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神様は、少々私に手厳しい!  作者: 守野伊音
第三章:大陸
53/100

53.神様、少々全力で振りかぶりました


 ごとごとごと、と、鈍い音がずっと聞こえている。偶にがたっとちょっとだけ高い音がして、身体も揺れた。

 何だろう。何の音だろう。どこかで聞いて、最近よく聞く、馴染のなかった馴染ある音。

 身体に纏わりついている服が湿っていて気持ち悪い。手も、何故かうまく動かせなくて、ちょっと不満だ。寝ぼけたまま唸ると、凭れている温かい何かが身動ぎして私の身体を抱え直した。

 …………私、何に凭れているんだろう。

 恐る恐る目を開けたら、光の線がたくさんあった。細い光の筋が通る場所には、白い欠片がきらきらしている。綺麗で幻想的な空間だけど、それが埃だと分かってしまうと素直に綺麗と思えない。ただの埃っぽい空間に様変わりである。人間って我儘なものだ。

 幾筋も落ちる光の線の合間には、疲れ切った表情をした人達がいる。見覚えのある人もいた。同じ船に乗っていた、ガリザザの兵士だ。彼らは一様に悲嘆にくれていて、両手で頭を抱えている人もいる。何故両手なのかというと、彼らの手は片方ずつ動かすことができなくなっているからだ。その手首を黒く塗りつぶしているのは、以前、私も嵌められたことがある、手枷だ。

 自分の手を見下ろせば、じゃらりと重たい音がして鎖が揺れた。大変懐かしい、鉄の鎖との再会である。

 重たい鉄枷を持ち上げて、まじまじと見つめながら、ふと気が付いて臭いを嗅ぐ。やっぱり鉄棒の臭いがした。予想はついていても何故か嗅がずにはいられなかった。


「目が覚めたのか?」

 凭れているものが気になって目を覚ましたのに、鉄の臭いにうへぇという顔をすること優先してしまった。

 驚いて飛び起きる。

「ルーナ!?」

「大事なさそうで何よりだ」

 ちょっと肩の力を抜いたルーナに胸の中がじんわり温かくなる。心配してくれたのだろうか。だったら非常に嬉しい。心配かけたことは申し訳ないけれど。



 ルーナは手枷のついた自分の手を持ち上げて、抱きかかえていた私を離した。包まれていた温もりが無くなった途端、濡れた服も相まって一気に体温が下がった気がする。これが、今の私とルーナの距離だった。

 つまり、目が覚めたら離されるけど、意識がない状態なら懐に入れてもらえるくらいは仲良くなったということだ!

 二か月の船旅は無駄ではなかったのだと、ちょっと嬉しい。



「ここは?」

「囚人用の馬車だ」

 全然嬉しくない状況だった。

 何がどう囚人用なのだろうと思ったら、馬車の幌部分が全部鉄だった。鉄の箱を馬が引いているのだ。光の線が何本も落ちてくることから、結構ぼろぼろなのは分かった。

 物珍しくてきょろきょろと見て、はたと気づく。

 私、別に罪を犯していない。

「私! 潔白……」

 思わず大声を出してしまい、馬車中の視線を独り占めしてしまったので、慌てて音量を下げる。

「…………ガリザザの兵が一緒に囚われている事に疑問は?」

「少々」

「気づいてはいたようで何よりだ」

 ちょっと安堵したらしいルーナは、小さく嘆息した。やっぱり嘆息のカズキのほうがいい気がする。短足のカズキだったらどうしよう。

「それで、何故にこのような事態に?」

「さあな。俺も、周囲をちゃんと確認出来たわけないじゃからな。ただ、この近辺の海岸に打ち上げられた人間は全て捕えられたようだ。遠目だったが、アリス達は別の馬車に乗せられていた。気を失っていたようだったが、まあ、大丈夫だろう」

