天使の所業
……何処だここは?目の前には闇。酷く心を掻き乱す闇。
焦燥感に駆られ辺りを確認してみる。しかし、どこを見ても暗闇が広がるばかり。そもそも視覚が存在しているかも怪しい。いや、視覚だけじゃない。手足の感覚も、先程動かしたはずの首の感覚でさえも朧気だ。
確かマクアに飲み込まれて、気付いたらここにいる……だったらマクアの中か?
「え、気持ち悪…。」
「誰が気持ち悪いだ!失礼な奴め!」
頭の中に直接響く声。恐らく……いや、十中八九マクアだろう。
「マクア~何処なんだよここ?」
発した声に響きはない。まるで、耳を塞いで声を出しているかの様に籠って聞こえる。声が届いている気がしない。しかし、先程の小言が届いたのだから大丈夫だろう。
「ここは意識と記憶の狭間。覚醒と睡眠の間。何もかもが虚ろな空間だ。」
「難しい言い方だな~…。つまりレム睡眠みたいなもんだろ?」
感覚は鈍い。しかし意識はある。思考を働かせると言うことは、脳は動いているのだろう。
更には覚醒と睡眠の間。レム睡眠がまさに当てはまる。
「正確には違うがそれに近い。さて、前置きはいらんな?今から貴様の記憶を少し貰う。」
「は、え?」
確かに、思い返せばそんなことを言っていた。恐らくマクアの能力に関係するのだろう。まぁ、必要なことなら問題無──
『あれ、結構痛いんだよな…。』
「……………………。」
「どうした人間?」
「えっと…。」
嫌な事を思い出した。ここに来る前紫野月が言っていた言葉。
そもそも記憶を貰うって、脳を直接攻撃してる様なものだよな?それって滅茶苦茶痛いんじゃないか?受けたこと無いから分からんけど…。
いやいやいや……俺の考えすぎだよな!口の動きを読んだだけで、紫野月がそう言っていた確証もないし!うん!大丈夫!
ま、とりあえず予防線は張っておこう。本当に痛くて、それを容赦無くやられたら嫌だし。
「…………優しくしてね?」
「あぁ……勿論だ(ニタァ)。」
俺はマクアを一生許さない。
「──っは!?」
意識を取り戻した遊は勢いよく起き上がる。いつの間にか寝そべっていたらしい。周りを確認してみると、応接椅子からソファーへ移動していた。
「何でここに…?いや、それよりもマクアだよ!」
先程の出来事を思い出し、怒りが沸々と沸き上がる。返事をした際の悪魔の歪な笑顔。頭をバットで殴られたような痛み。悶絶している間の悪魔の高笑い……どれを取っても忌々しい。
「くっそ~。今度マクアの目にレモン汁ぶっかけてやる…!」
「誰に何をするって?」
「うぇ!?」
突如背後から声がした。その声のトーンは楽しそうに聞こえたが、確実に怒っている。
声だけではない。漂う空気……気配とでも言うのか、それは抗えない威圧感を放ち、『ゴゴゴゴ』や『ミシミシ』といったラップ音すら聞こえてくる。
遊は引き吊った笑みを浮かべ、壊れかけのブリキ人形の様にぎこちなく後ろを振り向く。
「や、やっほーマクア!本日もご機嫌麗しゅ……う?」
語尾に思わず疑問符がついた。それもその筈。声の正体は悪魔の姿ではなく、見惚れる程の美女だったのだ。
艶やかな長い髪。右側面には三つ編み、左側面は耳元で揃えられている。少し垂れた大きな瞳。左目には泣き黶が一つ。
豊満な胸に引き締められた腰の括れ、マネキンのような白く細い足……街を歩けば男女を問わず振り向いてしまうだろう。
しかし、遊は女性を直視できない。何故なら、その女性の服装はボロボロの布を一枚まとっただけなのだ。穴の空いた布の隙間から時たま覗かせる肌に、遊は真っ赤になりながら目線を宙に泳がせた。
「え、えとぉ!どどどどちら様ですかぁ!?」
情けないくらいに声が上ずっている。しかし、そんな事は気にしていられない。
