海 ―波瀾《はらん》の前兆―
七月も半ばになり、今日で学校が終わる。学生にとっては長期休暇――夏休みが待っていた。課題の量にはため息が出るが、それでも楽しみではある。
終業式を終えてそれぞれ一度家に帰り、待ち合わせて皆で海に来たのだ。燦々《さんさん》と輝く太陽の光が当たり、海面はキラキラと輝いていた。
ビニールシートを浜辺に敷き、ビーチパラソルを挿して日陰の準備万端だ。飛ばないように重しとして皆の荷物を置いて、いまは好きなように遊んでいるところである。ミノリはそのビニールシートに座り、空を眺めていた。
「ミノリ、平気か?」
いつものように隣にハルカが座り込む。足を投げ出した彼は、水着姿で薄手のパーカーを羽織っていた。そこから覗く躯は無駄な肉はなく、細いがしっかりとしている。その姿はカッコイイと思うが口には出さない。ただ単に恥ずかしいから。
「心配しなくても大丈夫だし」
海に来ても泳がず、長袖・ズボンという格好なので、他者の視線が痛かった。だが、それも初めだけだ。この綺麗な空を見れたことで、視線などどうでもよくなっている。
「そう。ならよかった」
わしゃわしゃと頭を撫で、ハルカはふわりと柔らかく笑った。ミノリは赤くなっていく顔を逸らして、ふたたび空を瞳に映す。
「ハールーカぁー」
「気持ちいいよ、早くおいでよぉ!」
白い水着に身を包んだ女の子と黒い水着に身を包んだ女の子――海の中で遊ぶ女の子達はハルカに手を振った。早く早くと。
「呼んでるけど、行かないのか?」
「行かない。メンドクサイからな」
横目で問うミノリにきっぱりと即答し、その場に寝転がった。ハルカの視線の先にあるのは、躯を支えるようにビニールシートに置かれた色白でも健康的な指である。
「ミノリはさ」
「なんだよ?」
「指、綺麗だよな」
言い放ちながら、ハルカはその指にそっと触れる。一瞬呆気にとられたミノリであったが、すぐに我に返り反論にでた。
「な、に言ってんだよっ! バカじゃねえのっ」
くすぐったさに腕を引こうとするが、逆に手首を掴まれてしまう。今度は目を見張り、ハルカを見据えた。
「なっ!?」
「離さない」
「離せよっ」
手を引こうとするが、動かない。二人を比べればもちろん、腕力もハルカの方が強いのでどう足掻いても敵わなかった。ミノリはそれでも懸命に腕を引いていたが。
「離せって……!」
「離すと、逃げるから」
そんな声と共に引き寄せられ、ミノリは逆らえずにそのまま体勢を崩してしまう。眼下にいるハルカを押し倒したような格好になり、羞恥に顔が染まった。絵的になにかが違う気がするが、口には出さない。出してしまえば確実になり、もっと羞恥が湧くだけだ。
「逃げないで」
ハルカは躯を起こして、耳元でそう囁いた。またまた顔に熱を帯び、ミノリはただただ震えることしかできない。
「俺から離れないで、ミノリ」
「離れない……、し。ちゃんと傍にいる、から」
少し掠れた声とともに、ハルカの頬に震えた手を添える。指先まで赤く染まるのは、初めてではないだろうか。
「いるよ。ハルカの傍に。だってオレは、離れたくないんだから」
離れたくない。それは一緒の願いのようだ。
「そっか、解った」
ハルカは笑顔を溢しながら手を離し、ふたたびミノリの頭を撫でた。
「よかった……」
そうポソリと呟く声は波の音に消えていく。
離れてほしくない。一緒にいたい。しかし、一緒にいることで相手が辛い思いをするのはどうしても嫌だ。――そう考えてしまえば、途端に不安になる。言わないだけで、本当は辛い思いをさせているのではないのかと。
「ハルカっ」
考えを巡らせるなか、白い水着を着た女の子――赤坂が駆け寄ってくるのが視界の端に映った。ハルカは面倒くさそうに起き上がるが、一瞥してまた寝転がってしまう。