「アリスちゃん! ユアン!」

 声を小さくしようとしていた努力をうっかり忘れる。無事でよかった。

 みんな無事だったので、ひとまずは安心だ。

 ほっとして身体の力が抜けたら、さっきのルーナの言葉が気になってきた。

 ちゃんと確認できなかったという事は、少しは確認できたという事だろうか。つまりルーナは、捕まる前に目を覚ましていたのだ。

 嫌な予感がする。

「…………ルーナ?」

「何だ」

「…………予測するに、ルーナが捕えられたは、私が差しさわりになったのでは?」

 ルーナは強い。足も速い。

 そのルーナが、こうもあっさり捕まったなんて信じられない。見た感じ怪我もなさそうだから、抵抗もしていないように見える。

 ルーナは何も答えない。それが答えだった。

「ごめん!」

 私が呑気に眠っていたから、さぞかし足手まといだっただろう。

 咄嗟に両手を床につけて謝る。謝ったところで許される問題じゃないけれど、それとこれとは別問題だ。そのまま勢いよく下げようとした額が、ルーナの枷のついた両手で止められた。

「…………ちょっと待て」

「はい!」

 手に押し上げられて上げた先で、ルーナは微妙な顔をしている。

「幾ら記憶がないといっても、恋人だった女を見捨てて自分だけ逃げるような男だったのか、俺は。寧ろ、お前はそんな男と恋仲だったのか? 俺が言うのも何だが、そんな男とは関わらないほうがいいぞ。見る目ないぞ、お前」

 私の所為で、ルーナがルーナに濡れ衣を!

「そ、そのようことはないよ! ルーナは、凄まじくよき男だよ! 優しく毛深く清廉だと、ヴィーも申していたよ!」

「…………毛深く」

「毛深い騎士だよ!」

「………………自分で言うのは非常に躊躇われるが、気高くで合っているか?」

「それですた!」

 重ね重ねて、更に重ね合わせるくらい申し訳ない。




 とりあえず落ち着いた後は、落ち着いてなかったのは私だけだけれど、声を抑えて話した。

 事態はよく分からないけれど、最後の当面の不安であったルーナの丸薬について聞いてみたら、無事だそうでほっとした。船旅だからもしもの時の為に油紙で何重にも包んでいたのだそうだ。このままのペースだと後一か月は保つという。

 ほっとはしたけれど、丸薬自体は全く以って嬉しくないので、何とも言えない気持ちになった。

 後、私の懐に入れていた、記憶喪失に備えた対策[私はルーナが大好き!]と日本語で書いたメモは、濡れてでろんでろになって全く以って無事ではなかった。



 何の予告もなく一際大きく馬車が揺れて、身体を支えきれずルーナの胸に頭突きをかました。硬かった。

「ご、ごめん」

「いや……どこかについたようだな」

 確かに、馬車の揺れが止まっている。外の音をよく聞こうと耳を澄ませると、何故かガリザザの兵士達が両手を顔を覆った。

「もう、終わりだ……」

 不吉なこと言わないでください。

 その一人を皮切りに、何人もの人が立ち上がり、壁をガンガン叩き始めた。

「やめろ! 出してくれ!」

「同じ国の兵士じゃないか!」

「頼む、後生だから!」

「出してくれ! 助けてくれ!」

 大の男達が金切声をあげて助けを乞う。

 思わずルーナと顔を合わせるけれど、ルーナは軽く眉を顰めただけで大した反応はない。

「……ルーナ、驚愕しないの?」

「捕えられた時も似たような狂乱状態だったからな。寧ろ、ここまで静かだったことに驚いた」

「成程」

 ルーナが落ち着いているので、私もパニックにはならずにいられた。私の所為で捕まったルーナにこんな事思うのは酷いとは思うけれど、一人じゃなくて有難い。一人だったら、こんな恐ろしい馬車にいられるか! 私はブルドゥスに戻る! と飛び出してしまいそうだ。

