第4話
月日が経つのはあっという間のことで、ザジが僕の家にやってきて早くも一ヶ月が経とうとしている。
ここのところ、僕とザジの関係は今までにないくらいうまくいっていたのだった。ザジのわがままや暴言は相変わらずだったものの、それでもたまには優しい言葉をかけてくれたし、ふと目が合ったときには、
「なんやねん」
とか言いつつ、少し照れた顔になった。
そんなザジはマジでかわいかった。
ぎゅっと抱きしめたくなるくらいかわいかった。
何しろあのザジが優しいなんて奇跡のような話で、ただそれだけで僕は有頂天になっていた。家事を率先してやってくれたり、一緒にご飯を食べようと手料理を作ってくれたり、剥いたばかりのミカンを半分分けてくれたり、それはまるで天国にいるような日々だった。渡された半分のミカンを持ったまま、しばらくぼんやりとしてしまったぐらいだ。
もうむちゃくちゃいい感じだったんだ。
あと少しだったんだ。
何があと少しかと言うと……それはまぁ、あれだが、とにかくあと少しだったんだ!
しかし、そんなものは消し飛んだ。
一瞬で。
何故かって。
慢心したとか、警戒心が薄れたとか、油断したとか、結局はそんなものだったかもしれない。あるいは、運命とか、神様の気まぐれとか。
もちろん僕はそんなもの信じたくなかったし、信じられなかった。
だから、答えはきっと前者にあると思う。
僕はまだ子どもだったから、わからなかった。
終わりがあるまで続くって、どうしようもなく続くって、終わりがいつになるかわからないってことが、どういうことなのかわからなかった。
もちろん、わかっていたとしてもどうしようもなかったと思うけど。
それも、自分の限界を見せられるようで――、本当に腹が立つ。
「魔女を差し出せ!」
「ここに魔女がいることはわかっている!」
「魔女はどこだ!」
僕は人生最大の絶望を味わっている。
今日もまた、平和な一日が過ぎ去ると思っていた夕方、突然家に推しかけられた王宮の兵士たちに取り囲まれ捕まった。後ろに銃を突きつけられ、身動きが取れない。
最も恐れていた、戦慄の瞬間が突然訪れてしまった。
ついに見つかってしまった。
「もう一度問おう。魔女はどこだ!」
「い、言わない……」
少しでも毅然とした態度で向かい合おうとするも、震える声、震える足、効果は何もなかった。
銃声が鳴り響き、右足に激痛が走る。
「いってぇぇぇぇぇぇ!」
血が溢れ、足の力が抜け、地面に倒れてしまった。
身を焼かれるように痛い。
傷口がとんでもなく熱い。
血が溢れる右足を両手で押さえるも、溢れる血の量が多く、両手までも赤く染まってしまう。
「早く言った方が身のためだぞ」
痛みで目が霞む。
すでに兵士たちの何人かが、僕の家を散策している。
やばい、見つかる。
見つかってしまう。
殺される。
ザジが。
僕の目の前からいなくなってしまう。
(連れて行かないで下さい――)
何度も心の中で繰り返す。
かつての僕の願いはこの村を出て行くことだった。大きな街に住み、人混みにまぎれて、色々なものを見て、ときには泣きたくなったり情けなくなったりすることもあるだろうけど、ただ故郷で安穏と暮らす生活に比べればその方がずっとマシだと思っていた。
今だって、そう思うことがある。
お金に代えられない価値がどういうものなのか、僕にはわからなかった。
けれど、僕が今手にしている輝きは、そんな夢よりもずっとずっと確かで強かった。その輝きを守り続けることができるのなら、他のすべてを失ってもかまわなかった。
だから、僕は願う。
(ザジを連れて行かないで下さい――)
もし死神が僕の目に映るのなら、二度と起き上がれないようにボコボコに殴ってやるのに。
このとき、僕は父親が言っていた言葉を思い出した。自分の命に代えても守りたい人がいる。
父さんも今の僕と同じ気持ちだったのかな。思わず微笑してしまう。
僕の微笑に気付いたのか、兵士は訳がわからないといった感じで首を傾げた。
「何故、魔女を庇う。空気を読め。群集はみな、魔女という生贄を欲しておるのだぞ」
「だったら、僕は逆に問いたい。いたいけな女の子をいじめて、挙句の果てには殺して、楽しいのか? それで何が救われる? 一人の女の子を殺すことが空気を読むということなら、僕は一生空気なんて読めなくても構わない!」
痛みで薄れつつある意識の中、僕ははっきりと宣言した。
