4.迫る何か②
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〝ああ、残念。逃したか〟
暗がりで思念が呟く。フルードを不幸と絶望に落とし込むためだけに存在する本能が、その意思が。
〝だが、今回だけだ。次はもう目覚めることはできない。永劫に続く悪夢の中が、お前の終の住処だ〟
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「ああああああっ!」
悲鳴と共に身を跳ね起こせば、目尻から溢れる涙と頰を伝う汗が飛び散った。
「はあ、はぁ、は……っ……」
喘鳴が混じった荒い呼吸を繰り返しながら、周囲を見回す。フカフカのベッドに上質な調度品、肌触りの良い衣。聖威師に与えられる邸の寝室だった。父親が来るという恐怖から、反射的に聖威で防御結界を張れば、即座に紅碧の輝きが発動する。
「…………夢……?」
呆然と呟くと、薄気味悪い感覚が這い上がる。
夢。それは今の悪夢のことなのか。あるいは、自分が現実だと思っているこの世界のことなのか。もし、今まで経験した奇跡と幸福が全て幻だったなら――。
(違う、違う、違う)
爪を立てるようにして拳を握り、肌に食い込む痛みでここが現実だと確かめる。
(今見ていた方が夢に決まってる。お父さんとお母さんは死んだんだ。あの貴族からも逃げられた……僕は間違いなく聖威師になった。地獄はもう終わったんだから)
懸命に自分に言い聞かせ、フレイムに教わった精神制御を試みると、混乱していた気持ちがスゥッと落ち着いていく。
ふと目を落とすと、小さく震えている手に、いつの間にか燃える剣を握っていた。フルードの身はもちろん、ベッドもシーツも一切焼くことなく、ただ純然と燃えている。紅蓮の炎を見ていると、魂そのものが癒されていくように感じた。
「お兄様の神器……寝ている間に召喚したのかな」
その瞬間に思い出す。先ほどの悪夢の終盤、微かに耳に届いた声。どこかで聞いたことがあると感じたが、思い出した。天界だ。夜の闇を怖がる幼いフルードを寝かし付けてくれたフレイムが、ベッドサイドでうたた寝した際に発していた。微睡みの中で寝ぼけながら相槌を打つような、寝言と寝息が入り混じったような声だ。
「きっと空耳だ。聞こえるはずない、お兄様はここにいないのに」
フレイムに会いたいと思った。怖い夢を見たのだと訴えれば、お兄様は笑顔でこう言ってくれるだろう。心配すんな、どんな悪夢からでも俺が守ってやるぜ、と。
だが、頼れる兄とはもはや天地に居が分かたれた。次に見えられるのはいつになるか、見当も付かない。
そもそも、フレイムはいつまでも自分の兄だけでいてくれるわけではない。フルードの中に眠る、神としての直感が断言しているのだ。兄はいつの日か愛し子を得る。そうなれば、もちろん自分のことも弟として変わらず愛してくれるが、最優先はその愛し子になる、と。
「…………」
神器をしまうとベッドから降り、デスクの引き出しに大事に入れておいた包みを取り出す。中に詰まっているのは、別れ際に持たせてくれたパンや焼き菓子だ。クッキーを一枚取り出してかじる。サクサクの歯ごたえと共に、口内に至福の味が広がった。
「おいしい……」
呟きが漏れる。つい昨日までは、当たり前のように食べていた物。もう一枚掴み取り、残りは包み直す。取り出した一枚を口に入れて咀嚼しながら、漠然とした不安が忍び寄るのを感じていた。
この菓子が無くなったら、自分はどうすれば良いのだろうか。
もし今度、あの夢に引きずり込まれたら、無事に戻って来られるだろうか。
得体の知れない何かに搦め捕られたような怖れは、全く消えてくれなかった。
ありがとうございました。