 でも、パニックにはなっていないけど緊張はしているわけで、心臓がどこどこ鳴っている最中に、突如開かれた扉に驚いて思いっきり後ずさってしまった。


 扉を開けたのは、馬車内のガリザザ兵と同じ恰好をしているから、彼らもガリザザ兵だ。外のガリザザ兵に、内のガリザザ兵が縋りつく。

「頼む、助けてくれ!」

「頼む、頼む!」

「俺達、仲間だろ!?」

 縋りついた兵士が、ぎゃっと呻いた。外の兵が鞭のようなものを振るったからだ。

 ばしんばしんと革がしなる音が響き渡る。

「情けない。それでもディナスト様の兵士か!」

 蔑む視線を受けても、兵士達は尚縋りつこうとした。そして、再び鞭が唸る。

「ディナスト様の勅令を忘れたとは言わせんぞ! 証がなければ人とは認めん! お前らはただの家畜だ! 仮令それがガリザザの兵であろうと変わらぬと!」

「だから、証はあった! 海で流されただけで!」

「黙れ豚ども! 証を失った時点で貴様らの人として証明は失われたのだ! 分かったらさっさと進め! 人になりたければ勝利あるのみだ!」

 啜り泣く男達と一緒に馬車を下りる。

 他にもたくさん馬車があった。それらから降りてくるのは、ほとんどがガリザザの兵士だ。それはそうだろう。だって、あれだけの数で侵略にきていた船のほとんどが嵐に呑まれたのだ。流れ着いた人達がこれだけいても不思議じゃない。

 中には軍服じゃない人もいた。男の人ばかりだけれど、様子はみんな一緒だ。皆一応にびくびくとしていて、中には震えながら何かに祈っている人もいる。



 私達がいる場所は、広場のように開けている。周りはぐるりと崖に囲まれていて、自然の神秘を見せつけてきた。

 ただ、異様なのは、その崖の上にずらりと人がいるという事だ。いや、鉄馬車からぞろぞろ項垂れた男達が出てくるのも充分異様だけれど。

 上にいる人達は、まるで運動会の時のようなテントの下にいた。日除けなのだろう。皆身なりが良く、ドレスだったり、ツバキが来ていたような服に何割もひらひらときらきらを追加したような服を着ている。

 たぶん貴族の人達だろうという予想はついた。ブルドゥスやグラースの洋風な服装だったり、ツバキ風だったりしているのは何故だろう。

 その中でも群を抜いて派手な空間がある。

 他の人の何倍も広くテントが張られ、そもそも二、三段高い。大きな長椅子に寝そべっている男がいた。その男の周りには女の人達がたくさんいる。遠いわ、高いわ、逆光だわでよく見えない。

 何故か目が合っている気がして、なんとなく見返す。でも、こっちに手を振っていると思ったら後ろにいる人でした的なあれだろうと思ったので、すぐに視線を外した。

「カズキ」

「はい!」

 ルーナに呼ばれたからでもある。

 何でしょうと勢いよく振り向いた私の背中に、何かが体当たりしてきた。

「ママ――!」

「ふぐぁ!」

 吹っ飛んだ。

「ユアンだぞ、と」

「も、もう少々手早くお知らせ頂ければ、幸福、でした……」

 慣れた衝撃をくれたのは、当然ユアンである。向こうからアリスも早足でやってきた。無事でよかったとか、再会できてよかったとか色々あるけれど、とりあえずびっくりした。

「ママ、ママ、ママ! あのね! ユアンね!」

「き、聞く! 聞く故に、少々待って!」

 身体の上で嬉々として話しだされると潰れる。嘆息したルーナがひょいっとユアンを持ち上げてくれたので、その隙に立ち上がって体勢を整えた。腰を落してふんばり、さあ、どんとこい! と待ち受ける。ルーナに手を離されたユアンの突進を、今度は全力で受け止めた。

 ユアンは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。

「ママ! ユアンね、泣かなかったよ!」

「え?」

「アリスがね、男なら、すきな人をまもるんだっておしえてくれたんだ。ユアンね、ママがだいすきだから、泣かないでママをまもるんだって、男と男のやくそくをしたんだよ!」

