夢魔
目が馴染む。霞掛かっていた視界が、明瞭に風景を捉えた。陽光に照らし出されたそこは、見たことのある天井。見慣れた天井。
「戻って……きたんだな。」
自分の家のリビングで目を覚ました遊は、思わずそう呟いた。しかし、まだ終わっていない。ここからは悪魔の領分だが、それを見届けないでいるなど、遊には不可能だった。
起き上がろうと、寝ている体に力を入れた。
「………………あれ?」
起き上がれない。力が入らないのだ。
遊は首をかしげる。否、それすらもできなかった。
最初は金縛りや、天使の攻撃を疑った。が、これはそんなものではない。意識がはっきりするにつれ、体の異変に気づいた。
それは明らかな倦怠感。まるで、長い時間体を動かさないでいたようだ。それに加え頭痛、酷い腹痛に苛まれている。
「何、だ……これ!」
「飲まず食わずで、二日ほど眠り続けたのなら当然の事です。」
声がした。耳につくような、気障ったらしい男の声。
首すらも動かないので、目線だけ声の方へ向ける。そこには天使がいた。当然ハニエルではない。
色白な長身の男。腰まで伸びた紫の髪。少し垂れた艶やかな瞳。片方の目には、小さなダイヤ形のペイントが、三つ施されている。もちろん純白の翼が二枚生えているが、それよりも目を引くのは、右の瞳だ。
左は何の変鉄もないのだが、右の瞳は白目黒目が無く、ガラス玉に映った星空のような風景がいっぱいに広がっている。
その天使の名は『ザドキエル』。記憶と精神を司る天使である。
ザドキエルを睨み付ける。それが今の遊にできる、精一杯の抵抗だった。
「二日間眠り続けただって?」
「言葉の通りですよ。貴方の起きている間の体感では、ほんの三時間程度かもしれません。しかし、実際は四十一時間が経過いるのです。」
髪を掻き分けながらそう説いたザドキエル。遊は驚きに目を見開いた。もし夢の中で捕まり、半日、いや、その更に半分でも過ごしていたのならば、命の危険も十分にあっただろう。悪魔の言っていた、時間がないもう一つの理由とは、これの事だったのだ。
ザドキエルは、興ざめでもしたかのような表情をすると、指を額に当て、やれやれと言ったポーズを取る。
「どうやら、あの悪魔はここにはいない様子。まったく………いつ目覚めるかも分からないのに、不用心な事ですね。」
顔を伏せてため息を吐く。そして、少しの沈黙の後………口元を歪めた。
伏せていた顔を上げたザドキエルは、心底楽しそうに笑っている。しかし、その目はオモチャを見る子供の様に残酷だ。
「ふふふ……では、誘いましょう。夢の国、夢の世界へ。心配は要りませんよ?苦しみなど与えません。文字通り、眠るように死ぬだけなので。」
ザドキエルの右目が遊を捉える。その中に映る夜空は、星の瞬きを起こし、サブリミナルな睡魔を誘発させた。
遊は目を閉じたが意味はない。ザドキエルの目を見た者が術に掛かるのではなく、ザドキエルが見た者が術に掛かるのだ。
目覚めたばかりだと言うのに、抗えない睡魔が意識を落としていく。しかし、遊の心に不安は無かった。
悪魔は「どうにかする」と言っていたのだ。その言葉を、心の底から信じているからである。
「任せておけ。人間。」
意識が落ちきる際、確かに聞こえた。その声は外からではなく、内から聞こえた気がした。
「…………ここは?」
目を開けると、遊は劇場用椅子に座っていた。辺りを見回す。どうやら、ここでは体の異変は無いようだ。
周りには、遊の座る劇場用椅子が整然と並んでおり、申し訳ない程度の電灯が、部屋を薄暗く照らしていた。目の前には巨大なスクリーンが広がっている。そこは見るからに映画館。そして遊はそこの二階席へ座っていた。
「おやおや、貴方はここに何か思い入れでもあるのですか?」
後ろ上方から声が聞こえた。立ち上がり振り返ると、案の定ザドキエルが翼を広げて浮いていた。
睨み付けながらも、ザドキエルの言葉に内心首をかしげる。映画館であることは分かるが、こんな場所、遊の記憶には無かったからだ。
「まぁいいでしょう。さて、少しの間大人しくしていてください。そうすれば何事もなく終わるので。」
「大人しくなんてするわけ無いだろ。さっさとここから出せ。」
怒気を孕んだ遊の言葉に、ザドキエルは意外そうな顔をする。