くだらない、と兵士は一喝し、銃口を僕の目の前に持ってきた。
「もう良い、くだらない問答はしまいだ。貴様も魔女とともに地獄へ送ってやる。向こうで仲良く暮らすんだな」
引き金が指に掛けられる。その刹那、僕は固く目を閉じた。
「隊長! 魔女を見つけました!」
僕に向けていた銃口を、隊長と呼ばれた兵士はすっと下ろした。
「嫌や! 離して!」
目を開け、声がする方を見ると兵士に両腕を掴まれ、連行されているザジがいた。
「あ……、あぁ……」
二階の屋根裏に匿っていたザジがついに、いや、ようやく見つかってしまった。
ザジは喚きながら、拘束を解こうと必死に抵抗しているものの、そんなのは徒労に終わる。「静かにしろ!」と兵士が一喝し、ザジの頬を思いっきり殴りつける。少量の血が辺りに飛び散り、ザジは恐怖のせいか抵抗しなくなった。
やめて下さい。
これ以上傷つけないで下さい。
僕の大切な人を、これ以上。
「やめろぉぉぉぉ!!!!」
声が出る限り、僕は叫んだ。
何度も、何度も、何度も、何度も願う。
連れて行かないで下さい。
僕とザジを引き合わせたのが神様なら、その神様にもう一度お願いを掛ける。
「ザジを……、僕の大切な人を連れて行かないで下さい!」
出会いは突然に。そして、別れも突然に。
神様は残酷だ。僕とザジを引き合わせておきながら、突然引き離してしまうのだから。
この世に神がいるのなら、本当に本当の神様がいるのなら、叶えてください、この願いを。
世界とか、運命とか、宿命とか、未来とか、過去とか、命とか、理想とか、希望とか、理念とか、魔女とか、刻印とか、そんなものどうだっていい。そんなもの関係ない。
「お願いします! お願いします! お願いします!」
「黙れ」
無慈悲にもそんな声が僕の頭上から聞こえる。鈍い音が僕の頭上から響くと、急激に意識が薄れる。
その刹那、ザジと目が合った。
とても悲しい目をしていた。
あの目は以前、僕に向けられた悲しい目。
すべてを悟って笑っていたあのときの目。
僕の意識が無くなる寸前、彼女の口許が僅かに動いた。そして、一つの言葉を紡ぐ。
「××××……」
上手く聞き取ることができなかった。
彼女は何て言ったのだろう。
何て言葉を残そうとしてくれたのだろう。
僕はザジが視界から消える前よりも、痛みで気を失ってしまった。
気付いたときには、すでに夜になっていた。
半分の月が夜空に輝いており、その光が淡く僕を照らし出していた。
荒らされた家の中へと足を引きずりながら、なんとか戻り、自分で応急手当をしていく。
血は止まっているようだが、この傷ではしばらくお風呂に入れなくなりそうだ。
お風呂といえば。
実は僕とザジは一度だけ、共に夜を過ごしたことがある。
ザジがお風呂に入っているときに、僕が間違えて入ってしまったことがある。よく小説やらで見かける男女ハプニングだが、今思えばわざとだったに違いない。だって、わざわざ風呂の電気を消して、僕を待ち構えていたのだから。
間違えたときはしまったと思ったが、ザジの答えは予想外にも「ええよ」との返事だった。
「一緒に入ろう」と。
逆に僕が戸惑っていると、「女に恥かかせるんやない!」って桶を投げつけられたんだっけ。
懐かしい思い出だ。
そのまま、僕たちは共に夜を過ごした。
両親からの愛情を失った者同士、互いに互いの愛情を分け合った。
失ったものを確かめるために、失ったものを取り戻すために。
お互い初めてで、全く知識も無かった僕たちであるけれど、思いのほか上手くいった。
――愛があれば、何だってできる。
ここでもまた、父親の言葉が僕の頭をよぎった。
「ザジ……」
もう思い出となってしまうのか。そして、その思い出は時間と共に僕の記憶と心から消えていく。
結局。
ザジもまた、僕の前から姿を消してしまった。
自分の命に代えても、守るって決めたはずなのに。
溢れる涙。
止まらない涙。
「随分と派手にやられたもんだな」
「サバ兄……」
涙で視界が薄れていたせいか、自分の目の前にサバ兄が立っていることに気付かなかった。
「大きな音がしたから気になって見に来たら、そうだな……、予想通りの展開になってたようだな」
「…………」
僕は何も言わない。何も言えなかった。
うつむいたまま、何も。
「手当てするぞ。素人の応急手当じゃ化膿でもしたら大変だからな」