「ハルカ?」
「なにを聞いてきても、寝てるって言っといて」
そう放ち、そのまま目を閉じてしまう。ハルカの思わぬ行動に、ミノリはふたたび目を丸めた。
「はぁっ!? ちょっと……!」
「なんて説明すればいいんだよ」とは出てこず、代わりとでもいうように「ハルカ」と呼ぶ高い声と共に近くで砂を踏む音が聞こえてきた。
「あ、の……赤坂、さん」
ミノリはぎこちなくそちらに視線を遣れば、やはり赤坂が呆然と立ち尽くしている。
「ハルカはどうしたの?」
「……寝てるよ……」
「さっき、顔が見えたけど?」
そう盲点を突かれるが、黙ったままではそれが正解となってしまう。そもそも――端から嘘がバレているであろうが、どうにか誤魔化すしかなかった。
「き、気のせいじゃないかな?」
「気のせいじゃないよ」
バツが悪い為か、視線を逸らすミノリにため息を吐き、彼女は履いていたビーチサンダルを脱いでビニールシートに上がった。そうしてハルカに歩み寄れば屈んで、「ねぇ」とそっと触れる。
「――ごめん、無理」
しかし彼はその手を軽く払い除けた。赤坂は宙を踊るそれをすぐに引っ込めて、柔く握りしめる。
「なっ、なにしてんだよ! 相手は女の子だぞっ」
「性別は関係ないから」
乾いた音に視線を戻して目を丸めるミノリを一瞥して起き上がり、ハルカは赤坂に視線を向けた。申し訳なさそうに眉を下げながら。
「触れられるとなんかぞわってなるんだ。ごめんな。赤坂だからどうとかじゃない。クラスメイトでもこうなるから、潔癖なのかもしれない。たぶん俺は、俺が認めた人じゃないとダメみたいだ」
「だって……わたしっ」
「ごめん」と放たれた所為か、彼女は俯きながら言葉を放っていた。
「悪いけど、赤坂のその気持ちには応えられない。言ったはずだろ。――好きな人がいるって」
「わたしだって……っ、わたしだって、ハルカが好きだもんっ!」
間髪を入れずのハルカの言葉に、赤坂は弾かれたように顔を上げる。大声をあげながら、その綺麗な顔に涙を浮かべていた。真剣な表情。淡く赤く染まる頬。――これは恋する女の子だ。
「ハルカが、その子を想うように……っ、わたしだって、ハルカが好きなの!! わたしだけじゃなくて、他にもハルカを好きな子は沢山いるよっ? でもっ……ハルカは、いつもいつも木下くんだけ構ってっ……」
そう放ちつつ、手の甲でぐしぐしと涙を拭く。しかしそれでも、溢れる涙は止まらないらしい。恥ずかしいのか、赤坂はしゃくりあげながらまた下を向いた。
きっと彼女は、好きというその想いが溢れて止まらないのだろう。それならば。
「ハルカ、少し散歩してくるな」
「おい、ミノリっ? お前なに考えて――」
考えを読んだハルカの言葉を聞かず、ミノリは早々に立ち上がり走り去ってしまう。すぐに小さくなる背中に軽いため息を吐き、後頭部を掻いた。
「またかよ」
また逃げられてしまった。一度ならず二度も。どうしてそうまでしてお人好しなのか。
「なんで逃げるんだ」
逃げないで。置いていかないで。一人にしないで。そのどれもが喉を支える。
一緒にいたから哀しくなかった。一緒にいたから、痛みを忘れられた。ミノリがいないいま、たった数分のことでも、押し潰されそうなほどの波に飲まれそうだ。
「ハルカ……、泣いてる、の……?」
すんと鼻を啜りながらそう言われて気づく。目頭が熱く、頬が温かい。彼は一度顔を拭い、それを膝頭に埋めた。
「ダメなんだ……。俺は、ミノリじゃないと、ダメなんだよ……」
消え入りそうな声で、そう放つ。「どうしても、ミノリじゃなきゃダメだ」と。そんな彼の想いに、赤坂はきゅうっと胸が締め付けられた。これはきっと、他の誰も敵わない。例え自分でも。