「大人と大人の約束!」

「ちがうもん」

 ぷくりと膨れた頬が可愛い。ごめんねの気持ちを込めてその頬っぺたを潰したら怒られた。

 もう、もう、ママ! と地団太を踏んでいるユアンの頭を撫でている横で、ルーナとアリスが話している。簡単に再会を喜んですぐに状況の把握に努めている姿を見ると、やっぱりこの二人は騎士なんだなと思う。



「ここはルーヴァルらしい。まさか、ガリザザを第四皇子が事実上統一したとはな……」

「ルーヴァルは占領されたのか?」

「ああ」

 アリスの瞳がちらりと上の一際派手な集団を見た。

「あれがディナスト皇子だそうだ……別名、狂皇子だ」

 狂皇子、ディナスト。

 嫌な二つ名だ。


 こっちからはちゃんと見えないけれど、あれがツバキの上司だ。

「反旗を翻した人間の生まれ故郷を住人諸共焼打ちにしただの、人間を獲物に狩りをするだの、碌な噂がないらしい。ルーヴァルに侵略した後、証を持たない人間は家畜として扱うという触れを出している」

 アリスは苦々しい顔を浮かべた。

 証。さっき兵士達の会話の中に出てきた言葉だ。

「兵士ではない人間も含めて、闘技場で戦わせて勝者に証を与えるらしい。一家の長が勝てば家族は免除されるらしいが、負ければ勝つまで奴隷だ。……狂ってる」

「……自国の兵でも関係ないらしいな」

 絶望に打ちひしがれた顔で項垂れるガリザザの兵士達がその証拠だ。彼らは同じ服を着た男達に枷を外されても、顔を覆ったまま動かない。私達も流れ作業で枷を外してもらった。鉄棒の臭いはしっかり手首に残ったけれど。

「今日は、この辺り一帯を使った遊戯だそうだ」

「遊戯?」

 重たかった枷から自由になった両手をぶんぶん振って感覚を取り戻しながら首を傾げる。耳の後ろに砂が張り付いていて、慌てて擦り落とす。お風呂入りたい。髪の毛も塩でばりばりだ。

 アリスはそんな私をちらりと見て、吐き捨てるように言った。

「罠に人間を嵌めて、上から見学する遊戯だ。……吐き気がする」

 ぐるりと私達を囲むたくさんの視線。綺麗な服を着て、綺麗に座っている。その人達の手には遠眼鏡が握られていて、私達を見下ろしていた。服装が違うのは、ガリザザとルーヴァルと二国が揃っているからだったのか。

 航海中に聞いた話だけれど、ルーヴァルは元々、グラースとブルドゥスから移住した人達が建てた国だという。だから言葉も同じだし、文化も似ている。そこから更に南に行った地でそこにいた少数部族と一緒になったりして大きくなったのがガリザザらしい。時とともにいろいろ変化して、今ではガリザザとルーヴァルは全く違うものになっている。服装一つでも、まるで別物だ。

 何はともあれ、少々の発音の違いはあるものの、言葉が一緒で本当に良かった。これ以上混ざられると、私の残念な頭脳では、日本語でさえ怪しくなってしまう所だった。大陸は多数の少数部族がいるので、中には言葉が違う人達がもいるらしいけれど、共用語は私でも話せるから嬉しい。




「……悪趣味にも程がある」

 ルーナも苦い顔をしてぐるりと視線を回す。その視線を追って、アリスは舌打ちをした。

「生き延びた者には報酬があるらしいが、馬鹿馬鹿しい……唯一の救いは、本来は闘技場で負けた一般人が参加させられるはずだったところに、今回の嵐で証を失った大量のガリザザ兵に矛先が向いたことだな」

