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ミノリ ―閉ざされた過去―

 眠気に完敗したあとに、ミノリは長い夢をみた。それは小学生のころであり、まだ『あの人』と暮らしていたころの夢だった。それを懐かしいと感じるほどには、ときが流れているらしい。

 あの人――母親の機嫌は起伏が激しく、いつも読めなかった。逆鱗に触れたならば最後であり、手をあげられてしまう。しかし、その肝心の『逆鱗』が『なにか』解らずにいるのだ。解らないから、『触れないようにする』ことが難しい。その結果、手をあげられることの方が多かった。

 一昨日も昨日も今日も。そしてきっと明日も。一日一回は必ず、振り上げる手を見る。白く細いその手は、いつも長袖に覆われていた。それは気になってはいたが、最後まで聞くに聞けなかった。


「うるさい!」


 ごめんなさい。もうしないから。


「うるさいっ! うるさい、うるさいっ!」


 ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん。

 悪いことはしないから。約束するから。だから元に戻ってよ。

 降り下ろされる手は、外では活躍しない。いつかは外のようになってほしい。笑ってほしい。いつかは。

 殴られる度に痛みが躯を蝕んでいく。――でもこの痛みは、オレが悪いからなんだ。だからお母さんはぶってくるんだ。



  ◆   ◆   ◆



 庭の木にはセミが止まり、鳴き声をあげている。季節は夏だった。

 冷たい床に寝転がっていると、インターホンが鳴り響いた。母親は出かけていて、家には自分一人だけだ。

 どうしようかと考えていれば、続けざまに何度も鳴らされてしまう。痺れを切らしたミノリは渋々玄関まで行き、ドアを開け放った。


「……はい」

「ミノリ」


 煩わしいセミの鳴き声に混じり、自分の名前を呼ぶ声。その聞き慣れた声に顔を上げると、そこにはハルカが立っていた。


「ハルカ……?」

「今日、学校休んだろ?」


 「なんで」とミノリの口が開く前に、ハルカは黒色のランドセルの肩ベルトを片側だけ外し、それを支えながら空いた片手で器用にランドセルを開ける。


「プリント、貰ってきたから」


 中からプリントを取り出し、ミノリに差し出す。


「クラス違うのに?」

「あぁ、なんか家が近いからって渡された」

「あっそ」


 プリントを受け取り、用は済んだとドアを閉めるが、途中で「待った!」とハルカの手がドアを掴んだ。


「んなっ……! バカっ、危ないだろっ」


 ゆっくり閉めなければ、怪我をするところだったじゃないか。


「外、行こうぜ」

「はぁ……? 外ってなんで? ――つか、お母さんに怒られるから行かないし」

「大丈夫だよ。怒られそうになったら、俺が止めに入るし」

「お母さん、怒ると怖いし……」

「バーカ」


 ハルカはドアから手を離し、その手でむにゅっとミノリの頬を軽くつねる。


「そんな顔すんな」

「しょんな顔って?」


 頬をつねられている為に『そ』が『しょ』になってしまう。


「泣きそうな顔」

「……気のせいだろ」


 そんな顔はしてないと小さく漏らせば、ハルカはミノリの頭を撫でた。


「でも、俺といる時は泣いてもいいよ。ミノリが泣き止むまで、傍にいるから」

「ハルカが行きたいなら、……外……行ってもいい」

「じゃあ、行こうぜ」


 すぐさま手を取られる。だがミノリはその手を引き剥がした。


「待った。カギ、取ってくるから」

「そっか、解った。待ってる」


 静かにドアを閉め、ミノリはぱたぱたと廊下を走る。

 久しぶりに外に出られる。それが嬉しかった。頬が緩む瞬間――ズキン、といきなり傷が痛みだす。淡く、しかし、鋭く。


「いっ……」


 響く鈍痛は、暗に「遊びに行くな」と言っているように感じた。

 目頭が熱くなるが、ぐっとこらえる。泣かない。男だろう、泣いちゃダメだ。そう暗示をかけながら唇を噛んで堪えつつ、ゆっくりと自分の部屋に行く。


「ってぇ……」


 ドアを閉めて息を吐き出し、新しい空気を肺に送る。荒い息を整えながら、机にかけてあるランドセルを開けて、内ポケットから家のカギを取り出す。それを握りしめ、ミノリは部屋を後にした。


