52.番外編 優しいだけでは⑬
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(……こんな神いるんだ。ちょっと信じられないんだけど)
見つめる日香は、驚きで開いた口が塞がらない状態だった。
目が見える者が盲人の世界を理解できないように、神は人の感覚を理解できない。しかし、焔神はそれでも理解しようと努力する。健常者が目隠しをして、見えない世界を擬似的に体験してみるがごとく。
普通の神であれば、そんな手間などかけない。人間の感覚が分かったところで、何か意味や利点があるわけではないからだ。
――だが焔神は違う。相手の気持ちを、想いを、正面から理解しようとする。こんな特異な神はそういない。
『あなた様は全く奇特なお方だ。あえて人の感覚を体験なさるなど、選ばれし神のお振る舞いとは思えませぬ』
『俺は成り上がりですから』
呆れを滲ませる狼神に、焔神はケロリと笑った。それを聞いたフルードが、そろりと顔だけ上げる。
「なり、あがり……?」
漏らした声は小さく掠れていた。狼神が端正な容貌を顰める。
『何を仰います。あなた様を成り上がりなどと思っている神など一柱もおりませんよ』
焔神は苦笑いで肩を竦めた。そして再び口を開く。
『俺は生まれた時から焔神だったわけじゃないんだよ。俺の年齢知ってるか? おおよそだが280歳くらいなんだぜ』
「ぇっ……でも……」
そして、言いかけるフルードを左腕に抱え直し、右手に出現させた吸い飲みを口元に持っていった。
『ほら、飲めよ。いっぱい泣いたから声が枯れちまってる』
「あ……りがとう、ございます……」
おずおずと開いた唇に、吸い飲みの先が含まされる。小さく喉を上下させて一口飲み込んだフルードは赤くなった目を見開き、すぐに二口、三口と続けて飲んだ。
『美味いだろ。ハチミツ入りのレモン水にしたんだ。泣いたら喉が痛くなるって、さっき言ってたろ。もちろん治癒の効果も混ぜてある。だが一気に飲むなよ、むせるからな』
焔神が暖かな眼差しで微笑む。コクコク頷くフルードは、夢中で水を飲んでいる。
(焔神ってほんとに変人――ううん、変神だ)
日香ははっきりとそう思った。
普通の神ならば喉が痛いことを理解せず放置するか、フルードの言葉から推測しても自分で治せるだろうと何もしない。聖威師に成り立てで力が上手く使えないことに配慮したとしても、簡潔に治癒して終わりだ。
だが焔神は、フルードの心に寄り添った対応をしている。こんな神は珍しい。
(何だか義兄様みたい)
吸い飲みを空っぽにしたフルードが、改めて礼を言ってから言葉を続ける。
「あの……焔神様は200歳なのでは? その祝賀として勧請させていただいたと思うのですが。100年くらい、神々の基準では誤差の範囲内なのでしょうか?」
疑問を告げる声は、水を飲んだおかげですっかり回復していた。
『焔神になってから200年なんだよ』
吸い飲みを消した焔神が、よっこいせと体勢を変えて部屋の床に座り込んだ。フルードはその腕の中から出ようとしない。すっかり安心し切った様子で身を預けている。狼神がムムッと頰を膨らませた。
『俺はな、初めから神として生まれたわけじゃないんだ。母神――火神がご機嫌を荒ぶらせた時にな、その神威が弾けた火の粉が精霊化した。それが俺だ』
「そ、そうなんですか?」
『ああ。俺の姉神や兄神は、最初から火神の御子神にして分け身を生み出すつもりで、神威と寵を与えられて創生された。だが俺は違う。偶然の産物みたいな形で生まれたんだよ』
神は性別を超えた存在であり、単体でも御子神を生み出せる。焔神は昔日を思い出すように目を細め、どこか遠くを見た。
『それから40年間くらい火神に仕えた。天界には清浄な気から生まれる精霊がいるから、そいつらに混じってな。もちろん立場は一番下っ端、最底辺の下働きだ。それでも十分だった。たまたま生まれただけの存在なんか、消されるか打ち捨てられてもおかしくなかったんだからな。火神の情の篤さに救われた』
フルードは黙って聞いている。