「貴方は、夢が好きでは無いのですか?」
「あぁ嫌いだよ。つい最近、悪い夢を見たせいでね。」
「ふふふ……これは失礼。しかし、夢は良いものですよ。何と言っても、嘘がつけるのですから。放たれる言の葉は、真実であり、偽りにもなる。夢の中では全てが戯れ言!………あぁ、人間最高!人間崇高!人間大切!あはぁ"嘘をつける"…。」
両手を顔に添わせ、恍惚な表情を浮かべる。
今の言葉で、天使が人間の事をどう思っているか、充分に理解できた。
遊は拳を握り悔しさに歯を軋ませる。
「やっぱり……やっぱり天使はそんな奴ばかりなのかよ…今のハニエルに会って、良い天使もいるって思えたのに…!」
「はははははは!ハニエルが良い天使?あり得ませんねぇ!人間の情に流されるなど、"堕天使"と同義!」
明らかに、ハニエルと遊を小馬鹿にした態度。それに苛立ちを感じながらも、堕天使という言葉に訝しげな表情を浮かべる。それを気にした様子もなく、ザドキエルは手を広げ天を仰ぐ。
「さぁ、お喋りはここまで!始めましょう……貴方の死を賭けたハイドアンドシークを!」
場が暗転する。いや、遊の視界が塞がれたのかもしれない。目の前に広がるのは、全てを飲み込んだ闇。
地についていた足は、浮遊感と共に感触を失い、全方位の感覚を失う。
「……うっ……気持ち悪…。」
まるで、無重力を体験しているようだ。込み上げる吐き気をどうにか胃の中へ戻しつけた。
すると暗闇の中、遊は何かへ着地した。形や姿勢的に又も椅子のようだ。
暗闇が晴れる。そこは薄暗い部屋。整然と並ぶ劇場用椅子。正面には巨大なスクリーン。
「あれ、ここって…。」
思わず声が漏れた。それは仕方のないことかもしれない。何故なら、遊は変わらず映画館の中へいたのだから。
「どうなっている!?何故能力が発動しない!?」
ヒステリックな声。その主はもちろんザドキエルだ。言葉を聞いただけで、何が起こったかは明らかである。変わらない場所。変わらない椅子の位置。唯一変わったのは、ザドキエルがスクリーンの中央に移動した事だけだった。
能力の発動しない原因が分からず、自らの手を、体を確認する。すると、どこから照射されたのか、スポットライトがザドキエルを照らす。
「ん~…レディースロストジェントルメーン!ようこそ"俺の世界"へ!」
巨大なスピーカーを介して、興奮気味な声がした。その声は、耳につんざく音量と声量にも関わらず、ひどく蠱惑的な印象を受ける。
「今日のゲストは、まんまと俺に飲み込まれた天使!ザドキエル~!ゲストの方はどうぞ特設会場へ!」
途端、スクリーンから巨大な手が現れザドキエルを掴み取る。
「な、何だこれは!?放せ!汚らわしい!」
体を激しく動かす。しかし抵抗空しく、ザドキエルは巨大な手と共にスクリーンに飲み込まれていった。
スポットライトが消え、一時的な静寂が場を包む。
すると、スクリーンに数秒の砂嵐が入り、その後映像が映し出される。
そこは森の中。多くの木々が所狭しと並び、薔薇、マーガレット、アザミ、リンドウ、椿と、季節を無視した無数の花々。
その風景の中央にいるのは、先程飲み込まれたザドキエルだった。予想もしなかった出来事に、辺りを見回してはひどく狼狽している。
「何だここは!?何が起こっている!?」
事態についていけないザドキエルは、この場から脱出しようと二枚の翼を羽ばたかせる。
瞬間、足元に咲く花の茎が急激に伸び、首を残して巻き付いた。
「逃げるのは良くないなぁ。折角だ、楽しんで……いや、楽しませてもらおう。」
木間から現れたのは妖艶な美青年。後ろで手を組み笑顔を浮かべながら、一歩、また一歩と拘束されているザドキエルに近づく。
その時一瞬見せた歯に、遊は見覚えがあった。
「まさか……マクア、なのか?」
姿も声も全く違うが、この状況であり得る解はそれしかなかった。
美青年…もとい悪魔は、手を天高く突き立てる。すると、巻き付いていた茎から無数の棘が伸びた。それはザドキエルを貫き鮮血を辺りに撒き散らす。
「うっ!?ぐっ、あぁ!!!」
苦悶の表情を浮かべる。口元を歪め楽しそうに見ている悪魔は、ザドキエルの周りをゆっくりと歩き出した。四歩程歩くと、その姿が木で隠れる。次に映ったのは美青年ではなく美女だった。