「…………ハルカ。解ったよ、ハルカの気持ち」
――好きなんだね。どうしようもなく、どうしても好きなんだ。
「わたし、木下くんを捜してくるね」
涙を拭いながら赤坂は立ち上がり走り去る。顔を埋めたままのハルカには、砂を踏む音だけが聞こえてきた。
「ミノリ」
ポツリと名前を呼ぶ。早く来て。早く、触れたい。
「話、終わった……?」
鼓膜に響くこの声は。
「ミノリっ……!」
弾かれたように顔を上げると、屈んでこちらを窺うミノリと目が合った。「頬、濡れてるな」と、そっと頬に触れれば、ミノリは「あ」となにかに気づく。
「もしかして――泣いたのか?」
「――っ」
愛しい人の顔を見て、また涙が溢れてきた。泣き方を忘れたのに、どうやら涙腺は壊れていなかったらしい。嬉しいやら哀しいやら淋しいやら、いろんな感情が涙とともに溢れ出した。
「えっ……、だ、大丈夫か、ハルカっ」
もっと触れてほしい。自分が自分でいられるように。
「ミノリ」
慌て出したミノリを抱きしめる。強く。抱きしめられたミノリはミノリで、ハルカの頭を優しく撫でれば、彼は流した涙をもう一度手で拭った。
「……悪かった。赤坂さんはハルカのことを好きだから、話をする機会を作ってあげたかったんだ」
「そんなことする必要なんてないのに」
「なに言ってんだよ。オレだけハルカを独り占めにできないって。なんだかんだでほとんど独り占め状態だけどさ……」
「優しいんだな」
「優しくなんかねぇよ」
遠くで二人を見ているのが、とても嫌だと思ってしまった。触れてほしくない。一緒にいてほしくないと思ったのだ。こんな自分のどこが優しいというのだろうか。
「……嫉妬か……」
ミノリは小さく呟く。ただただ短い間でも、嫌だなんて。
「なに?」
「なんでもないから」
嫉妬――。こんな感情を抱く日がくるとは、思いもしなかった。浅ましい自分がいる。
「……なぁ、ハルカ」
もしも、自分がいなかったら――。
「なんだよ?」
「もしもの話だけどさ、オレがいなかったら、ハルカはちゃんと女の子を好きになれてたかもしれないよな」
「な、に……言ってんだよ」
ハルカはミノリを引き剥がし、そのままの勢いで肩を掴む。困惑する揺れる瞳が、それでも射抜くようにミノリを見ていた。
「っ……!」
「なにを言ってるのか、解ってるのかよ!?」
それではミノリの全てを否定することになるし、ハルカの生きた証がなくなることにもなる。なにも残らなくなり、意味なんて持たない。
「解ってる! ちゃんと……、解ってるし……」
「じゃあ、なんで――」
「だって男同士は白い目で見られるだろ? オレは白い目で見られようがいいんだ。そういうのは慣れてるし。でもハルカは違う、だろ。ちゃんと女の子を好きになった方がいい」
動揺する声を遮るように放たれたミノリの言葉を聞き終えたハルカは、力任せにビニールシートに押し倒した。
「なっ、にすっ……!?」
一瞬、驚きで目を見張り、次いで起き上がろうとするミノリを無理矢理組み敷く。
「なんでそんなこと言うんだよ? それとも、誰かに変なことを吹き込まれたのか?」
「違うっ!」
ミノリはこれでもかというほどに左右に首を振る。なら、どういうことなのか。全く解らない。
「俺はミノリがいれば、なにもいらない。生きてきたのはミノリの為なんだよ! そう言っただろ! お前が好きなのに、それなのに……っ、他の誰かと付き合えって言うのか?」
ハルカは苦しそうに眉根を寄せている。しかも声が低い。これは完全に怒っているようだ。いや――怒らせた。怒らせるつもりなんて、なかったのに。
「ごめんなさいっ。そ、ういうつもりじゃ……なくてっ」