「成程。だから、女子供がいないのか。…………カズキが黒曜と分かっているだろうに、躊躇いもなく放り込むのか」

 ルーナとアリスの憐れんだ視線が私を見る。やめて、なんか自分が可哀想な気がしてきたじゃないか。

 それにしても、全く嬉しくない紅一点である。では嬉しい紅一点とは何か。それは多分、白い皮と餡子の中で燦然と輝く苺大福の苺とか、真っ白いクリームの上にちょこんと乗っかった苺とかだ。

「アリス、やけに詳しいな。誰に聞いた?」

「同じ馬車に捕らえられていた一般人の男だ。こんな遊戯が行われるとあっては、証を持っていない人間が死に物狂いで証を奪い取る事件が頻発しているらしく、証を奪われて逃げていたが捕えられたらしい。運悪く海岸線に逃げていて捕まった人間がまだいるらしいが…………カズキ! 遠い目をするな!」

 苺食べたい。



 周囲を囲む崖の上で、綺麗な恰好をした人達が楽しそうにこっちを指さして笑っている。その下では、項垂れた二百人近い男達がこの世の終わりみたいな顔でぶつぶつ何かに祈っていた。

 まるで、悪い夢の中にいるみたいだ。

 馬鹿な考えを振り払うように、頭を軽く振って髪から砂を落とす。ルーナもアリスもユアンも無事で、皆揃っているのだ。悪夢じゃない。悪夢はもっと何かを失わせてくる。

 とりあえず手櫛で髪を整えて、服もちゃんと直す。気持ちを切り替えるには身なりを整えるのが効果的だ。しわしわでよれよれだけど、ちょっと持ち直した私の背を、アリスがぽんっと叩いた。

「安心しろ。組分けは自由に組める。だからお前は、怪我しないようにだけ気をつけろ」

 促された先では、班決めみたいに五、六人に人々が分かれていく。ガリザザ兵の服を着ていない人達は、泣きそうな顔でおろおろと同じような人と固まった。あれが、アリスに色々教えてくれた人達だろうか。全部で三班くらいの人数がいる。その三班は寄り添うように固まった。

「了解」

 足手まといにならないように頑張ろう。役には立てなくても足手まといにならないだけで大分違うはずだ。

「要は生き残ればいいんだろう」

 いつのまにかいなくなっていたルーナが私の肩を叩き、アリスとユアンに剣を渡していた。どうやら荷物が返されているらしい。剣が返ってきて安心すればいいのか、剣が必要な事態なんだろうなと暗い気持ちになればいいのか、ルーナが私の肩を叩いて励ましてくれたことに歓喜すればいいのか。

 …………歓喜かな!



 がんがんと荒い鐘の音が響き渡る。慌てて鐘の音が鳴った場所を向いたら、皆の視線は別の場所にあった。ディナスト皇子が立ち上がったのだ。さりげなく向きを調整して、そっちを向く。

 遠目だからちゃんと見えないけれど、裾がひらひらしているのは見える。頭と肩でもさもさ揺れ動いているのは鳥の羽だろうか。クジャクの羽くらい大きく見えるけれど、何の羽だろう。

「つまらん」

 短い言葉で、別に叫んだわけではないのに、その声はよく響いた。周りが静まり返っているからだけではない。偉い人の条件はよく通る声を出せることだろうか。言ってる事とやってる事は最低だけど。

「女がいないから花もないな。まあ、その分、質を高めて俺を楽しませろよ」

 周りからの憐れみの視線が私を見る。皇子の中で、私は女性の分類には入れて頂けなかったようだ。大変光栄である。

「そうだなぁ……ああ、そうだ。誰でもいいから組の中の誰か殴れ。思いっきり。軍人だろ、お前ら。相手を吹っ飛ばすくらい派手に出来るだろう。手加減した組は失格で獣の餌にくれてやる。精々気張れ」