『しかも幸運なことに、火神は何だかんだで俺に目をかけて下さったのさ。曲がりなりにも自分から分かれ出た存在で、御子といえばそうだからな。思うところがあったんだろう。俺も必死で働いたぜ、見限られたら終わりだからな。そんで40年ほどが経った時、めでたく神使として召し上げられた』
「では……神性を得られたのですか」
最高神の御使いは、他の神の神使とは一線を画す存在だ。最高位の神の側近くに仕えるに相応しい箔が必要になる。そのため、寵を得ずとも特例で神格を授かることができる。
『そういうことだな。下働きから神使になった俺だが、それからも神使の仕事はもちろん雑用まで何でもやった。他の精霊たちの仕事を取らない程度に、精霊たちが怠慢だと責められないように調整しながらだが』
おそらく相当な苦労をしたはずの経歴だが、焔神の語り口が明るいため、暗さは感じない。
『そういう奴は珍しいみたいでな。神使とはいえ神格を得たってことで、傲慢になる奴も多い。そんな気配が無かった俺は、火神のお気に召されたんだ。神使になってからさらに40年くらい経過していたかな』
フルードをあやすようにゆっくりと揺らしながら、焔神は苦笑した。
『俺は火神の寵愛を賜り、改めて神威を注ぎ込まれた。それにより、本当の意味で御子神にして分け身になった。姉神や兄神に匹敵する存在になって、いわゆる選ばれし高位神とかいうのの末席に加わったわけだ』
己の愛し子が気持ち良さそうに青い目を細めているのを見て、狼神が軽く咳払いした。
『焔神様。選ばれし神は全員が同列にして対等、神威も互角です。上席や末席などの序列はございません』
『はいはい、分かっています』
苦笑した焔神が頷く。
(ここは至高神と同じだね)
じっと聞き入っていた日香は呟いた。全ての至高神は同格である。原初の始祖神に近くなるほど上位になるわけではない。祖を敬うという意味で後裔たちは先達に敬意を払い礼を尽くすが、至高神としての権能は同等だ。
狼神もまた、当時に思いを馳せるように眼差しを遠くへ投げた。
『最高峰の神々の一角となった焔神様の神威には、色が宿られましたな。美しい紅蓮の神威。火神様の赤に到達する色であり、最高神に準ずる神に相応しいと、初めて見た時は感動したものです』
『奇跡の神たる狼神様にそう言っていただけるとは恐悦です』
本心から告げているであろう称賛に、焔神は如才なく応じた。後天的に頂へと上り詰めたにも関わらず、驕慢や思い上がりが一切見られない態度に、日香は感嘆した。同じような姿勢を取る義兄を知っていなければ、もっと驚愕していたかもしれない。
(色々と型破りな神だな〜)
焔神のような神――つまり最高神の分け身にして御子神である神は、いざという時は親神の立場に代わることができる。つまり、その神威は最高神の境地に届く。当然の話だ。最高神の座を担うには、自分自身もその領域に達する神威を持っていなければならない。まさに最高神に準ずる神だ。
そしてそれと同等なのが、狼神を始めとする、全ての最高神から認められ愛される奇跡の神。地水火風の四大高位神と、悪神の長である禍神。それぞれ全く異なる性質を持つ超越存在たちを、有無を言わせず軒並み認めさせ惚れ込ませる奇跡の神の神威もまた、最高神の領域に達し得る。
『そうして俺が焔神になったのが、今から200年前ってわけだ。だから俺は、火神の神使で眷属で御子で寵児で、そして高位神でもある。姉神や兄神も同じだが、俺の場合は神使ってのが加わってるところが違うな』
カラッとした笑顔をフルードに向ける焔神に、狼神が額を抑えて嘆いた。
『いいえ、違います。あなた様は既に高位神。神使としての役目と義務は消失しているではありませんか。なのに今でも俺は神使だーと言って自主的にセカセカ動き回り、昔のように下働きでも何でもしようとなさる。このような高位神は前代未聞です』
『ですが、母神は呆れながらも面白がっておりますよ。いつか、通常の神使には荷が重い特殊な密命を下すことがあれば、神使としても働ける俺に頼むとのことです』
そう言い、焔神は腕の中にすっぽり収まった少年を見る。
『俺を取り巻く全てが変わったのは、二回。下働きから神使になった時と、高位神の列に加わった時だ。――神格を得たことで、俺は家族を得た』
ありがとうございました。




