44.番外編 優しいだけでは⑤
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「うっ……うぅ……ひくっ……」
聖威師として与えられた邸の自室にこもり、フルードは体を丸めて涙を流していた。
『指示を受けた期間、きちんと謹慎するように』
扉を閉める際に言い渡した佳良は、こちらを気遣うような色を浮かべていたが、結局甘い言葉をかけることなく立ち去った。当然だ。フルードの判断不足でむざむざと神を怒らせ、下手をすれば死者が出た事態を引き起こし、果ては天威師の手を煩わせたのだから。
聖威師でなければ、厳罰処分を受けていただろう。
「先生、先生ごめんなさい……ご、ごめ、なさ……」
失敗してばかりの自分がただ情けなくなる。他の聖威師とは大違いだと。
自分と同じ年頃の少年、当真を思い出す。彼の性格は、フルードと同様に大人しく温厚だ。しかしその実、皇国随一の名家たる一位貴族・唯全家の跡取り候補として、誕生と同時に英才教育を課せられて来た。
『フルード君、これから一緒に頑張ろうね。何か分からないことがあったらいつでも聞いて』
ほんわかした笑顔でそう言ってくれた当真は、普段の臆病な様子とは裏腹に、座学、知識、技術、実技、全てが完璧だった。佳良とオーネリアをして、『さらに教えることはない。後は経験を積んで大神官か神官長になるだけ』と言わしめるほどの逸材だ。
なお、当真本人は自信なさげにしていることが多い。彼には彼の背負う重荷や事情、苦悩があるのだろう。だがフルードにとっては、雲の上の存在だった。
また、唯全家と並ぶ家柄である宗基家に生まれた恵奈は、日香たちと同年代だ。とっくの昔に、佳良やオーネリアに匹敵する聖威師に成長しており、次の大神官もしくは神官長の地位が内定している。
次に思い浮かべたのは、自分より少しだけ年下でありながら、数年前に聖威師になっているアシュトンだ。帝国で一二を争う権門、イステンド大公家の嫡子であるアシュトンは、やはり実家から徹底的な指導を受けて育っていた。
8歳にして既に単独で何度も神鎮めをこなし、座学でも実技でも当真と対等に渡り合い、大神官ないし神官長の椅子は確実と目されている。
また、幼子とは思えないほど落ち着いており、フルードが失敗するたびに『知らなかったことは仕方ありませんから』と、淡々と尻拭いと事後処理をしてくれる。
彼らと自分を同列に考えてはいけないと、オーネリアはフルードに言ってくれた。
『彼らは特別なのです。唯全、宗基、イステンドーー皇国と帝国の中で、皇帝家を除けば最高位の家門に生まれた彼らは、専用の特別教育を胎教時から叩き込まれ、神官に必要なあらゆることを身に付けて育ったのです』
どの家も、皇国と帝国の創建時から存在している名家だ。建国より三千年に渡る先人たちの叡智と工夫、努力と実体験を元に作り込まれて来た最高の教育環境と資料が揃っている。
『当真とアシュトンに関しては、父親が聖威師です。父親から一対一で教えを授かることができました。父親に寵を与えている神も愛し子から請われ、当真とアシュトンに幾度も指南をしていたそうです』
神格を持つ存在が直々に専属指導をしていたのだ。完璧にもなる。
『恵奈は残念ながら親に恵まれなかったので、自ら一位貴族や大公家の当主に教えを請い、当主と当主を加護する神の助力を得て力を付けていきました。ですが、それは宗基家の生まれという縁故があって可能になったこと。一位貴族と大公家は昔から親交があり、協力体制を築いていますから』
そのような土台を積み上げ、根を張り種を育てて来たからこそ、いざ聖威師になった今、その花が開いている。
『彼らは徴が出ること、そして聖威師になることが前提の教育を常に受けて来ました。あなたとは条件も環境も違います。あなたは焦らず、自分の速度で成長していけばいいのです』
オーネリアはそう言って励ましてくれた。