サバ兄は僕が自分で巻いた包帯を一度外して傷口を確認した後、手馴れた感じで包帯を巻いていく。
傷口に触れられて、少しちくっとしたが思った以上に痛くなかった。
不思議と痛みは感じなかった。
でも。
心の奥底にある痛みは決して拭えきれなかった。
胸が痛い。胸の奥の奥が苦しくなる。
「サバ兄は……」
「ん?」
「僕はどうしたらいいと思う?」
「知るか、そんなもの。自分で考えろ」
呆気なく返された。
「諦めたほうがいい? ザジのこと」
「だから、俺に聞くなって」
「だって、サバ兄は大人だから……」
「何でもかんでも、答えを求めるな。とは言っても、おまえには大人がいないもんな。道を示してくれる大人が」
一通りの手当てをしてくれた後、サバ兄は上着からタバコを取り出して、口にくわえた。白い煙が辺りを漂う。サバ兄が「試しに一本吸ってみるか?」とタバコを差し出した。言われるがまま、タバコに火をつけてもらい口にくわえるもあいにく僕は未成年、すぐに吐き出してしまった。
「大人のまね事はおまえには早いよ、バーカ」
サバ兄はケラケラと笑った。自分から吸えって言っておきながら、意地悪だ。
嫌がらせだ。
ふっとザジを思い出してしまった。
『うるさい奴やな! 早よ出てって!』
少しでも機嫌を損ねると、彼女はすぐそう叫ぶ。
そのくせ、こちらが本当に出て行こうとすると、
『なんやねん! 謝りもせぇへんの!?』
なんて怒る。
僕はその度にうろたえて、おろおろし、バカみたいに何度も何度も謝り、彼女の機嫌を収めようと努力してきた。
こうなってしまった今、ザジのそんな苛立ちあまりの声はあまりにも悲しかった。
『このアホ! もうええわ!』
そんな罵倒すらも聞けなくなってしまった。
ただでさえ遠かった彼女が、手の届かないところにまで行ってしまった。
「そんなことないんじゃないか?」
ニヒルにタバコをくわえたままのサバ兄が、僕の方を振り向き答えた。
そして、一冊の本を手渡された。
「実は一度だけ、ザジちゃんが俺の家にやってきたことがある。どうやって俺の家を突き止めたかは知らないがな。もし、自分に何かあればこの本をおまえに渡して欲しいって頼まれていたんだ。この本にたぶん、おまえの……いや、おまえたちの答えがあるんじゃないか?」
『アーティファクト』シリーズ、最終巻。
主人公のアプローチの甲斐があってか、ついに主人公とヒロインは両思いとなる。しかし、身分の差から決して結婚を認めないヒロインの両親、結婚するなら家を出て行けと激怒する両親。何とか結婚を認めてもらいたい二人は、何度も何度も頭を下げにいくも取り合ってすらもらえず。さらに主人公の元にヒロインの妹が訪れ、姉はゆくゆく妃となってこの国を背負う人間。姉の本当の幸せを考えるなら、別れて欲しいと頭を下げにくる。
それを受けて、ヒロインをこれ以上苦しませたくない主人公は、ヒロインに自分から別れを告げてしまう。
――私はあなたのことが嫌いです。
これまでにもない呪いの言葉だった。
主人公はもう二度と私の前に姿を現さないで欲しいと告げ、去っていく。絶望したヒロインは思い悩んだ末、湖に身を投じようとする。
同じように呪いの言葉を残して。
――あなたはいつか私を忘れて、新しい恋に身を投じるのでしょう。
――なら、あなたが私を絶対に忘れらない呪いの言葉を残します。
――私を呪って、一生私を想い続けなさい。
『選んで欲しかった』
まだページの途中であったけれど、僕はここで読むのをやめてしまった。
溢れる涙が止まらない。呼吸するように涙が溢れて、どうしようもなくなって、胸の奥の奥が苦しくなる。
ザジの真意がわかったからだ。ザジが去り際に言いたかった僕に対してのメッセージ。
ヒロインの呪いの言葉すべてに線が引いてあって、その線の最後には「ゴメンな」と小さく書かれていた。
「ザジ……、ザジ……」
窓から見上げる景色をただぼんやりと眺めていた。
半分の月が浮かんでいた。
その光が僕を淡く照らし出していた。
ザジは最初からすべてをわかっていた。出会った瞬間から、こんな別れになることも。
僕がずっと自分を想い続けると。
そのためのお詫びの言葉、こんなに重い「ゴメン」の一言は初めてだ。
ザジがどんな気持ちでこの一言を残したのか、このページに線を綴るザジの気持ちを考えると胸が詰まる。
僕はなんて愚かなのだろう。
大好きな女の子にここまで言わせるなんて。