自分の何気ない一言が、ハルカを傷つけてしまった。女の子と付き合った方がいいなんて、本気で言ったわけじゃない。自分が嫌だから。だから、言葉を紡いだのだ。
「じゃあどういうつもりだよ!?」
「……って……なんだ」
怒声に躯を震わせて、ポツリポツリと呟く。それは小さすぎて聞き取れない。
「……聞こえない」
「だって、嫌なんだよ……」
「嫌って、なにが嫌なんだ?」
呆気に取られたが優しく問えば、ミノリは再度口を開いた。
「ハルカが……っ、赤坂さんと……女の子といた時に嫉妬する自分がいてっ、ハルカに触れてほしくなくてっ……そうやって……、そう思う自分が……、嫌だ、よ……」
そう放てば、ミノリは慌てて両手で前髪を掴み顔を隠す。自身の顔を見られたくないからだろう。
こんなにも好きで、でも自分じゃどうしようもできなくて。離れたくはないけれど、離れたら嫉妬とかそういうモノがなくなるのかもしれないと思ったのだ。浅ましい自分を知られたくなかったから――。
「嫉妬って……」
なんだよ、それ。自分のことが嫌になったのかと思ったのに。全然違ったらしい。
そっと髪を掴むミノリの手に触れれば、ぴくんと躯を竦めた。
「怒鳴ってごめんな」
前髪から手をやんわりと外して、その手の甲に唇を落とす。ぱちくりと目を瞬かせたミノリは左右に頭を振った。それは自分の方が悪いということだろう。
「好きだ」
言い放ち、今度は額に唇を落とした。額から鼻、鼻から頬と次々にキスの雨を降らす。キスをする度に、ミノリは躯を竦めていた。
「ハ……ルカ……、人がっ、人がいるから……、だからっ……」
大衆から離れた場所にパラソルを挿しても、近くには人の気配がある。見られていようががいまいが、湧き上がる羞恥はあった。
「恥ずかしい?」
「あ、当たり前だろっ」
「あと少し待って」
そう放ち、ハルカはミノリの唇を塞ぎなが片手に指を絡める。触れるだけで離れて、また口付けての繰り返しだ。なにかを確かめるように、何度もキスを繰り返す。
浅い呼吸のなかで、ミノリはハルカの手を握りしめた。
好きだ。好きなんだ。どうしようもなく。
頭を巡るその言葉に笑みを浮かべれば、ハルカも口元を緩める。
数秒か数分かはぼやける頭では解らないが、時間が経てば、どちらかともなく唇が離れていった。新しい空気を吸い込み、乱れた呼吸を整える。
「お前らさぁ……」
いきなり声を掛けられ、ふたりともにびくりと躯を竦めた。声がした方向を窺えば、そこには一緒に海に来ていたクラスメイトが立っていた。男八人、女十人の割合だ。呆れた顔をする者や、顔を背けている者もいる。他にも一緒に来た人はいるが、思い思いに遊んでいた。
「往来でなにしてんの?」
「は、激しいんだね……」
半数の女子のなかには赤坂もおり、彼女を含めてほぼ顔を背けている。驚きか羞恥かは解らないが、見ているのが憚られたのだろう。
「いたんだ?」
「いたよ。ちなみに、相当前からいたよ」
ハルカがミノリの腕を掴みながら一緒に起き上がるなか、一人の男子が呆れながらに答えた。
「う、あ、あ……な、なんっ……なん、でっ……!?」
ミノリの顔が瞬時に朱に染まる。見られた恥ずかしさが爆発したのだ。最早耳までも赤い。
「悪い。気づかなかった」
「は、離せって……!」
ミノリはハルカの腕のなかで、慌てたように腕を突っ張る。珍しい抵抗に、ハルカは首を傾げた。
「ミノリ?」
「こ、こんなにたくさんの人に見られて……っ、平気でいられるわけがないだろっ」
真っ赤なその顔でハルカを見上げるが、ハルカは柔らかく笑むだけで、離してはくれない。端から離す気がないのかも解らないけれど。
「っは……ははっ」
ふたりの様子に一人の男子が高らかに笑い始めた。お腹を押さえて、躯を曲げている。
「な、なに……?」