「痛いか?それは良かった。」
次は老人。
「だが安心しろ。」
少年。
「これは夢。」
老婆。
「貴様の本体には、傷痕一つつけられない。」
婦人。
「できるのは痛覚を刺激するだけ。」
壮年。
「だから─」
"怪物"。
「せ い ぜ い 楽 し ま せ て く れ。」
三メートルにも及ぶ巨躯。体の到るところに生えた捻れた角。人一人を悠々と包み込む凶悪な口。
「あ、あ……あ…。」
絶望的な表情で震えた声を発するザドキエルを、その凶悪な口で一思いに飲み込んだ。
暗転。次に映し出されたのは、不気味に照らし出された赤。鋭利に崩れかかった山々に、腐り落ちた木々。中心には鉱石でできた粗削りな椅子。そこにザドキエルは鎖で縛り付けられていた。
ザドキエルが周囲を見回すと、「ここは…。」と呟いた。どうやら見知った場所のようで、姿の見えない悪魔に向かって憤慨する。
「この下衆が!私をこんなところに縛り付けるとは、天使への当て付けか!」
「これは俺の罪。そして同時に貴様の罪でもある。味わってもらおう……真実を知った人間の絶望を!」
その空間全体にエコーを掛けながら広がる声。その言葉を聞いた途端、ザドキエルの血の気が引いた。体は震え、カチカチと歯を鳴らしている。
すると、何もない空間──ザドキエルの前方二メートル程の位置で、光が弾けた。
無数の火花が散り、それは地に着くと膨れ上がり形を成す。現れたのは人間。火花の数に比例した数の人間が生成されたのだ。
老若男女と統一制はないが、何故か皆一様に苦悶の表情をしていた。その中の一人の男が口を開く。
「どうしてですか天使様。どうしてこんな仕打ちを…。」
人々は表情をそのままに、ゆらりゆらりと、ゾンビのように近づいていく。すると今度は、男の隣にいた老婆が口を開く。
「酷い…。酷い…。どうしてこんなに苦しいのですか?どうしてこんなに苦しめるのですか?」
「く、来るな、来るな……来るなあぁぁぁ!!!」
ザドキエルの元まで到着した人々は、形を崩しドロドロと溶けていく。それは意思を持っているかのように、ザドキエルの体へまとわりつき、皮膚を押し退け体の中へと侵入していった。
「何だこれは!?汚らわしい汚らわしい!やめろ!こんな悪夢を見せるな!」
叫びも空しく、それは全てザドキエルの体の中へと姿を隠した。
まとわりつく不快感は消えたが、それも束の間。今度は強烈な痛みが全身をくまなく襲う。
「ああああぁぁぁああぁ!!!痛い!痛い!痛い!」
耳を塞ぎたくなる程のつんざく悲鳴。ザドキエルの皮膚が所々盛り上がってはしぼんでいく。それは何かが体内で蠢いている証拠だった。
「いああぁぁぁ!!ぐうぅぅぅうぅぅ!!!」
まるで内臓を掻き回されているような、血液を全て熱湯にすり替えられたような痛烈な痛み。
蠢く何かは、叫びが大きくなるにつれ活発に体内を巡回する。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!許してください!許してください!許してくださいぃぃ!」
恥も外聞も捨てて、どこに居るかも分からない悪魔に向けて、涙を流し許しを乞う。
「ふはははは!無様無様無様無様!ははははは!」
悪魔の高笑いは絶望を告げる。許すわけがないと暗に告げているのだ。
『助からない』そう覚悟した瞬間──全てが闇に包まれた。
「っはぁ!はぁ、はぁ…。」
暗闇が晴れる。それと同時に痛みからも解放された。ザドキエルは膝をつき肩で息をする。しかし安心はしていられない。今度はどんな苦痛を味あわされるのかと言う不安。すぐに顔をあげ辺りを見回した。
そこは一般家庭のリビング。目の前のソファーには遊が、その右隣には悪魔がいた。
「……現、実?」
思わずそんな声が漏れた。それには、そうあって欲しいという望みも含まれている。
誰に聞いた訳では無かったが、悪魔は少し不機嫌そうに答える。
「その通り現実だ。感謝するんだな。人間が貴様を助けたのだから。」
「助…け、た…?」
「そうだ。俺と貴様は人間の夢へ入り込んだ。故に人間が目覚めればそこで終わりだ。」
それはザドキエルも理解している。問題は助けた手段だ。
遊の夢は悪魔に支配されていた。その支配下入ってしまったからこそ、ザドキエルは飲み込まれたのだ。
