エピローグ
「ええんか? ホンマで?」
ザジの問い掛けに、動かしている腕が少しだけ止まった。
「ウチとおってもええことなんてあらへん。ホンマに辛いだけやで」
ドクンと心臓が跳ね上がった。
ザジを処刑台から救出した後、騒ぎに乗じて町を脱出した。そして、一目散に家へ帰った。
とはいえ、すでに僕の家は王宮の兵士に知れ渡っている。ここに住むことはもちろん、長居することもできなかった。行く場所は決まっていない。出来る限り遠くへ。今、そのための準備をしている。ありったけの食料やらをリュックに詰め込む。
「ホンマでええの?」
ザジの二度目の問い掛け。
振り返りザジを見つめると、彼女は穏やかに笑っていた。
そうだ。
心は決まっている。
僕の一番大切な物は何なのか?
声は震えなかった。
「構わない」
今度ははっきりと答えることができた。
「むしろ、ずっと一緒にいて欲しい。ずっとずっとそばにいていいか?」
さすがにびっくりしたのか、ザジが僕の顔をじっと見つめてきた。夕方の薄暗い闇の中で、意思の光が輝いている。同じ瞳を、僕は前に見たことがあった。あれはいつだったか。そうだ、共に夜を過ごしたときだ。
「辛いことばっかりかもしれへんで」
ザジは細い声で言った。
「ウチと一緒におったら、あんたは何もかも諦めやなあかんで」
「わかってる」
「まず、平穏な暮らしなんて絶対に無理や。ウチと一緒に逃げ続ける生活を送る羽目になるんやで」
「それもわかってる」
夕方の日差しに包まれたザジは、本当にキレイだった。これほどまでに美しい存在を、僕はかつて見たことがなかった。走ってきたせいで、頬がバラ色に輝いていた。揺れる長い髪は、まるで光と戯れているみたいだった。大きな瞳は意思の強さを宿し、きらきら輝いていた。
僕はザジを抱きしめたくなった。
いや、抱きしめることにした。
「おい」
「なんやねん?」
「こっち来てよ」
しかしザジはムッとした。
命令形が気に食わなかったらしい。
ムッとしたまま、こう言ってきた。
「あんたが来い」
ああ、もう本当にザジはわがままだ。しかも気が強い。媚びることを本当に知らない。もう少し言い方ってもんがあるだろうが。でも、まあいいか。これがザジなんだ。しょうがないよ。こういうわがままさとか、気の強さとか、全部わかった上で、この子と一緒にいることを選んだんだ。
それに、僕が歩き寄らなきゃいけないなら、歩き寄ればいいだけだ。
たいしたことじゃない。
僕は歩み寄ると、両腕を広げ、そっとザジの体を包み込んだ。ザジは少し驚いたみたいだけど、僕はそのまま顔を少し下げた。不思議とためらう気持ちはなかった。また、恐れもなく、僕の唇はザジの唇に近づいていった。ザジが緊張しているのが、よくわかった。普段は強気な彼女の体がこわばっていた。その緊張が伝わってきたとたん、僕も思いっきり緊張してしまった。
僕たちはキスをした。
時間が止まった。
世界が止まった。
そのくせ、心臓だけは跳ね上がっていた。それは多分、恐ろしくぎこちないキスだった。
唇が離れた後、僕はザジの顔を直視できなくて、そのまま彼女をぎゅっと抱きしめた。僕の腕の中で、彼女の緊張が少しずつ溶けていった。
「ザジ」
「何や?」
「僕はザジを幸せにすると誓います。この身に代えてもザジを守ってみせる」
「なっ!?」
ザジの顔が、さらに真っ赤となった。恥ずかしそうに僕から目線をそらし、顔を背けている。ボソボソと何かを言っているようにも見える。恥ずかしがり屋のザジにすれば、それが多分精一杯の表現だったんだろう。
しばしの時間が流れ、ザジが口を開いた。
「なんやねん! あんたみたいなお子ちゃまがウチにその……、その……、プロポーズするやなんて百年早いわ!」
「プロポーズ? 違うよ、単なる愛の告白だよ」
表情が目まぐるしく変わるザジが面白くて、ちょっとからかってみた。
でも、この気持ちは本心だ。何もかも諦めなくちゃいけないって言ったよな、ザジ。わかっているって言ったし、それでも構わないって言ったし、絶対に守るって言ったけど、本当は何もわかっていないのかもな。なにしろ、こんな経験は初めてだからさ。でも、後悔はしない。今の気持ち、この胸の中にあるもの、はっきり定まっているもの、それは絶対に本物だ。
なぁ、マーティス。あなたにとって一番大切なものは何ですか?
実に簡単な問いだった。今この瞬間、答えが目の前にあった。答えが僕の腕の中にある。僕が笑うと、答えも笑った。それはひどく素直な笑みだった。
「僕はザジが好きだ」
「ウ、ウチはあんたのこと好きやないで!」
とは言いつつもザジの顔は、まだ真っ赤のままだった。
「大体ウチを一回抱いただけで、調子乗ってるんやないで。あんたなんかセフレや、セフレ! 都合のいい男や!」
「何、男みたいなこと言ってるんだよ」
「と、友達からやったらええで!」
「なら、友達からで」
「はぁ!?」
ザジは僕の胸倉を掴んで言い放った。
「なんやねん! あんたのウチに対する想いはそんなもんなん!? もうちょっと口説いてみるとかせぇへんの!?」
「友達からって言ったの、そっちじゃないか」
「あんたホンマ女心わかってへんな! もうちょっと歯の根が浮くようなこと言えへんの!?」
「はいはい」
本当に面倒くさい女だ。
僕にどうしろと言うんだ。
でも、そこがかわいいんだけどな。
「なぁ、ザジ。いい加減僕を名前で呼んでくれよ。あのときみたいにさ」
「嫌や。何でウチがあんたの言うこと聞かなあかんねん! あんたはあんたや!」
「むぅ」
「ウチはな、あんたの言うことに逆らいたいだけなんや!」
「なら、僕にどうしろって言うんだ」
「もう一回……」
「え?」
「もう一回、ウチのこと好きって言って」
「ザジ、大好きだよ」
そう言った直後、いきなり唇を塞がれた。今度はザジのほうからキスしてきたのだ。少し背伸びしたザジの体を、僕は両腕で支えた。そうさ、僕たちはこうやって、生きていくんだ。
バカにし合いながら、けなし合いながら、愛し合いながら。