恐る恐るミノリは男子に視線を送る。彼は目尻に溜まった涙を拭って、目を細めた。
「木下って可愛いなぁ」
「は……?」
なにを言っているのかと固まるしかない。ミノリにはなにがどう可愛いのか解らないのだ。
「キスの経験はあるからさ、んな狼狽えなくてもいいし。あ、ついでに言うと、その先とかも」
さも当然とばかりに放つ男子は周りに「なぁ?」と問う。未だ固まるミノリを他所に、話は進んでいくらしい。問われた方はどうしたものかと目を合わせたり、頭を掻いたりしている。
「まぁ……」
「なんだ、ないと言えば嘘になるけど……」
「わたしはあるような、ないような感じかな」
「あたしはキスはしてるけど、まだしてないなぁ。こういうのは大事だしさ、まだ先かな」
始めこそ言い淀んでいたが、男女それぞれまちまちに返答する。聞き終えたハルカは一度長く息を吐き、カバンの上に置かれたビーチボールを手に取ってそれを思い切り投げつけた。問うた男へと。
「ほら。だから大丈――え? ぎゃほっ!」
当たったボールは跳ね返り、砂浜に落ちた。各々ポカンと口を開けたまま、ふたりを見遣る。
「アホか」
「アホってなんだよ!」
「ミノリに変なことを吹き込むな」
ぱんぱんと手を払いながら男子に軽蔑のような目を向けているハルカは、次いでミノリに視線を注ぐ。その目は優しく、やはり他の人とは一線があった。
「はぁあっ!? 木下だってそれぐらい知ってるっての!」
言い終わるなり、男子と視線が合ってしまった。しかも救いを求めるようなウインクつきで。ミノリは逡巡するかのように目を泳がす。
「……あ、と……う、うん!」
「ほらっ! ほらっ」
ぎこちなく頷くミノリを見遣り、男子は興奮気味にハルカを見る。が、反してハルカは「なにがほらだよ」と冷ややかに紡いだ。
◇ ◇ ◇
「……ムカつく」
皆から離れた場所でやりとりを見ていた女の子は呟いた。彼女は鮮やかな黒色の水着――ビキニに身を包んでいる。細い躯に合うようなデザインで、彼女はこの日の為に何軒もお店を回った。
それなのに。意中の彼は一瞥しただけで、もう視線もくべない。
後ろで束ねられたポニーテールの髪が風に靡き、ネイルアートで綺麗になった爪を噛んだ。
「ハルカは――」
黒目がちの双眸の先にはミノリがいる。
「木下……。アンタだけのものじゃないんだよ」
彼女は血管が浮き出るほどに強く手を握りしめた。
◇ ◇ ◇
一瞬躯が震え、ミノリは首を傾げる。
「どうかしたのか?」
「いや……、なんでもない」
嫌な感じがしたが、気のせいだろう。ぞわりと全身に走った不快感は、一瞬だったのだから。
「そう」
ハルカはくしゃりとミノリの頭を撫でて、口元を緩める。それにつられるように、ミノリも口元が緩むんでしまう。
「なぁ、ハルカぁ」
一人の男子はハルカに歩み寄り、肩に手を置いた。
「腹減ったし、飯食いに行かね?」
「触るなって」
軽くその手を払うハルカに、男子は「あ」と思い出したように言葉を放つ。
「そっか。悪ぃ、忘れてた」
「お前ならありえるな」
ハルカは呆れた顔で言葉を紡ぐ。失礼だが、友人は頭がよろしくない。言われたことはすぐに忘れる鶏頭である。ある意味では、それはとても羨ましいが。
「次から気をつけろよ」
言い放ちつつミノリの手を取ったが、ミノリは立ち上がることはせずに掴む手に掌を乗せた。
「あのな……ハルカ」
「どうした?」
ハルカが目を瞬けば、ミノリは困ったように眉を下げて、荷物を指し示す。
「皆で飯食べに行くと、荷物番がいなくなるけど?」
「あー……そうなるな」
「オレがこのまま荷物番してるからさ、皆は飯食いに行きなよ」
また、だ。また彼は自分を犠牲にしようとする。たったひとりで。