「あ……」


 玄関に続く廊下を歩いていると、ハルカの後ろ姿が見えた。彼は外で待っていたはずだ。なのに玄関先に座っている。ミノリはゆっくりと忍び足で近づいた。


「な、なにしてんだよ?」


 肩越しに振り返ったハルカはおかしそうに笑っていた。たぶん、初めから気づいていたのだろう。


「外暑いから、中で待つことにしたんだよ。で、カギ、持ってきた?」

「うん」

「じゃあ、行こう」

「いっ……」


 ミノリの手首を掴むが、すぐに眉間に皺を寄せた。ハルカは慌てて手を離す。


「あ、ごめんっ」

「違っ……、ハルカの所為じゃないから……」


 慌てた様子に首を振り、息を吐き出して視線を逸らす。


「ミノリ?」


 不審に思ったハルカは声をかけた。しかしそれは聞き流されてしまう。


「ほ、ほら、早く行こうぜ」


 「な?」とミノリは慌ててハルカの横に座り、靴を履く。


「うん……」


 府に落ちないが、ハルカは小さく頷いた。ミノリがそういうのならと。

 なにかある。なにかが――。だって、おかしいだろ。夏に長袖と長ズボンなんて。そう思ったけれど、口には出せなかった。いろんな可能性があるから――。

 ハルカは立ち上がり玄関のドアを開ける。開け放たれたドアから陽射しが入り込んだ。


「っ……、眩しい」


 ミノリは思わず額に手を当て、陽射しを遮る。


「ほら、早く行こう」


 差し伸ばされた手を取り、ミノリは立ち上がった。

 ――外はいい。空が綺麗なことが解るから。風も気持ちがいい。だから外は好きだ。


「あっ」


 空を視界に受けていればカギが手から滑り落ち、階段に落ちる。金属がぶつかる高い音が響いた。


「大丈夫か?」


 ハルカはそれを拾い上げ、慣れた要領で玄関のカギをかける。ついでミノリの掌に、ぽんとカギが乗せられた。


「ほら。落とさないように気をつけろよ?」

「ごめん……」

「謝るなよ」

「ごめん」

「いいよ。気にしてないし」


 ふたたびミノリの頭を撫でたハルカは、その手をミノリに差し出す。


「行こうか」


 差し出された手を握りしめれば、痛みなんてどこかに忘れることができた。



  ◆   ◆   ◆



 二人は近所の公園に向かい、木の前に設置された木製のベンチに腰を下ろす。多少ニスが剥がれているが、それは気にならない程度だ。

 ハルカの漆黒のランドセルは、彼の膝の上で太陽光を受けていた。


「暑いな」

「そりゃあ、夏だし。でも、オレは外が好きだな。ほかの季節でもさ」

「外が好きって?」


 それはどういう意味だとミノリを見るハルカだが、ミノリはミノリできょとんとしながら言葉を紡いだ。


「だって、空は青くて綺麗だし、風は気持ちいいよ?」

「空……ね」


 ミノリの言葉にハルカは空を見上げる。白い雲に青い空。そして照りつける日射し。それはハルカにとっては、いつもとなんら変わらない風景でしかない。その程度なのだ。それに、綺麗なのは空じゃない。本当に綺麗なのは――。


「青い空に白い雲。夕方になると、赤い空にオレンジ色の雲……。うん。やっぱ、すごく綺麗だよ」


 ミノリはハルカを見て笑みを浮かべる。反してハルカは目を見開いた。刹那、それを細めてミノリを見つめ返す。


「――……ミノリの方が、綺麗なのに」


 ミノリには聞こえないように、小さく呟く。


「え、なに? なんか言った?」


 聞こえないように呟いたが、ミノリが首を傾げたのでハルカは慌てて「なにもないからっ」と言い放った。ご丁寧に手を左右に振りながら。


「あ、そう」


 ミノリがそう口を開いた瞬間、強い風が吹いた。髪が靡き、木々が踊る。


「いっ、て……」


 風に煽られた砂が目に入り、とっさに目を擦れば、軽く咎められてしまう。


「バカ、擦るなって」

「だって……」

「ほら、見せてみろ」


 頬を掴まれ、引き寄せられる。近づいたハルカの顔は、心配そうに歪められていた。


「とりあえず瞬きしろ、瞬き」

「う……ん」


 促され、何回か目を瞬く。そうすれば、痛みが引いていった。


「取れた、かも……」


 しれない、と言い放ちながら、ミノリは少し長い服の袖で、目尻から伝う涙を拭いた。


「服で拭くなっての。ハンカチで拭きなさい」


 ふたたび慌てたハルカは、半ズボンのポケットからパンダの絵が描かれたタオルハンカチを取り出し、ミノリの顔を拭く。


「ちょっ……わっ……、う゛ーっ」

「ん、これでよしっ」


 拭いていた手を離し、ハンカチを戻してぽんぽんと頭を軽く叩けば、なにかが手の甲に当たった。


「え……?」


 ハルカは再度空を見上げる。そのなにかは、ポツポツと次々に落ちてきていた。――雨だ。さっきまでは晴れていたのに、一面灰色の雲に覆われている。そして地面が少しずつ濡れていく。