 つまらなさそうに言われた途端、兵士達は同じ班の人間を殴り飛ばした。躊躇いもなくだ。殴られた人の口から血と白い物が飛び出したのは、もしかして、歯だろうか。

 唖然とした私達の傍に、一般人の三班が悲しげな顔で近寄ってきた。その内の三人を仲間が支えている。その頬は真っ赤に腫れあがっていた。

「早く済ませたほうがいいよ。殺せとか腕を切り落とせって言われないだけマシなんだから」

 痩せ形で頬のこけた男の人が、びくびくしながら教えてくれた。戸惑っている間に、私達以外の班は皆ノルマ達成している。


「そこのお前ら、獣の餌が望みか?」


 さっきまでのつまらなそうな様子はどこに行ったのか、皇子は楽しげな声を上げた。

 妙な、空間だ。妙というか、おかしいというか、尋常じゃない。

 狂皇子。まさしく、狂っている。だって、何だろう、この空間。

 こんなの、どう考えたっておかしい。気持ち悪いくらい趣味が悪くて、吐き気がするのに、どうして皆こんなものなんだよって顔してるんだ。

「ルーナ、私を殴れ」

「待て、腕試合は俺の勝ちだっただろう。アリスが俺を殴ったほうが被害は少ない」

 ルーナとアリスが素早く会話を交わした。ちょっと待って、私、その腕相撲対決見た事ないんだけどと、全然関係ないことを考えながら、私は手を上げた。

「はい! 私、殴る!」

「お前、それで前に指を折っただろ!」

「…………何やってるんだ」

 慌てたアリスと呆れたルーナに、へらりと笑う。

 だって、この三人の中なら、私が殴ったほうが一番誰の被害も少なくて済む。役に立てないなら、せめてくだらない事で体力使わせたくない。こういう露払いなら私だって出来る!

[いっせぇのーで!]

 ぐっと右の拳を握って、思いっきり振りかぶった。手加減なし、腕を止めるな、何も考えず、手心加えず、思いっきり行けと、頭の中で自分に言い聞かせる。


 そうして私は、渾身の力を込めて自分の頬をぶん殴った。




 真っ赤になった視界の中で、ぽかんとした人達の顔が見える。


 だって、誰でもいいからって、言ったじゃん。


 とりあえず、鼻血はたらりって流れてくるんじゃない。ぶばっと噴き出すんだなと、無意味な知識を手に入れた。

 倒れ込む寸前、誰かが私の身体を掬い取ってくれた。前に酷く慌てたアリスがいるから、後ろにいるのは、もしかしてルーナだろうか。

「何をっ、何をしている!」

 アリスに答えようにも顔が痺れていてうまく動かせない。でも、覚悟をして自分で殴ったので思考は結構冷静だ。血の味がする口の中を舌で確認する。幸い歯が欠けている場所は発見しなかった。よかった。だって永久歯だ。

 顔を殴っただけなのに、身体全部痺れたみたいにぶるぶるするのは衝撃なのか、それとも私が弱いから怖がって震えているだけだろうか。強くなりたいものである。

「だい、じょ、ぶ。みびで、じようじだ」

 私の利き手は左だから、多少は力が弱まったはずだ。

 うへへと笑ったら、凄い量の鼻血が流れ出した。洪水だ。はっと視線を上げたら、私を覗き込むルーナがいた。その、なんともいえない顔と言ったらない。そりゃあそうだろう。見るに堪えない顔である自覚は満々だ!

 慌てて手の甲で鼻を押さえる。その手を取られて、それはもう、海よりも深い深いため息が落とされた。ルーナは私の鼻の上を摘まみながら、自分の服の裾を引っ張って私の鼻に当ててくれた。

「ごべん」

「…………謝るくらいなら最初からするな!」

 ルーナに怒鳴られた。びっくりだ。

 怒鳴られるほど関心を向けてくれているなんて思っていなかった。これは喜ばしい事だろうか。単に私が馬鹿だから怒鳴らないと分からないと思われているだけだったらどうしよう。

「このっ……この、このっ…………たわけ!」

 物凄く溜めてから頂いたたわけにはへらへら笑えたけど、目一杯に涙を溜めたユアンがぶるぶる震えて突っ立っていたのには、誠心誠意謝罪した。

 