――『魔女である前に、恋する一人の女の子としてありたい』
――だから、『ゴメンな』
ザジの声が聞こえる。
あなたが私を嫌いになる言葉ならいくらでも思い付きました。
でも、それを言葉にすることはできませんでした。
なぜなら、あなたが大好きだから。
どんなになっても、あなたを好きでいたいから。
突然別れが来ることがわかってても、その瞬間まで恋する一人の女の子でありたいから。
最後のわがままです。
あなたが私を忘れることができなくて苦しい思いをし続けることになっても、あなたは私を想い続けてください。
一途に想われるなんて、女冥利に尽きるというものです。
時が経つのも忘れて、僕はただ泣き続けていた。
あの温もりにもう一度触れたい。
ザジの笑顔をもう一度見たい。
何が何でも守りたい。
この想いに応えてくれたのか、一つ目の奇跡が起こった。
――『諦めない!』
窓から通り抜けた一陣の風が、本のページを一枚めくった。
そのページに書かれていたこの一言が目に入った。
物語はバッドエンドではなかったのか。手に取り、ページを読み進める。
ヒロインが湖に身を投げる直前、主人公が後ろから抱き締める。そして、プロポーズ。結婚指輪をヒロインの左手薬指にはめる。
諦めない、諦めきれない。たとえ、どんなになっても私はやはりあなたの側にいたい。どんな障害が立ち塞がろうとも、それを糧とし跳ね除けて、あなたと結ばれたい。あなたでなければ、私はダメだ。
――戦って、戦って、戦い抜いて、抗い続けること、その諦めない心こそが最大の武器になるのだから!
その信念に基づいて、主人公はあらゆる困難に再び立ち向かう。そして、その主人公の信念に共感し、ついにはヒロインの両親も二人の結婚を認め、めでたくハッピーエンドとなるところで物語は終わる。
「何だよ、これ……。こんなに上手くいくことあるのかよ」
本当に小説の中の話だ。
たとえどんなにガンバっても、信じても、ダメなことはダメ。上手くいかないことが多い。それなのに、僕は何て情けないんだろう。
こみ上げるのは無力感でもなく、怒りだった。自分に対しての。
「まだ僕は何もしていない」
信じてもいないし、ガンバってもいない。ただ泣いていただけだ。何もしないで。
ザジはこの小説が最後にハッピーエンドになることを知っていたのか?
それを知って、僕の背中を押すために残したのか?
謝るだけではなく、このために。
真意はわからない。けれど、この言葉のおかげで自分の気持ちは前を向くことができる。
それだけは確かだった。
「足掻いてやる、精一杯に」
どんなにカッコ悪くても、形が悪くても、惨めでも、情けなくても、頼りなくても、守りたい人がいる。救いたい人がいる。世界で一番大切な人がいる。たとえ、世界をひっくり返しても成し遂げたいことがある。
「ほら、答えは出ただろう」
すでにタバコは二本目に差し掛かっていた。サバ兄は僕が本を読み終えるまでの間、ずっと何も言わず見守ってくれていた。
「もっとも俺は絶対に選ばないけどな。全財産をギャンブルにつぎ込むような真似、俺は絶対にしない。大人は合理的で、そんな夢物語を見たりはしない」
「かもね……。サバ兄はとても正しいことを言ってる。正しすぎて、とても気持ち悪い……」
サバ兄は口でふっと笑った。そして、「かもな」っと呟くのだった。
「おまえはザジちゃんのこと、好き?」
「もちろん」
「あの子のためだったら、何でもする?」
「もちろん」
「あの子のためだったら、命を賭けれる?」
「もちろん」
「あの子のためだったら、他のすべてを失っても構わない?」
「もちろん」
「恥ずかしくないか? そんなセリフをポンポンと吐いている自分が?」
「全然」
僕はあっさりと答えた。
サバ兄は笑っていた。ひどく、優しく笑っていた。
飽きられているのかな、それとも、こいつには何を言っても無駄だって思われているのかな。
でも、この決意は揺らがない。決してウソ偽りの無い本心だった。
「ガンバレ、ガンバって奇跡を起こせ。もしかしたら、上手くいくかもな」
サバ兄は僕の頭を優しく撫でた。
「何があっても、あの子を守ってやるんだ」
そして、サバ兄はあっさりと手を離して、白衣を翻して僕に背を向けて去っていった。
「右手に勇気を、左手に信念を」
僕はその言葉を何度も呟き、ザジが囚われている町へ向かった。