81.番外編 優しいだけでは㊷
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『地上は今日もよく降ってんな』
壁にかけてある大きな鏡から下界を眺めたフレイムは、目を細めて呟いた。まるで霧を噴いたように細かい雨が大気を覆っている。
『こんな日に外に出たら全身湿気るだろうなぁ。髪なんかシケシケになるぜ』
なぁ、と言いながら横を見ると、並んで佇んでいたフルードが静かに微笑んだ。
「はい」
少しだけ大人の兆しを見せ始めた美貌は、極薄のガラスでできた彫刻のようだ。優しい顔立ちに穏和な光を放つ青い眼差し、すらりとした痩躯と細い四肢。金色に輝く柔らかな長髪は、肩で緩くまとめてくくっている。
その容貌は非常に中性的だった。だが天威師のような、性別を超越した神々しい美しさとは違う。まるで、まだ性差が現れていない子どもがそのままの姿で成長したような、不思議な印象を与える麗姿だ。
13歳の頃の元気さは控えめになり、どこか憂いを帯びた儚さを放っている。おそらくこの2年間継続していた兄アリステルとの交流が影響したのだろう。
レシス兄弟は現在も定期的に面会を続けている。次代の大神官同士、最低限の協力と連携ができる関係性は確立していなくてはならないためだ。
なお、アリステルもまだ邪神の領域にいるものの、近日中に召し出しを終えて地上に戻るとのことだった。
また、フルードとアシュトンとの交際も続いているが、こちらは恋人つなぎで手を取り合ってデートするまでに進展している。フレイムが何らかの用事を言い付けるという体でフルードを一時的に領域から出し、アシュトンとの逢瀬の時間を作って来た。
『セイン、お前も今日で15歳になるな』
名を呼ぶと、出会った頃と変わらない透き通った双眸がこちらを見つめた。この透明さを失わせないよう、壊さないよう、手塩にかけて育て上げた。
「はい、お兄様」
『お前が俺のとこで修行を始めたのが9歳と数か月の時だったから、もう5年半になるのか。追加のケアも含めて、俺が教えられることとやれることは全部終わった。人間の世界で言えば免許皆伝ってやつだ。最後までよく頑張ったな』
「お兄様を始め、本当に多くの大神様にお力添えをいただきましたことに感謝しております」
フレイムだけではなく、狼神や火神一族、邪神など数多の神々が協力を惜しまず、総出でフルードを育成してくれた。
滅多に出てこない引きこもりの運命神すら、フルードのためならば幾度も一肌脱いだ。大事な同胞だからということももちろんあるが、フルードの神格である縁神は運命神の権能とも重複している。縁も一種の運命であるからだ。そのため、フルードは運命神にかなり可愛がられていた。
『これで指導は終わりだが……最後に渡すものがある』
そい告げ、フレイムはフルードと向き合った。
『今から俺の全力を解放する。大きな力が出るが、お前を傷付けることは絶対にないから安心しろ』
「分かりました」
全幅の信頼を込めた応えが返るのを確認し、神威の全てを解放した。葡萄酒色の髪が長く伸び、赤く変わる。山吹の双眸が髪と同じ色に染まった。
紅蓮から真赤に変わった神威が発光し、長大な弓の形を取った。弾けた火の粉が矢に転じる。
『動くなよ』
「はい」
つがえた矢を構えてフルードに向け、弓弦を引き絞っても、透明な青には欠片の動揺も見られない。
絶対に傷付けないと明言したフレイムを、ただ信じているのだ。それだけの信頼関係と絆を、共に過ごした期間に育んで来た。
狙いを定めた矢を放つと、赤々と燃える神矢が一直線に飛翔する。同時に弓が解け、飛びゆく矢の中に吸い込まれた。弓を取り込んだ矢は、微動だにしないフルードの胸に突き刺さる。だが、決してその心身を傷付けることはなく、フルードの魂と同化する形で一つになった。
『俺の全てを宿す神器を下賜した。もちろん、俺は今後もお前を守るが……ここを出れば、今までのように四六時中付き添ってやることはできないだろう』
そっと胸を押さえ、問いかけるように見上げて来るフルードに説明する形で、フレイムは言葉を紡いだ。
解き放っていた全力を抑え、常の姿と神威に戻ってから続ける。
『俺がすぐに駆け付けられない状況で何かあれば、この神器を使え』
この子が地上に戻れば、こうしていつでも側にいることはできなくなる。フレイムは天界に、フルードは下界にいるからだ。
フレイムが神官に勧請されるか神託の声を下ろすことがあり、その場にフルードが同席していれば一時的に見えることもあるだろうが、ゆっくりと話すことはできない。
『これはお前専用の絶対守護だ。お前の心身を、お前にとって最善の方法かつ最も良い結果になる形で守るよう――何が何でも守り抜くよう、俺自身を完全複写した』
フルードの魂と一つになった神器を神の眼で視通し、きちんと馴染んでいることを確認する。
『最善とか良い結果ってのは、俺やこの神器、外部の判断じゃなくて、当人であるお前の思いを基準にするようにしてる。お前が嫌がって、こんなの幸せじゃないって拒んでるのに、外野が自分の思う最適や幸福を押し付けるのはただのエゴでしかないからな』
これに関しては状況にもよるので、一概にこうだとは言えないだろう。だが、少なくともフレイムは、弟の心に反することを強制する兄になるつもりはなかった。