恐らく悪魔のイタズラだろう……そう理解していても、思春期男子にはどうしようもないのだ。
「ふはははは!阿呆な顔を晒しているなぁ。今の俺の姿は、見た者の所縁ある姿……貴様にはどう映っている?」
「え、あ、その……どうって…。」
伝えようにも『半裸の女性です。ありがとうございます。』など言えるわけがない。遊の出来る事と言えば、一度見ては顔を背ける事だけだった。
「その反応からして女だな?それは恩人か?憧れか?はたまた恋人か?」
悪魔は此れ見よがしに顔を近づける。その度遊の顔は、上へ上へと角度を上げていった。
しかし混乱している中にも一点。一点だけ疑問が浮上した。悪魔の姿は遊にとって所縁ある者の姿。確かにそう言っていた……が、正面にいる女性には全く見覚えがないのだ。
「し、知らないよ!誰だよその女性は!」
必死に絞り出した答えに悪魔は訝しげな表情をする。遊は嘘をついてなんていない。本当に記憶に無いのだ。
そして悪魔はそれを理解していた。故に、だからこそ、逆説的にそんな表情をすることになった。
「貴様の見ている姿は、どんな見た目をしている?」
「え、えと……綺麗な女性だよ。ロングに三つ編みと耳元でパッツン、泣き黶が一つ。か、かかか体は~…!」
そこまで言ったところで、女性は一瞬形を失ったかと思うと、見慣れた悪魔の姿に戻っていた。
しかし、遊は女性を直視しない為に上を向いている。今正面に立っているのは、いつもの姿の悪魔であることに全く気付いていない。
「おおおお大きな~あの……む、胸とととと…!」
「いつまで上を向いている。移動するぞ。」
「ほそほそ、細い括れが──え?」
そう言われやっと上げていた顔を戻す。目の前にはいつもの悪魔。
見慣れた姿にホッとしながらも、内心少し残念に思ったのは末代までの内緒である。
遊は咳払いを一つして切り換える。
「移動するって何処へ?外に出るのか?」
「移動と言うのは表現だ。動く必要は無い。貴様は既に俺の術中だからな。」
悪魔は手を上げ、そして拳を握った。それに呼応するかの様にリビングが引き伸ばされ、遊と悪魔を中央とする足場に渦を描き吸い込まれていく。
足場が急に変異した為、遊は慌ててその場でピョコピョコと跳び跳ねた。
「わっ!わっとと!……あれ?」
しかし渦を巻いているのも、引き伸ばされるのも景色のみだった。遊と悪魔は変わらずその場に佇んでいる。まるで、四方をスクリーンで囲まれた状態で映像を見ている感覚だ。
「何をしている?すぐ済むから大人しくしていろ。」
限界まで引き伸ばされた景色は外側から剥がれ落ち、新たな景色が顔を覗かせる。
後に全てが剥がれ、吸い込まれて出てきた景色は、遊が地獄と称した場所。禍々しく、失意と絶望を体現したような場所だ。
「……あ、やっと来たか志神ぃ。」
そんな中、気の抜けてしまう様な声で遊を迎え入れたのは、笑顔で手を振る結夢だった。
こんな不安を煽るような景色の中で、あっけらかんとしている姿に遊は思わず安堵のため息を漏らす。
「紫野月……お前は平気なのか…?」
遊の質問には、平然としていられる結夢の精神状態の心配も含まれていた。
しかし、結夢はその意図を汲み取ること無く、人差し指を顎に置き疑問符を頭に浮かべている。
「平気って何がだ?変な事はされてないぜ?」
「い、いや…こんな景色の中にいて大丈夫なのかって意味だよ。」
「こんな景色?教科書に載ってる天界の景色じゃないか?」
「え?」
「ん?」
会話が噛み合わない。教科書に載っている天界とは、美しく瑞々しい自然に囲まれた石造都市だ。明らかにこの場に当てはまる物ではない。