しかし、知識も聖威の操作も、何もかもが及ばない。武術の模擬戦では、恵奈や当真はもちろん年下のアシュトンにまで一方的に剣で叩きのめされ体術で圧倒され、最後は腕をねじ上げられた痛みで気絶してしまい、彼を大いに慌てさせた。
『あくまで模擬戦なのですから、もっと相手の力量に合わせられるようにしなさい』
オーネリアに注意され、しょんぼりと謝って来たアシュトンを思い出すと、こちらの方が申し訳なくて顔から火が出そうになる。
「僕は……やっぱりダメなんだ……何もできないから」
『お前は本当に愚図ね。その鈍臭い顔を見ていると吐き気がするわ! ああ、お兄ちゃんがちゃんと生まれてくれていたら、お前なんかよりずっとずっと優秀だったでしょうに!』
生前の母親がヒステリックに叫んでいる声が脳裏に蘇った。
『掃除をさせたら水をひっくり返す、食事を作らせたら焦がす、服を繕わせたら縫い目が汚い。何をやらせてもてんでダメ。ねぇ教えて、お前は何ができるの? 何ならできるの? お前にできることは一体なんなの? お父さんのサンドバッグになることなら砂袋で十分なのよ。お前は砂以下だわ!』
「ごめんなさい……お母さん」
酒飲みだった父親も、赤ら顔で怒鳴っている。
『くそっ、また賭けで大負けしちまった! 酒代がなくなるじゃねえか! おいアイツはどこだァ! アイツを殴って憂さ晴らししないと気がすまねえんだよ! アイツがもっと賢く生まれてくれりゃあ俺たちにもっと楽をさせてくれたのに!』
安酒の瓶を持ち、荒れ果てた家をさらに破壊する巨大な暴威。穴ぼこだらけのクローゼットに隠れたフルードは、身を縮めて穴から外を窺っていた。
すると、部屋の中で息を殺していた母親と目が合った。
(お母さん、僕の居場所を言わないで! お願いお母さん!)
心の中で懇願するフルードの前で、母親は嬉しそうに甲高い声を上げた。
『あなた! ここにいるわよあなたー! クローゼットの中よぉ! アタシじゃなくてこの子を叩いてちょうだい! この子がみんな悪いんだから!』
『おお、そこか! コソコソ隠れやがって小賢しい奴め! ああそうだ、全部アイツが悪いんだ!』
「……ごめんなさい、お父さん」
真冬の晩、自分を買った貴族が壁やテーブルを叩いて叫んでいる。
『何故お前はそんなに覚えるのが遅いのだ! 作法、所作、教養……何一つまともにできていないではないか! お前を買うのにいくら払ったと思っている、この期待外れが! お前の両親から聞いたぞ、死産だった兄がいたそうだな。そちらが生きていればと親が嘆いていたが、その通りだ!』
投げ付けられた分厚い辞典が額を直撃し、赤い飛沫が飛び散った。
『おい執事、コイツを外に出して氷水をかけ、鞭で打て! その後はもう一度氷水をかけて朝まで外にいさせておけ! 上着など着せるな、シャツだけで十分だ!』
場面が切り替わり、赤子を抱いた貴族が上機嫌で笑っている。
『待望の跡取りが生まれたぞ! これで我が家は安泰だ。我がシャルディ家の子なのだから、きっと徴も出るだろう。……フルード、お前は結局買い損だったな。どうしてくれる、償え! 責任を取って死ぬまで俺に尽くせ! 神官府での勤務時以外は常に俺のために生きろ。馬車馬の何百倍もこき使ってやる!』
「ごめんなさい、ご主人様……」
本当の地獄が始まったのはそれからだ。虐待など遥かにすっ飛ばした拷問並みの扱いを受け続けた。神官府に行けば、手を伸ばせば触れられる所に普通の世界があるのに、言動を制限する霊具を付けられていたために助けを求められなかった。
誰も彼も、自分を出来損ないだと罵倒し、暴力を振るう。どれだけ頑張っても、決して褒めてくれなかった。認めてくれなかった。皆が揃って同じことを言うのだから、自分は本当に木偶の坊なのだろう。
そんな中、唯一の救いは神官府で担当教官になった『先生』だった。
ありがとうございました。