夢の支配は意識の支配。条件を満たさない限り、覚醒することは不可能。
ザドキエルの条件は、隠れている場所と天使の名を当てること。
悪魔は完全支配のため、条件は悪魔自身が許可を出すこと。
しかし、どんな夢にも一つ。共通する覚醒条件が存在する。それは…………"夢の中で死ぬ"こと。
「まさか…!」
「そのまさかだ。人間は二階から飛び降りた……貴様を助るためにな。」
驚きに目を見開く。先程まで命を狙っていた相手から命を救われたのだ。それに相手は人間。その事実が酷く混乱を招く。
「どうして…。」
半ば口をつくようにそんな疑問がこぼれ出た。遊は力を振り絞りザドキエルの方へ向き、弱々しくも笑顔を作った。
「だって……謝っただろ?」
それだけ。それだけの理由。たったそれだけの理由で、遊は天使を許したのだ。
ザドキエルは吃音的に口を動かし何も言えないでいた。
「ま、そう言うことだ。分かったらすぐに消えるのだな。俺の気が変わらん内に。」
そう言われ我に返る。驚いた表情のまま遊と悪魔を交互に見やり、納得したのか一度奥歯を軋ませると、翼を広げ何も言わずに窓から出ていった。
悪魔はザドキエルが見えなくなるのを確認すると、ため息を吐き遊を見る。
「はぁ、貴様は……どれだけお人好しなんだ…。」
「お人好しなんかじゃないだろ。謝ったら許してあげないと。」
「それがお人好しだと言っているのだ。全く……ラグエルの時もそうだったが、貴様のそれには狂気すら感じる。」
「ははは。狂気……か。」
遊の笑いにはどこか自虐が含まれていた。それを感じ取った悪魔だったが、そのタイミングで聞いたところで答えてはもらえないだろう。そう解釈し、とにかく今の遊にやるべきこと……何か食べ物を与えることにした。
「食料を持ってきてやる。少し待っていろ。」
遊がまともに動けるようになったのは、その日からさらに二日後のことだった。
朝。いつも通りの時間に起きた遊だったが、汗を流すべくシャワーを浴びていた。登校時間は十五分ほど遅れるが、毎日三十分前には着いているため、特に問題は無い。
程よい温度のお湯が体を洗い流していく。余程汗が不快だったのか、洗い流す感覚が気持ちよく、遊はご機嫌に鼻唄まで歌っていた。
「~♪~♪」
気分が乗り、鼻唄がサビに突入する。その時、換気のため少しだけ開けていた窓から、何やら声がした。
何とはなしにその方向を向くと─
「何を歌っているのですか貴方は?」
窓の隙間から、ハニエルが覗いていた。
「ウワホォイ!?」
驚きのあまりよく分からない声が出た。
え?何?ラッキースケベ?逆だろ普通!チェンジ!チェンジ!え、ロリコン?あ、いや、違うんです…。児童ポルノとかじゃなくて………警察?いや、本当誤解です!被害者なんです僕!あ、ちょ、待って!助けて、助け、たす……いやああああぁぁ!
「いやああああぁぁ!」
「気持ちの悪い人間ですね。」
混乱と驚きで、意味不明な思考回路に達した遊を、ハニエルは蔑むような目で見ていた。
軽く発狂したことにより、少し正気を取り戻した遊は、しゃがんで正面を隠しながらハニエルに叫ぶ。
「な、なな何でここにいるんだよ!ってか、何で覗いてるんだよ!覗き犯罪ダメ絶対!」
「貴方が遅いからでしょう。こちらの準備は終わっているのです。早くしなさい。」
「は?準備?」
ハニエルは何を言っているんだ?…………って、そうか。何となくわかった。全く、主語を入れろよ主語を!
…………あれ?このやり取りって、前にやらなかったか?そう思ってハニエルを見ると、同じ違和感を感じたのか首をかしげていた。
「あれ?このやり取り、前もやりませんでしたか?」
お互い疑問を浮かべながらも、言われた通り支度をする。もちろん登校するための支度だ。
「おっす志神ぃ!一緒に学校行こうぜ!」
それから紫野月と雑談しながら登校し、道行く人から奇異な視線を送られた。
やっぱり覚えがあるな…。紫野月もたまに首をかしげては「あれ?」などと言っている。
俺の考えが確信に変わるのに時間は掛からなかった。
「逃がすかああぁぁぁ!!!」
遊は凛華のタックルにより三メートル先の茂みに突っ込んだ。
はい、正夢です。ありがとうございました。




