」
ミフィの目には再び、涙が浮かんでいた。
セイは再び大上段から木剣を振り下ろす。空を切り裂く刃は止まることなく地面にぶつかり、その切先を少し失う。
幼きセイは初めて言葉を選んだ。
「一人で行くのが嫌なのか?」
ミフィはまたパチリと瞬きをしてセイを見つめる。
幼い二人の視線は交差している。
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