「冷たっ」


 地面が濡れるということは、自分達も濡れるということになるわけだ。それは勘弁願いたい。


「っ、くそっ……」


 ミノリの手首を掴み、すぐさま走り出す。ランドセルも片手に握りしめて。


「っえ? ハ、ハルカっ!?」


 本格的に降る前に、雨宿りをしなくては。近くにあった土管が並列になっている遊具に入る。二人がそこに避難してすぐに、雨脚は強くなった。


「すげぇ……」


 ミノリは感嘆としてそう呟くが、それは雨音に消されてしまう。

 夕立だと思うが、まさにバケツをひっくり返したような雨だった。辺りは雨のカーテンで霞んでいる。


「ごめんな」

「なんでハルカが謝るんだよ?」


 雨から視線を逸らしたミノリは、不思議そうに首を傾げた。ハルカの言葉の意味が解らないからだ。


「雨が降ってくることが解ってたなら、外には連れ出さなかった」

「雨が降ったのは、ハルカの所為じゃないよ。天気は操れないしさ。だから、誰の所為でもないよ」


 ハルカの頭を撫でるミノリは、「いつもと逆で少しおかしいな」と笑った。


「元気だせよ」

「あぁ……。あ、そうだ。ミノリ、プリン食うか?」

「はぁ? なんだよ、いきなり」

「プリンあること、いま思い出したんだよ。あ、安心しろよ。帰るまで職員室の冷蔵庫で預かってもらってたから」


 だからたぶん大丈夫だ、とハルカは黒いランドセルを開けて、なかを探った。数秒後にゆっくりと手が上がりる。そこには言った通りにプリンがあり、その手を差し出される。


「やるよ」

「いいよ、要らない。ハルカのだし、ハルカが食えよ」

「じゃあ、半分こしようぜ」

「半分こって……、スプーン一個しかないだろ?」


 プリンの容器にはひとつのスプーンしかない。どうするのかとハルカを見れば、「あぁ」と思い出したように口を開いた。


「それは大丈夫。もう一個あるし」


 言い放ち、またランドセルを探るハルカの口端は緩んでいた。


「ほら」


 もうひとつのプラスチックの小さいスプーンが、掌に乗せられる。


「なんで二個あるんだよ!?」

「んー、なんでって、余ったからもらったんだよ」


 ハルカはプリンのフタを開けながら言い放った。はっきりと。


「二個あれば、ミノリと一緒に食べられるだろ?」


 スプーンの袋を開け、プリンに切れ目を入れる。きっちり半分ではなく、半分よりやや右寄りに。そしてその大きい方をスプーンで指し示す。


「ミノリはこっちな」

「ハルカが大きい方を食えよ」

「いいから」

「でも、ハルカの――」

「ミノリ。口開けて、口」


 ミノリの言葉を遮るように、ハルカは言葉を被せてくる。


「なん――っ」


 「なんで?」の問いかけは、遮られてしまった。甘い味が口内に広がる。ハルカによって無理矢理プリンを食べさせられたのだ。


「もう食ったからこっちな」


 ハルカはそう言って笑ったのちに、ミノリの手から封が開けられていないスプーンを取った。


「バカじゃねえのっ」


 口からスプーンを外して、ミノリはフイとそっぽを向いた。


「バカはバカなりに生きてますよ」

「…………」


 よしよしと頭を撫でて小さく笑い、無言でスプーンをかじりながら耳まで赤くなるミノリを見て、ハルカは今度は微笑んだ。


「ほら、早く食べようぜ」

「食えばいいんだろっ」


 促され、黙々とプリンを食べるのはただただ恥ずかしいからだ。


「……ミノリ、目ぇ瞑って」

「その理由は?」

「カラメルついてるから」


 カラメルがついていてなぜ目を瞑らなくてはいけないのか。不思議に思ったけれど、ミノリは言われた通りに目を閉じた。


「取れた?」

「まだ」


 ハルカはミノリの頬に手を添え、わき上がる罪悪感とともに唇を軽く重ねる。――だましてごめんな。そう謝りながら。


「……取れたよ」

「い、いま、なにしたんだ……?」

「唇拭っただけだぞ」

「そうかよ」


 ミノリはふたたび土管の入り口へと移動し、外を見遣る。雨は線を描き、辺りをとてつもなく見えにくくさせていた。地面にあたった雨粒は跳ね返り、また落ちる。


「雨……止まないな」

「雨宿りしてれば、いつかは止むだろ」

「まぁ、そうだけどさ……」


 雨の日は好きにはなれない。いつも機嫌が悪かったが、雨の日は母親の機嫌がもっと悪くなるからだ。


「止まないかなぁ」

「……くしっ」


 響くくしゃみにミノリはびくりと躯を竦める。


「寒い?」

「少しな」


 ハルカは軽く鼻を啜った。見える肌には鳥肌がたっている。


「オレは長袖だけど、ハルカは半袖だもんな」


 ハルカに近づきながら紡いで、そうして隣にまたちょこんと座る。二人の間には、重ねたプリンの空容器があった。上の容器には丁寧にフタとスプーンが二個ずつ入れられている。