「ミノリが残るなら、俺も残るよ」
「ハルカも?」
「そう。俺も」
「嫌だ……」
ミノリは小さく呟き、唇を噛む。――なぜわざわざ残るのかと。
「ミノリ?」
聞き返そうとすれば手から逃れ、ビニールシートからも出てしまう。ともすれば、陽射しが容赦なくミノリを襲った。白い肌にじわりと汗が浮かぶ。
「ちょっ……、ミノリ!」
「ハルカが楽しめないのは嫌だ!」
「危ないから戻れ」という言葉に振り返ることなくそう叫び、なにを思ったのか走り出してしまう。
「なっ!?」
最早ハルカは驚くしかなかった。目を丸くさせながら、小さくなるミノリを眺める。
「な……んで、逃げるんだよ……?」
嫌いじゃないなら逃げないでほしい。空いた距離が、離れた温もりが淋しさを呼び起こすから。
「あ、戻ってきたよ」
ひとりの女の子が言い放つ。すぐに伏せた瞼を上げれば、ミノリは確かに近づいてきていた。砂に足を取られるのか、時折躓きながら。
「ハルカっ」
「ミノリ、どうして――」
傍まで寄るミノリに声を出そうとしても、わけが解らずに声が出ない。どうして走り去ったのか。
ミノリは困惑気味のハルカの手を掴み、掌になにかを乗せる。それは貝殻だった。小さくて白いその貝殻を、ハルカはじっと眺める。
「オレはさ……オレは、ハルカに友達と楽しんでほしいんだ」
「楽しんでるよ」
「嘘つくな。ハルカはオレといるだけで、皆と泳いでないだろ!」
ミノリはハルカの目を見る。その瞳に映し出されるミノリ自身の姿は、どこか頼りない気がする。
「ミノリといれば、どんなことでも楽しいよ」
そう紡いでハルカは微笑む。その言葉は嬉しいけれど、胸に突き刺さるという反対の意味もあった。
一緒にいたい。しかし、一緒にいすぎると二人ともダメになってしまう。
「ダメだよ……。一緒にいすぎると、ダメになる、から。選択の妨げになる」
「ならない」
「そう……言い切れるのか?」
「言い切れるよ」
ハルカは真っ直ぐにミノリを見つめる。不安に揺れているであろうことは明白だ。安心させる為に、熱い視線を送った。
「言い切れる」
嘘ではない。瞳を見れば解る。それでも猜疑心は消えてくれない。顔を逸らして俯くミノリには、微笑むハルカは見えていなかった。
「だから俺といて下さい。悩むならふたりで悩もう、ミノリ」
頬に手を添えれば、ミノリは躯を跳ねさせて顔を上げた。揺らぐ瞳は、目前の愛しい人を映している。
「ふたり、で……?」
ふたりで悩んだことなんてない。ずっとひとりで悩んでいた。ハルカに迷惑はかけたくないその一心で、抱えたものをひとりで溶かそうとしている。――いまも。
「言いたいことがあるなら聞く。ちゃんと聞くから」
頬から離したその手で、ぎゅっとミノリの手を握る。
「だから――離れないで」
逆に、不安でしょうがないんだ。いつか離れてしまうのではないかと、不安が四六時中付き纏う。いなくならないで。離れたくない。一緒にいたい。――これからも。
「一緒に空を見るんだろ?」
言われた言葉にはっとする。目を見開くと同時に思い出した。
『綺麗な空をハルカと一緒に見たい』
「っ――……」
そう言ったのは自分自身だ。なのに、今まで思い出せないでいるなんて、なんてバカなのだろうか。
「一緒に見よう」
今度は軽く抱きしめて、ハルカは囁くように語りかける。
「――うん。一緒に、見たい……。一緒に……いたい」
腕のなかで、ミノリは目に涙を溜めながら小さく笑う。
あの時に思ったじゃないか。ふたりだったら大丈夫だと。ふたりならそれでいいと。そう思ったのに、それも忘れていたんだ。
――悩むならふたりで悩もう。放たれた言葉を心の中で反芻して、広い背中に腕を回した。もうひとりで悩まないと、そう決断して。