暫しの混乱はあったが、直ぐに原因を理解する。今は悪魔の術中。ここは悪魔の見せている景色。
遊は無言で説明を促すと、悪魔は近寄りそっと耳打ちをする。
「察しの通り、あの女にはこの景色を見せていない。これから見せる天使の所業も見せはしない。」
「成る程な……少しでも危険性を減らすためか。」
見せたくないものを馬鹿正直に見せる必要は無いのだ。中身を知らない相手に対して、偽物を用意したところで気付く事は先ず無いだろう。その中身が生きている間に見られないのなら尚更。
情報の漏洩は、その事柄が重要であれば、重大であれば起こりやすい。ならば、重要と些細の間の情報を提示すればいい。そうすることによって、結夢が口を滑らす事も無く、天使から狙われる事も無くなるのだ。
「今回天使は連れてきていない。あの女には、人間が重労働させられている程度の光景を見せるつもりだ。」
そう言われ、先程からハニエルの姿が見えない事に気付いた。結夢に質問され、ボロを出してしまうのを警戒したのだろう。
「ふふ…くくく…。」
そこまで理解したところで、遊は思わず吹き出してしまった。
「どうした?急に笑いだして。」
「はははは!いやぁ、あれだな。マクア、お前って……優しいんだな。」
「んなぁ!?」
遊の言葉に悪魔は目を白黒させる。そこに含まれている感情は、驚倒、困惑、怒り……そして喜びだった。
そんな感情を否定するかの様に、悪魔は大袈裟に首と手を振る。
「そ、そそそんな訳無いだろう!俺は悪魔!悪魔なんだぞ!」
しかし、必死に否定するも、その訴えは遊に届かない。
結夢を気遣い、気に掛け、気を回し、遊を幾度も助けた悪魔。『優しい』という言葉を撤回するのは無理な話である。
「志神ぃ!マクアぁ!何二人で盛り上がってんだよ!私を除け者にするなよぉ!」
小声で話していた筈が、いつの間にか楽しそうな雑談に変わっていた為、結夢は除け者にされたと頬を膨らませていた。
こんな景色の中だが、その姿に笑みを浮かべながら遊は両手を合わせる。
「ははは、ごめんごめん紫野月。少し可笑しくてな。」
「可笑しくなど無い!ふざけるな!」
遊の言葉を聞いて、こちらも結夢と同じように怒り出してしまった。それが堪らなく可笑しく、更に遊のツボを刺激する。
「ははははは!ごめんごめんって~。」
「誠意が感じられねーぞ志神ぃ!」
「ふん!もう知らん!さっさと本来の目的を終わらせるぞ!」
悪魔は乱暴に言い放ち、右手を遊へ、左手を結夢へ突き出した。瞬間、その両手の平から閃光が放たれる。
急な出来事故、手で覆うことも、目を瞑る事もできなかった二人は、閃光をマトモに受け、目を眩ませた。
「うわぁ!」
「な、何すんだよマクアぁ!」
暫く眩んだ目を押さえて屈み込む二人だったが、次第に目が慣れて、ぼんやりと霞んで光景を捉える。
最初に霞がとれた結夢は、目に映る光景に顔を強張らせた。
「な、何だよこれ!人が天使に働かされてるじゃねぇか!」
悪魔が結夢に見せた光景は、天使からの暴行を受けながら、重量物の運搬を任される人間の姿だった。
しかし、暴行と言っても軽度なもので、人間界でも一昔前にはあった"パワハラ"と言うものと大差無い。
「…………………………。」
一方、結夢の次に霞がとれた遊は、愕然としたまま固まっている。驚きの余り声が出ないのだ。
何故なら、遊の目の前に広がる光景は想像を絶するものだったからだ。
赤、赤、赤……地面に広がる一面の赤。それが血液だと理解するのには時間を要さなかった。
鮮血が飛び散る。バチャっと音をたてて切り落とされた右手が転がった。
「あああぁぁぁあぁあぁああ!!!」
喉が潰れるのではないかと疑う程の男の絶叫。
「あぁ違いました。ここじゃない。」
