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「うん、デイジーが夕食抜きって聞いたから。後で持って行ってあげようと思って、あたしの分こっそり残して置いたの」
彼女は瞳を細めて笑うと、デイジーに「食べて」と言いベーグルを手渡した。
「……ありがとう。ユリ」
ユリがくれたベーグルを口に入れる。ほんのり甘い小麦粉の味が口一杯に広がった。
彼はあっという間に、彼女のくれたベーグルを平らげる。地獄のような空腹から解放され、至福の瞬間が訪れる。ユリはそれを満足げな様子で見ていた。デイジーは壁にもたれかかり、体育すわりしながら隣にいるユリに喋りかける。
「なぁ、ユリ。人間ってさ。何で生きてるんだろうな。俺は両親に捨てられた。要らないってことだ。じゃあ何で要らない子供を作ったんだ。本当、意味わかんないよな……」
しばしの沈黙の後、ユリは口を開いた。
「あたし、デイジーの言ってること難しくて良く分からないけど……。でも、花壇に植えられた花を育ててる時、この花達はきっと私が必要なんだなって思ったりするの。デイジーは、あたしとあたしが大事にしてる花達を守ってくれたよね?だから、これからもあたし達のこと、守ってくれたら嬉しいな」
当時の俺は、ユリの言葉に胸を激しく突き動かされた。それは恋愛感情を抱くといった、類のものでは無い。
ただ、自分を必要と言ってくれた彼女の言葉が、とてつもなく嬉しかったのだ。
「分かった。約束する!これから俺は、ずっとユリのこと守るよ」
あどけない顔に微笑を浮かべてユリが頷く。俺にとって、生きる意味が一つ出来た瞬間だった。
その後、一年間ユリとデイジーは孤児院で共に日々を過ごす。ひもじい生活の中にあっても二人はお互いに支え合い、寄り添いながら生きていた。
そんな静謐な日々にも変化は訪れる。
二人が十歳になる頃、デイジーの遠い親戚と名乗る男が孤児院にやってきた。
男はデイジーの両親との関係を証明する証書も持参し、院長に彼を引き取りたいと申し出る。
院長は、男の申し出に大変喜んだ様子だったが、俺の胸中は複雑だった。ユリと離れたくなかったからだ。
叔父に手を引かれ、門の外までやってきた俺の元へ、ユリが駆け寄ってきた。
「デイジー……。これ」
彼女に手渡されたのは、白色と黄色の折り紙で出来た花だった。
恐らく俺の名の由来である、雛菊を模して作ったのだろう。
胸に熱いものが込み上げる。何の餞別も用意していなかった自分を恥じた。
「ユリ……俺、絶対ユリが居るこの島に帰ってくるよ。お前を守るって約束したからさ」
「……うん!あたし、デイジーのことずっと待ってる」
ユリは哀しみを無理やり押さえ込み、精一杯の笑みを浮かべていた。
叔父と名乗る男に連れられたデイジーは、チルア島から船で大陸に渡り、そこから大陸横断鉄道を乗り継いで、東方に向かう。
道中、叔父はほとんど口を聞かなかった。
デイジーは、ただ黙って車窓に流れるアルプス山脈や、青々と生い茂る木々を眺める。
途中、戦争によって破壊された街の惨状を目にする度に、気分が塞ぎ込んだ。
手持ちぶたさになった彼は、肩掛けのバッグから孤児院で貰った本を取り出すと、席の上で読書を始めた。
叔父が、熊鷹眼をデイジーに向ける。一瞥されただけで、萎縮する程の眼力だ。
「本が好きなのか?」
低くしゃがれた声。突然、声をかけられた俺はどぎまぎしたが、やがて黙って頷き返した。叔父がニヤリと笑う。とても好印象を持つことは出来ない笑み。
デイジーは会った当初から、この親戚と名乗る叔父に、得体の知れない不気味さを感じていた。それは子供に備わっている、ある種の直感からきている。駅や電車の中ですれ違う人間達と叔父は、どこか異質だった。
「書物なら古今東西あらゆるものを揃えてある。私の屋敷で好きなだけ読ませてやる」
叔父の言葉は二人の間を流れる、陰鬱な空気を少しだけ軽くしてくれた。孤児院にいた頃から読書をするのを、デイジーはとても好んでいたからだ。
特に好きだったのは推理や空想小説で、孤児院にある数少ない書物を、ユリと一緒に読み漁った記憶がある。
『孤独を癒すのは最良の本に出会った時だ』という本の一節を読んだ時、同感だと思ったものだ。
だが一瞬、思い描いた希望観測的な叔父との生活は、彼の想像を遥かに絶した苦痛に満ちていた。
叔父の屋敷は、まるで王侯貴族が住まうような豪勢な造りをしており、屋敷の周囲一キロメートルの広大な森林も彼の私有地らしい。
白亜の壁に群青色の屋根。一見すると屋敷というより城に近い印象を与える屋敷の端には尖塔がそそり立っている。
屋敷内に入った途端、得体の知れない気味の悪い感覚に襲われた。そんな感覚を沸き立たせるに至る元凶は、邸内の各所に飾り付けられている彫像や絵画だ。醜悪な顔で牙を剥き、こちらを睨んでいる魔物の像。何かを叫び訴えているような絵。
幼子心にも、趣味が良いとは思えない代物ばかりだと感じる。デイジーには広い個室が与えられた。部屋を見渡し、彼は驚きを隠し切れないでいた。床に敷かれた厚く紅い絨毯。上質な木材で造られた化粧台や衣装ダンス。
中でも目を引いたのは、ぎっしりと書物が詰まった本棚だ。どのタイトルも今まで見たことが無い。彼は小躍りするように、部屋の一角にある天蓋付きのベッドに飛び込んだ。柔らかくふんわりしたマットレス。
日向の香り漂う清潔なシーツ。光沢のあるシルクで出来た掛け布団。今まで住んでいた孤児院とは別世界のような世界に、思わず我を忘れる。