『これは、いつ何時でも必ずお前の側に立ちお前の意思に寄り添って支える。地上にいる間だけじゃない。昇天してからもずっと――今後永遠にだ』
「……ありがとうございます……」
この神器は後に、『我が御子神フレイムがもう一柱いる』と述べた火神によって『もう一柱の焔火神』の銘を与えられ、永劫に渡ってフルードを支え続け守り抜くこととなる。
「畏れ多くも焔神様直々にご指導いただいておきながら、ここまで来るのに年月がかかってしまい、申し訳ありません。優秀な者ならばすぐに皆伝にたどり着けたのでしょうが……」
『そんなことはない。お前は本当によく頑張った。自分を褒めてやれ』
柔らかい金髪を軽く叩くようにして撫でてやり、フレイムは微笑んだ。
『前に言ってた神官の勲章……王宝章だったか玻璃章だったか、それも取れるだろ。この俺が皆伝を出したんだからな』
「全力を尽くします」
なお、これより僅か1か月後、フルードは恩師である神官――『先生』の首に玻璃章のメダルをかけることになる。史上最速の成績であった。
「お兄様。僕もあなたにお贈りしたいものがあります」
そう告げ、フルードはフレイムの胸にそっと両手を当てた。淡い紅碧の光が陽炎のように立ち昇る。
空色がかった灰銀の神威を持つ狼神と、紅蓮の神威を持つフレイム。両者の色が合わさったような己の気の色は、フルードの誇りだ。
『何をしたんだ?』
紅碧の力を自ら進んで受け入れたフレイムが首を傾げる。
「あなたに縁の力を宿しました。もしもの話ですが、いつかあなたの愛し子となり得る者が現れたなら。この力があなたとその方のご縁を繋ぎ、巡り合わせてくれます」
縁結びの神の本領である。
『俺が愛し子を持つ、か。……いつかはそんな日も来るかもだな』
フレイムが苦笑した。
『神威を使えば未来が視えるが……同じ神が関わることに関しては完全に視通せない場合もあるしな』
めんどいし視なくていいか、と呟くフレイムに、フルードは語りかけた。
「いつかきっと、あなたの最愛が見付かる日が来ます。その人はきっと、あなたの全てを肯定してくれます。精霊も神使も焔神も関係なく、あなたという存在を丸ごと受け入れて愛してくれる。そんな気がするのです」
たった今、自分が放った縁結びの力。その先にいる者の姿を、本能で察しているかのようだった。
『ふぅん……まあお前がくれたものなら何でも嬉しい。ありがとうな』
「どうか愛し子が見付かった暁には、その方を一番にして下さい。今後も僕を守ると言っていただけてとても嬉しいです。ですが、万一あなたの愛し子と僕が同時に危機に陥り、どちらかしか助けられないならば、迷わず愛し子を優先して下さい」
『そうだな。お前には狼神様がいるからな。だが仮に狼神様がどうしても来られない状況だったなら、俺がどっちも守るぜ。愛し子もお前も』
「いけません。愛し子をお守り下さい。……弟はいずれ兄から自立するものです。ですが愛し子であれば、ずっと主神と一緒に歩んで行けるでしょう」
そう言うフルードは、眼差しの奥に寂しさを悲しさ、切なさ、そして別離への恐怖を孕んでいた。フレイムはそれら全てを包み込むように笑う。
『自立しようが独立しようが巣立とうが関係ねえよ。弟は永久に大事な弟のままだ』
神と神の契りにおいて生じた、兄弟の結び付き。その繋がりは揺らがない。
『愛し子もお前も、どっちもきちんと守ってやる。もしどう頑張っても一人しか助けられないなら、愛し子は俺が助けてお前はこの神器が守る。俺がすぐに駆け付けられない状況ってのは、そういう事態も想定してのことだからな』
フレイムは天界最強の神の一柱だが、唯一絶対の最強ではない。同等にして互角の神が複数いる。ゆえに状況によっては、どうしても弟の所にすぐ駆け付けられない可能性もゼロではない。それも加味しての守護神器だ。
フルードを執拗に不幸に堕とそうとしていた、得体の知れない何かが脳裏をよぎる。2年前、真赤の炎で燃やしに燃やしてからはパッタリと現れなくなった、薄気味悪い不気味な力。あれからも調べたが、結局その正体は不明なままだった。
火神の神威の前に根絶されたと思いたいが、実は逃げ延びてどこかに潜伏している可能性もある。だが、仮にそうであっても、この神器ならば確実にこの子を守り切れる。
神器が同化したフルードの胸を、人差し指でトントンと軽く叩いてやると、青い瞳が瞬いて笑った。
『覚えておけ。俺はお前を見捨てねえ。今後もお前は俺の大事な弟だ。これからもずっと、ずっと。なんせ兄弟の契りを結んだんだからな。――だから、必ず守る』
力強い断言に、フルードの目の奥にあった不安が凪ぎ、安堵を帯びる。
「……はい。僕もです。お兄様は永遠に僕の大切なお兄様です」
自分たちの間に結ばれた絆と関係は、切れることも変わることもないのだと、互いに宣言する。フレイムは屈み込み、フルードを視線を合わせた。
『お前なら、きっと歴代最高の大神官になれる。何にも臆することなく神官府に戻れ。そして将来、人としての寿命を終えて昇天したら。またこうして、俺と好きな時に好きなだけ会えるようになる。その時は土産話を聞かせてくれ。地上であった色々なことを』
「分かりました、お兄様。必ず」
フルードが穏やかに笑う。
『堂々と進め、自信を持って。だが無理はするなよ』
そう言い、フレイムはまだ幼さの面影が残る弟を優しく抱きしめた。
視界の端に映る鏡の中では、サァサァと降り注ぐ雨が虚空を彩っていた。
ありがとうございました。




