51.番外編 優しいだけでは⑫
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「え?」
『は?』
(へ?)
フルードと狼神、ついでに視ている日香の心の声が一つになった。焔神は人差し指を伸ばしてフルードの額に当てる。
『じっとしてな。痛覚を含めた俺の感覚を、一時的にお前と同じものにする。体の耐久度とかダメージの入り具合とかかも同じにしとくか。なんせ神は頑丈だからな』
「え? え?」
目を白黒させているフルードに代わり、狼神が困ったように耳をパタつかせた。
『焔神様、何もそのようなことまでなさらずとも。そこまでする必要はありません』
『いいんですよ、何かが減るわけでもないんですから』
明るく答えた焔神がフルードの額から指を離し、代わりに目元の涙を払ってやる。
『このピヨは泣いているではありませんか。自分の気持ちと痛みを必死に訴えている。なら、俺はそれを理解できるよう努力するだけです』
(……何、この焔神って神……。変わってるにもほどがあるんだけど)
日香は心底驚いて焔神を見つめた。人の感覚を理解するためだけに神がここまでするなど、普通は有り得ない。
『よし、俺の体の準備は完了だ。狼神様、俺の腹を蹴ってみて下さい。格闘技の大きな大会で優勝する人間の成人男性くらいの力で』
『はぁ、また細かい条件を……仕方ありませんな』
しぶしぶ頷いた狼神が光に包まれ、次の瞬間、人身を取って顕れた。見た目は二十代前半頃の男性だ。狼の時の毛並みと同じたっぷりした灰銀の髪に瞳、真っ白な肌。その容貌と体つきは、天上の美と評するに相応しい麗姿だ。
「や、やめて下さい! そんなことしないで下さい、本当に痛いですよ!?」
フルードが涙目で止めるが、焔神はヒラヒラ手を振ってそれをかわした。
『だってこうでもしねえと分かんねえし。んじゃ狼神様、お願いします!』
『はいはい、分かりました』
もぉー、と言わんばかりに肩を竦めた狼神が焔神と向き合った。
「あの、お願いですからやめて……」
フルードの懇願を置き去り、狼神の膝蹴りが焔神の腹に炸裂した。何かが砕けるような鈍い音が響き、焔神の体躯が吹っ飛び、壁にぶつかって床に転がる。
『かっ……はっ……』
腹を押さえて体をくの字に曲げたまま呻いている焔神に、泣きべそをかいたフルードが駆け寄る。
「だ、だから申し上げましたのに! 今治癒をかけます!」
『か、け、るな……』
だが、荒い息の下で焔神は治療を制止した。
「えっ、ど、どうしてですか!?」
『……おまえ、は、ろくに治してもらえなかった、んだろ……』
切れ切れに答えた焔神はそのままうずくまり、動かなくなった。
「え、焔神様ぁ!」
無言で見ていた狼神が徐々に顔色を変えていく。
『大丈夫ですか。まさか――それほど痛いのですか?』
焔神の側に行って膝を付き、問いかけるが、答えはない。しばしの間、苦しげな呼吸音だけが静かな室内に響く。
「あの、やっぱり治癒を……」
耐えられなくなったか、フルードがおずおずと手を伸ばした時。ようやく焔神が緩慢に身を起こした。
『痛ぇ……おいちょっと待て。これ本気で痛えぞ……あばら何本かいったぜ』
のろのろと動きかけ、すぐに腹に手を当てて顔を歪める。
『……気持ち悪っ……吐きそうだ。息するたびに激痛が……』
「焔神様、焔神様」
うわごとのように繰り返すフルードが、あわあわとその背をさすっている。焔神は、ややあって右手の指で左手の人差し指を掴んだ。先程と同じように。ベキ、と湿った音が響く。
『――くっ……いつっ……』
山吹色の目が眇められ、噛み締めた唇から苦鳴が漏れた。赤黒く染まった人差し指がおかしな方向にぶらんと垂れ下がっている。
「うわああぁぁっ!」
絶叫したフルードがへたり込んだ。顔からサーっと血の気が引いていく。貧血を起こしたのかもしれない。
『セイン』
狼神がすぐに手を伸ばし、愛し子を支えた。
「もう止めて下さい、お願いですからもう止めてっ!」
顔を覆って泣き叫ぶ声を聞き、焔神は一つ瞬きした。瞬間、折れた指が治り、ケロリとした顔になって身軽に起き上がる。
『分かったよ、泣くな。ほら、もう人間っぽい真似は止めたから。どこも痛くないぜ』
「うぅ……」
フルードが指の隙間から様子を確認し、完治したようだと分かるとホッと手を下ろした。その様子を眺め、焔神がフルードを引き寄せた。ギクリと強張る小さな背を優しく撫でる。
『分かった。分かったよチビすけ。お前の気持ちが。これは辛い。俺は一度蹴られただけですぐ神に戻ったが、お前は毎日毎日、何度も殴られて、折られて、治癒もしてもらえなかったんだろ。こうして側で心配してくれる奴もいなくて、一人ぼっちで泣いてたんだな』
「……はい……」
力強い腕が、標準より小柄な体を包み込んだ。
極度のストレスと栄養失調に晒されて来たフルードは、発育が同年代の子どもより遅い。貴族に引き取られて教育を受けている最中も、食事は腐りかけの食べ残しを用意され、形式的な食べ方や作法だけを詰め込まれていたという。
まともな食事は神官府に入るまでしたことがなかったかもしれない。
『お前の訴えが正しい。痛かっただろ。辛かっただろ。ずっとずっとずっと痛かったなぁ』
「……は、い……う……うぅ……うわあぁぁん」
しみじみと言われ、焔神の肩に顔をうずめたフルードが嗚咽を漏らした。分かってもらえたことに安堵して、寄り添ってもらえたことが嬉しくて、小さな手で焔神の神衣を掴んでわぁわぁ泣いている。
『お前は偉い。こんなにチビなのに耐えて来たんだな。頑張ったな、本当に頑張った。けど、もう頑張らなくていいからな。ここにクソ家族はいねえから。もう二度と地獄には戻らなくていいんだ。好きなだけ泣いて笑って安心していいんだぜ」
次々に染み込む涙で神衣がぐしょぐしょになっても、焔神は気にした様子もなくフルードの背をさすり続けている。ぎゅっと握られた衣はしわくちゃになっているが、それにも文句一つ言わず優しい言葉をかけていた。
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