腕を切り落とした何者かが……いや、"天使"がそう呟いて、次は足を切り落とす。
「ここも違う。」
四肢を落とし、腹を捌く。胸を抉り、中を掻き回す。
「ぁ…………ぁ、ぁ…。」
男は辛うじて生きていた。しかしその様子は、正に虫の息だ。むしろ死んでしまった方が幾分か楽だっただろう。
「最後はここですか。」
天使は何の躊躇いもなく、感情もなく、男の頭を叩き割った。パキョッという乾いた音が響き、漏れ出た物体は血溜まりにバチャバチャと飛沫を起こした。
割れた頭に手を突っ込み、粘着質な音を立てて掻き回す。
「……あった。」
手を引き抜き目の前に持ってくる。赤い液体が糸を引いている手には、鈍く光る拳大の塊が握られていた。
「たったこれだけですか…。まぁ、量の多い者は彼の担当ですから仕方ないですね…。」
落胆しながら拳大の塊をその場に投げ捨てる。そして次の人間へ目を向けた。
「い、いや……いやぁ…!」
今度は人間の女。四つん這いになりながら必死に逃げ出そうとする。しかし体が震え、歩くよりも明らかに遅い。
天使は簡単に追い付き、女の首を乱暴に掴んだ。いや、掴んだ筈なのだが、その手はまるで液体を掴んだかの様に皮膚の内側へ入り込んだのだ。
「あ……ぁ、いや…。」
小刻みに震える以外身動きのとれなくなった女。天使は一度脱力したかと思うと、一気に腕を引き抜いた。
ブチブチと何かが剥がれる音。掲げられた天使の手には、弾力のある肌色の何かがパタパタとはためいている。
「ああぁぁあぁああ!!!痛い!痛い!痛い!痛い!」
瞬間、女の絶叫が一面に響いた。身動きの取れなかった筈の女は、手を背中に回しながら、その場でのたうち回っている。顔は涙や鼻水や涎でまみれ、なによりも背中が赤く染められていた。
天使の手に握られていたのは女の皮膚。首から腰の部分に掛けて、力一杯に剥がしたのだ。
「煩わしいですね。」
天使は女ののたうち回る姿が気に障ったのか、わざわざ傷口を目掛け足で踏みつけた。
「ぐううぅぅぅぅ!!!?」
背中を襲う激痛。内蔵を圧迫される苦痛。女は歯を食い縛りながら無様な呻き声をあげた。
それが楽しいのか、天使は口許を歪めながら踏みつける足に力を込めていく。
「あ、あが!?ぎいいぃぃぃ!!!」
そして掴んでいた皮膚を捨て、無防備な女の背中へ──
「おえぇぇぇ!!!ゲホッ!おえぇぇぇ!!!」
遊は堪らずその場に膝を突き嘔吐した。自身が吐き出した噎せ返る様な臭いに、再度胃の中のものをぶち撒ける。
なんだよ!なんだよこれ!人が、人間が!まるで家畜のように解体されているじゃないか!
いや、それよりも余程酷い…。何をされるか分かっているし、言葉も分かる……天使はそれを楽しんでいた!笑っていやがったんだ!
「畜生……これが天使のやることかよ!畜生…!畜生!」
肉を割く音、人間の断末魔が響く。無知であった自分を呪い、悔しさの余り拳を地面に叩きつけた。
嘔吐した影響か、それとも悔しいからなのか、両の目には涙が浮かんでいる。
「だ、大丈夫かよ志神ぃ?」
見ているものが違う結夢は、過剰な遊の反応に困惑していた。しかし、原因は悪魔が見せている光景と言うのは分かっている。
「マクアぁ!志神の様子が変だ!今すぐ止めてくれ!」
「……分かった。」
結夢の要求に悪魔は素直に返事をし、手を横に薙いだ。
一瞬の内に全てが黒に塗り潰され、跡形もなく無くなった。それは遊と結夢も例外ではない。
この空間で残るは悪魔のみ。現実へ戻らず、思い詰めた表情で佇んでいる。
「……すまない。俺は卑怯者だ…。」
誰に向けた謝罪なのか。受けとる相手のいない言葉は、広がる暗闇に溶けて消えていった。




