第1話『プロローグ』
春の柔らかな風が、廊下の窓から吹き込んでいた。
まだ新しい制服に身を包んだ生徒たちが、楽しそうに言葉を交わしながら行き交っている。
この学園に入学してからまだ1週間。
何もかもが新鮮で、楽しくて、毎日が慌ただしく過ぎていく。
そんな中で———私は、見慣れた淡い銀白色の髪を見つけた。
「……リオ様」
思わず声に出してしまった。
少し先を歩いていたリオ様が、私の声に気づいて振り返る。
目が合った。
……けれど。
ほんの一瞬で、その視線が逸らされた。
そして、こちらへ来ることなく、そのまま歩いていってしまう。小さい頃は目が合えば先に笑ってくれるのはリオだったのに。
「…………」
足が止まった。
廊下には、たくさんの生徒がいる。知らない顔ばかりの中で、彼だけはすぐに見つけられた。見つけられないわけがない。家族と同じくらい、同じ時を過ごしたんだもの。
けれど、その背中は人の波に紛れていく。追いかけようと一歩踏み出した足は、それ以上進むことはなかった。
「……また」
ぽつりと呟く。
学園に入学してから、少しだけ変だ。
話しかければ、反応してくれる。危ない時は、駆けつけてくれる。悲しい時は、さりげなく優しくしてくれる。
なのに———。
なぜか、私と二人きりになることだけを避けている。
廊下で会っても、少し距離を取られる。私が近づけば、いつの間にか別の誰かと話している。
どうして?
何度考えても、その答えは出てこなかった。
いいえ。本当は分かっている。ただ、認めたくないだけ。きっと、運命の歯車が動き始めたのだ。
少し離れたところから、女の子たちの話し声が聞こえた。
「ねえ、あの子じゃない? 最近、殿下とよく一緒にいるっていう……」
その言葉に、思わず顔を上げる。
視線の先にいたのは、最近この学園で見かけるようになった女の子だった。
「…………」
胸が、きゅっと締まった。
私は、あの子を知っている。
正確には———あの子と、リオ様がどうなるのかを知っている。
だって私は、前世でこの物語を知っていたから。
でも、今は考えたくなかった。
前世で知っていた物語が、少しずつ現実になっていく。
そのことが、ただ怖かった。
あの子が、この学園に現れたことも。そして、リオ様と出会ったことも。まるで、止めたはずの物語が、何事もなかったかのように動き始めているみたいで。
ゲームでは、リオ様はこの子と出会い、そして———
「……弱気になってはダメよ」
小さく呟く。
今は、ゲームじゃない。私はもう、あのロゼリシアじゃない。だからきっと、大丈夫。そう思いたかった。
けれど、もし本当に、物語の通りになるのなら。
リオ様が、この子を好きになってしまうのなら。
だったら私は———。
「……諦めなくちゃ」
自分に言い聞かせる。
———好きになったら、きっと辛くなる。
そんな事は幼い頃から分かっていた。
いつかリオ様は、あの子を好きになる。
だったら、最初から好きにならなければいい。
そうすれば、いつか来るその日も、きっと笑っていられる。その為に今日までずっと気をつけてきたじゃない。
好きにならないように。いつか別の誰かを好きになる人を、好きになってしまわないように。
……そうしてきたはずなのに。
気づけば私は、リオ様の姿を探すようになっていた。
声を聞くだけで嬉しくなって。名前を呼ばれるだけで、胸が温かくなって。少し会えないだけで、寂しくなった。
いつからだったんだろう。いつの間にか——
「ローゼ!」
「えっ?」
突然、腕を引かれ身体がぐらりと傾く。
「危ない」
「……リオ様?」
気づけば、すぐ隣にリオ様がいた。
廊下を走ってきた生徒と、ぶつかりそうになっていたらしい。なんで、そう言いかける前にリオ様が口を開いた。
「前、見て歩いて」
「……申し訳ありません。」
少し呆れたような声。
けれど、その表情はまるで愛おしい人を見るかのような、記憶の中の彼と変わらぬ表情をしていた。
そしてリオ様は、私の肩へ手を伸ばした。
「ここ、埃ついてる」
制服についた小さな埃を、指先で払ってくれる。
いつのまに…そういえば最近、どうしても眠れず、見た目を疎かにしてしまっていたかもしれない。婚約破棄されるとしても今は一応第二王子の婚約者なのだから気を引き締めないと。
「……ありがとうございます。」
胸が、どくんと鳴った。
———やっぱり、優しい。
リオ様は根が優しい。だから困る。
さっきまで、諦めようと思っていたのに。こんなふうに優しくされたら期待してしまう。
もしかしたら、ゲームとは違う未来になるんじゃないかって。
「……気をつけて」
それだけ言って、リオ様は離れていく。
「…………」
また、遠ざかっていく。
追いかけたい。名前を呼びたい。
どうして私を避けるのか、聞いてしまいたい。
でも———。
聞くのが怖い。
もし、私の知らないところで何かが変わってしまっていたら。いくら心構えをしていても、もし本当に、リオ様の心が私から離れてしまっていたら。それを知ってしまうのが、怖い。
「……ずるい」
小さく呟く。
「避けるなら……ちゃんと避けてください」
そんなふうに優しくされたら。
諦めようとしているのに。
また、好きになってしまう。
「……私、どうしたらいいんだろう。」
ぎゅっと制服の裾を握る。
遠ざかる銀白色の髪を見つめながら、最後に小さく呟いた。
「諦められない……」
———ずっと、好きにならないようにしてきた。
それでも。好きになってしまったのだから。




