オランジェット
「――っ。」
暖房が唸りを上げる業間の教室で、
誰かが投げた適当な呼び声に、二人は同時に振り返る。
「……あ、ごめん、リカの方っ!また後でね」
そういって隣の教室に戻る学友の背を見送る。
振り向いて、後ろの席で気だるそうに眠る
君に声をかける。
「まただ。ねえ、いっそ合体して一つの名前にしちゃう?」
机に伏せて窓の外を見る君、璃花はクールな顔にいたずらっぽい笑みを浮かべて、窓ガラスに指を滑らせる。
指先が描いた文字は『リンカ』と『リカ』と
『リリンカ』――
結露したガラスに描かれる、
歪な文字を見てクスクス笑う。
文字の奥には粉雪が窓をふんわりと撫でていて、
二人の白い息が、書いたばかりの歪な名前を、曇りに変えて溶かして消した。
凛花の机には、
自販機で買ったばかりのブラックコーヒー。
缶を握る手のひらだけが、じりじりと熱を伝えている。
プルタブを起こした瞬間に立ちのぼる、缶コーヒー特有の、どこか土埃にも似た甘さを抜いた香りが、教室の冷たい空気とぶつかって白く揺れる。
「リンカさ、それ苦くないの?」
璃花は、寒さを忘れたみたいにストロー付きの紙パックココアを飲んでいた。
「……ううん。これが落ち着くんだよ。大人ってやつ」
璃花が「一口飲む?」と差し出したココアは、
舌が溶けそうなほど甘くて、紙パックの表面は璃花の体温でぬるかった。
ココアの不自然な甘さを、
凛花はブラックコーヒーで無理やり流し込む。
缶はまだ熱く、喉を滑る液体は、冷え切った胃の中に重く落ちていった。
甘いチョコの香りを纏って笑う璃花の光を受ける為に、今の私には、苦味が必要だった。
窓の外ではフワフワと粉雪が舞い、
教室の中では青白い照明が、二人の輪郭をくっきりと照らしている。
その境目を、
白い息と、熱い缶の温度が揺らしている間だけ、自分がここにいてもいい証拠だと思っていた。
私の胸の奥に溜まっていく黒い沈殿物と、
ココアの甘い温度差は、私の危うい境界線を、
ぎりぎり繋ぎ止めていた。
――二月十四日。
校舎の至る所に、浮ついた甘い匂いが充満していた。
ドアが、風に押されて開くたびに流れ込む、みぞれ混じりの風が、その甘い匂いを容赦なく奪っていく。
足元を白い手が掴むように、冷気が這い上がる。
第一志望の決定。
東京へ行く璃花と、この雪国に残る私。
あの日、窓ガラスに溶け合ったはずの『リリンカ』という名前が居た場所を、私は指でなぞり直す。
外の冷気が指先を伝って、私に混ざろうとしていた。
「――リンカっ」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
そこには、息を白くさせながら、マフラーに顔を埋めた璃花が立っていた。
彼女の吐き出す息は、驚くほど真っ白で、
蛍光灯の光を吸収した小さな氷の粒が、
一瞬だけ二人の視界を遮る。
「はい、これ。凛花、苦いのが好きなんでしょ?」
璃花がポケットから取り出したのは、
銀紙に包まれた小さな包み。
彼女の指先の体温がほんの少しだけ移った
――オランジェット。
「……あ、ヴァレンタインか……」
受け取ったそれは、あの日握りしめていた缶コーヒーよりもずっと軽くて、残酷なほどに私への理解を形にしていた。
凛花が「苦いものが好きだ」という言い訳を、
璃花は疑いもしない。
その無邪気な優しさが、今は何よりも鋭い冷気となって凛花の肌を刺した。
一人になった帰り道。
雪が激しさを増すバス停の屋根の下で、
凛花はその銀紙を剥く。
ひと噛みした瞬間、
表面の砂糖が舌の上でカラメルの様に溶ける。
その甘さの奥に現れたのは、冷たく、硬い、
若いオレンジピールの鋭い渋み。
それは、以前飲んだ璃花のココアの甘さとも、
ブラックコーヒーの苦味とも違った。
「私たちは、もう同じ温度で笑えない」と、
世界が突きつけてくる冷徹な宣告に感じた。
噛みしめるたびに、
オレンジの若い苦味が喉の奥を焼く。
鼻に抜けるのは、爽やかさなんてどこにも無かった。
凛花は、指先から感覚がなくなっていくのを感じながら、その渋みを受け入れて飲み下す。
喉の奥に、一生消えない冷たい痣を刻むかのように。
翌年、二月十四日。
この日が来る度に、あの日の苦味を思い返す。
私は、マフラーに顔を埋めながら夜空を見上げる。
雪国冴えた空気が、星の光を研ぎ澄ます。
その鋭い光の雨は私の瞳の奥に流れ込む。
私の手には、コンビニの袋。
中には、常温のオランジェット。
手には飲みかけのドリップコーヒー。
あの日のような、暴力的な渋みはもうどこにもなくて。
口に含んでも、均一で単調な味だけが広がる。
コンビニのコーヒーを飲んでも、
かつて指先を焼いたあの熱さは、探しても見つからなかった。
――元気?
スマホの画面に、三文字だけ打ち込んで、指を止めた。
送った瞬間に、あの白い息も、オレンジピールの鋭い渋みも、歪な名前も、ただの「美しい思い出」に成り下がる。
凛花は画面を消し、深い溜息を吐く。
冬の空気は無慈悲にも、私の溜息を、星空のように凍らせてキラキラと白く輝かせてしまう。
コーヒーを啜ろうとした時、
ポケットの中でスマホが短く震える。
届いたのは、一枚の写真。
高層ビルの上から撮られた、光に塗り潰されて星一つ見えない都会の空。
『元気? こっちは星も見えないくらい明るいよ。
冬なのに、息が白くならないんだよ。』
送り主は、璃花。
画面の向こう側の彼女がどんな表情をしているかは、写っていない。
そのメッセージを見た瞬間、凛花の喉の奥で、あの日飲み下した「あの渋み」が鮮烈に逆流した。
気温差に抉られた粘膜の記憶、
白い息が出ていたあの教室と、璃花の透明な吐息の温度差だけが、私の中でまだ確かに疼いている。
窓ガラスの『リリンカ』はもうどこにもないのに、喉の奥に、いまだに二人分の名前で――