「雨……」

「ん?」

「早く止んでほしい」

「いつかは止むから」

「いつかなんて信じない。いつかなんて……っ」


 ――そんな曖昧なことは信じたくない。そう漏らされる声は、微かに震えていた。


「ミ、ノ……リ?」

「――っ……」


 唇を噛みしめるが、溢れ出た涙が頬を伝う。



  ◆   ◆   ◆



 ――いつかは終わる。我慢しいてれば終わるんだ。

 お母さんがぶってくるのは、オレが悪い子だから。だけどそれでも――。


『ごめんなさいっ』

『うるさいっ!』


 宿題をしていたら、突如壁にぶつけられてしまう。背中を打ちつけ、鈍い痛みが走った。

 どうやら機嫌が悪いようだ。


『ごめんなさい。ごめんなさい、お母さんっ』


 母親を見遣ると、やはり泣きそうな顔をしていた。


『――……ごめんな、さい』


 なぜ泣きそうな顔をするのかが解らない。


『謝れば許してもらえると思ってるの!?』


 肩を殴られ、新たな激痛が躯に走る。


『っ――!』


 いつかは、終わる。そう、いつかは――。



  ◆   ◆   ◆



「う、あ、あっ」


 涙が溢れて止まらない。まるで洪水のように。


「どうし――」


 ミノリはハルカに抱きつく。その反動で、プリンの空容器が転がった。

 彼は震えながら咽び泣いている。泣きそうな顔も泣いた顔も何度も見たが、ここまでは初めてだ。


「うぁぁあぁっ」


 いつかは終わる。でも、終わらない。

 長袖の中に隠された、痣だらけの腕。――その腕を、ハルカの背中に回す。強く縋るように。


「終わらないんだよっ……終わらないっ……!」


 なにが終わらないのか、ハルカには全く解らない。けれど、ミノリが泣くのなら、それは辛いことなのだろう。それなら――。


「――終わるよ。俺が、終わらせるから」


 こう言うしかないだろ。

 ハルカはミノリを掻き抱いた。離すまいと。


「ミノリには辛い思いはさせないから」

「ハ、ルカぁっ……」

「辛い思いはさせない」


 させないから、と抱きしめる腕に力を込めた。


「うん……」


 ミノリは囁かれるハルカの言葉に服を強く掴み、軽く頷いた。


「俺は……俺だけは、なにがあっても傍にいる」


 泣かせない為に。辛い思いをさせない為に。ずっと、ずっと傍にいてあげよう。笑ってくれるように――。


「……お母さん……」


 そう言って目を閉じるミノリの意識は、そのまま遠退いた。


「ミ……ミノリっ?」


 うんともすんとも言わないミノリを不思議に思い、ハルカは恐る恐る手を離す。


「おい、ミノリ!?」


 慌てて声を張り上げて、どうしようかと考えれば寝息が聞こえた。どうやら寝ているようだった。泣き疲れたのかは解らないけれど。


「寝てるだけか……よかった」


 ほっと胸を撫で下ろしてそう呟き、涙を拭いた。


「俺がミノリを守るから」


 なにがあっても。

 だからどうか、いい夢を見てください。



  ◆   ◆   ◆



 いまさら――本当にいまさらだが、思い出した。母は変わったのだと。


『ミノリ、今日はなにが食べたい?』

『んーとねっ、麻婆豆腐っ』

『そう』


 『じゃあ、頑張って作るわね』と紡いで、微笑みながら小さなミノリの頭を撫でる。――その手は温かく、優しかった。

 その手が振り上げられるようになってしまったのは、いつからだろうか。いつから変わってしまったのだろうか。

 覚えてはいない。いや、覚えられない昔かもしれない。

 けれどそれでも――。

 母親を恨んだことは一度もなかった。優しくしてくれたから。笑ってくれたから。抱きしめてくれたから。その全部が全部、記憶の端にあるのも本当のことなのだ。

 悪いのは、全部オレなんだよ。お母さんはなにも悪くない。






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