 なかなか止まらない鼻血に辟易していると、どこで息継ぎしているんだろうと首を傾げたくなる笑い声が響いた。皇子が大爆笑している。皇子様としての威厳とかは大丈夫なんだろうか。後、笑い声もよく通る。いい声を持った人は得だけど、内緒話の時は困りそうだ。

「よくやった! 生きていれば後で褒美をくれてやる!」

 いえ、要りませんと断れる雰囲気ではないので、心の中で丁重にお断りした。

 皇子はまだお腹を抱えて笑っている。

「お前達もこれくらいのことはして、俺の意表をつけよ。全員右倣えではつまらん」

 そもそも出してきた命令がおかしいのだけど、それに突っ込める人は誰もいない。

 ずっ、と、鼻を啜りながら起き上がる。

「まだ動くな、たわけ!」

「だびびょーぶ」

 たらりと垂れてきた鼻血を手の甲で擦ってみたけれど、また垂れてきたので袖で押さえた。

「マ、ママ……ママぁ……」

「べーび。べんび、べんび」

「ママ、べんぴなの?」

「げんびでず」

 平気だよ、元気だよと伝えても、ユアンは泣き出しそうだ。ごめん、鼻血止まらない。

 右手を何度か握ってみて折れてないことを確認する。痺れていて感覚がなかったけれど、問題なさそうだ。

「ルーナ!」

「……何で俺に怒鳴るんだ」

「以前、カズキはどういう女か私に聞いてきたな! こういう女だ! だから絶対に目を放すな!」

「……これ以上ないほど凝視した目の前で、自分をぶん殴ったけどな」

「……だから、こういう、女なんだ」

 がっくりと肩を落としたアリスの背をぽんぽんと叩いて励ましたら、チョップしてこようとした手が彷徨い、頬を抓ろうとした手も彷徨っていた。

 鼻血大洪水の私を慮ってくれる親友の優しさにほろりとなる。


 だって、ルーナがアリスを殴るのも、アリスがルーナを殴るのも嫌だったのだ。まあ、私が私をぶん殴るのも見たくなかっただろうけど、そこは早い者勝ちである。

 さっさと早い者勝ちで失礼した申し訳なさと、私は大丈夫だよという気持ちを込めて、指さしてぷすーと笑ってやると、アリスの眉が吊り上がった瞬間その指に齧り付かれた。

 親友が、技:齧り付きを持っているとは露知らず。間抜けな悲鳴を上げてしまった私を指さして、アリスはふんっと鼻を鳴らした。ついでに、心なしかへの字口のルーナと、目に涙をいっぱいに浮かべたユアンにも指さされた。

 男性陣の仲の良さが飛躍的に良くなった気がする。



 しかし、そんな時間は長くは続かない。

 皇子のずっと下。壁の付け根に置かれていた箱の覆いが解かれていく。ぱかり、ぱかりと、まるで玩具のように簡単に開かれていく箱の中から、ぞろり、ぞろりと姿を現してくるその生き物を見て、誰かが金切声を上げた。

「牙蛇だ!」

 キバヘビという単語を初めて聞いた。だって、たぶんあれは、グラースにもブルドゥスにもいなかった生き物だ。


 じりじりと皆の足が下がっていく。私を半分以上抱き上げるように抱えたルーナも、その波に逆らわず足を下げていく。

 思ったより大きい身体。思ったより素早い動き。思ったより、心に直接恐怖を叩きこんでくるその生き物の名を、私の世界ではこう呼んだ。


[鰐!]




 両手を勢い良く広げ鳥の羽を散らせて、皇子が叫ぶ。

 空からやけに綺麗な羽が降ってくる。きらきらと光を弾いて、まるで天からの贈り物のようだった。

 でも、それを降らせてくる人は、絶対天使なんかじゃない。


「さあ、宴の始まりだ!」


 こんな狂宴、参加費無料でも断固お断りである!



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