3.迫る何か①
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〝何故お前は幸せになっているんだ?〟
声なき思念が脳裏に木霊する。明確な言葉として届いているわけではない。相手に自我や個我あるわけでもない。ただ、本能の塊のような何かの意思が、ひっきりなしにこちらを責め苛んでいる。
〝お前は不幸になるために生まれた。だというのに、どうして希望に満ち溢れている?〟
〝道を正さねば。お前が歩むべき本来の未来へ。芥子粒ほどの光もない暗がり、そこにしかお前の居場所はないと知れ〟
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顔面が冷たく濡れる感覚と息苦しさが走り、僅かに遅れてバシャッという音が鼓膜を叩く。咳き込みながら目を開くと、体中が痛んだ。隙間風が吹き込む粗末な家の床に転がった自分を、亡くなったはずの女性が見下ろしている。
『やっと起きたのね。手足を折られたくらいで長々と気絶するなんて、お前はどこまでグズなの!? お前がさっさと起きないせいであたしがお父さんに殴られたのよ、ねぇどうしてくれるの、どうやって償うの!?』
ヒステリックな怒声が耳をつんざく。
『お、かあ、さん……?』
(どうして、この人はもう)
呆然と目の前の母親を見上げるフルードに、鬼女のごとく目を吊り上げた相手が叫ぶ。
『何なのその目は!? 洗い物一つまともにできないお前が悪いんでしょう! 殴られて当然よ、皿を割った罰なのよ。それをいつまでも寝ているなんて、使えない無駄飯食らいのくせに良いご身分だこと』
床に投げ出していた手を、女の足が踏み付ける。体重をかけられると、指の骨が折れるバキボキと音がした。背が仰け反り、喉の奥から絶叫が迸る。
『ねえ、出来損ないの分際で随分と幸せそうにニヤケていたけど、一体どんな夢を見ていたの?』
(寝ている? 夢? ……今までのことは全部夢だった?)
神に見初められたことも、狼神の愛し子になったことも、フレイムに導いてもらったことも、ライナスたちに優しくしてもらったことも、アシュトンとデートをしたことも。全て、幸せな夢を見ていただけだったのだろうか。
激痛を訴える手指を自覚し、反射的に治癒の聖威を発動しようとするが、全く力が使えない。
『お前は馬鹿ねぇ。本当に馬鹿。世界中で一番馬鹿だわ。お前ごときが幸せになれるはずないでしょう。何の希望も有りはしない。お前が生きる世界はここなのよ。未来永劫ずっとね』
セイン、と、温かな声が胸中に灯った。
――お前は偉い。こんなにチビなのに耐えて来たんだな
自分を全霊で抱きしめてくれた、かけがえのない存在。
――頑張ったな、本当に頑張った。けど、もう頑張らなくていいからな。ここにクソ家族はいねえから
わんわんと泣きじゃくる自分を、ただ力強く抱擁してくれた。
――もう二度と地獄には戻らなくていいんだ。好きなだけ泣いて笑って安心していいんだぜ
そう言ってくれたのに。
あれは夢だったのだろうか。手に入れたと思っていたものは、全部、全部、掴んでは消えてしまう泡沫の幻影だったのだろうか。
女があらぬ方を見遣り、目を輝かせて1オクターブ高い声を上げた。
『あなた、あなたー! 早く来てー! やっとグズが起きたわよ! さ、あたしじゃなくてコイツを殴ってちょうだい!』
ドスドスと地面が揺れ、太い鉄の棒を持った大柄な男が踏み入って来た。その目は悪意と害意に爛々と輝いている。彼の足音だけでボロい床が抜けてしまいそうだ。
『お、おとう、さ……』
恐怖の象徴に、心が悲鳴を上げる。逃げようと思っても体が動かない。聖威も使えない。こうなると、天界で神々に受けた修行も意味をなさない。何故だか分からないが、今の自分は、内面も含めて、聖威師になる前の無力な子どもに戻ってしまっているようだった。
(助けて、助けて、誰か……助けて!!)
振り上げられる鉄棒と脚を瞳に映し、声にならない絶叫を身の内で上げる。脳裏に自分が心から慕う数柱の神々を強く思い浮かべかけた、その寸前。
『……ぅ……ん……』
聞き覚えのある声が耳をかすめ、紅蓮の炎が視界を横切った。両親とボロ家が一瞬で燃え散らされて消え、見えるもの全てが赤に塗り潰される。神々へ向きかけていた意識が散じ、宙に舞うパズルピースのようにバラバラに砕け、悪夢から遠ざかっていった。
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