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前編

 

「おはようございます、カッセル様」

 ブルーナ家の朝はその一言から始まる。

 それを合図にジェナの首から陶器のように冷たく真っ白な指は離れて行く。


「今日も君を殺せなかった」

「また、明日がありますわ」

 背中に影を負いながら去って行くカッセルにジェナはお決まりとなった言葉をかける。


 一年ほど前からカッセルはジェナの首に手をかけるようになった。

 理由はジェナにもわからない。


 二人はおおよその貴族たちと同じように政略結婚だったし、五年間の結婚生活は始まりがそうだったせいか初めから冷え切っていた。

 両家が望む子どもだって出来やしない。それどころかジェナはカッセルに何もしてやれはしないと結婚自体を悔いていた。


 ジェナは思う――カッセルは可哀想な人であると。

 ただ身分が釣り合うだけの自分に縛り付けられてしまった可哀想な人だと。

 彼が望めばどんな女であろうと手に入るだろう。だがそんな彼を縛り付けるのは家に決められたジェナなのだった。



 カッセル=ブルーナと聞けばその名を知らない者はいない。

 カッセルはブルーナ家の次期当主として期待された身でありながら宰相の職に専念するために次期当主の座を弟のセレンに受け渡した。

 優秀な彼を手放すのは惜しいと思ったブルーナ家の者は誰もが彼を止めた。弟のセレンさえも優秀な兄の後に当主として据え置かれるのを嫌がったのだった。

 けれどカッセルはブルーナ家の必死の懇願を耳に入れることはなかった。

 宰相となることこそが自らが国のために出来る最良のことであると何度も家の者たちを説き伏せた。

 確かに国随一の高等学校を卒業した彼が宰相の職に就くことは次期宰相の選定に手間取っている国としてはありがたい申し入れだった。他の文官たちからでさえも彼は一目置かれていて、彼なら申し分はないと口を揃えてカッセルが次期宰相になることを推薦したほどであった。


 けれどブルーナ家にとってはそうではなかった。

 もしカッセル以外の親族がそれに名乗りを挙げたのならば国のために尽くせと背中を押して送り出しただろう。

 そして名を立ててくれればブルーナ家の繁栄に繋がると。

 だがカッセルならば話は別だ。

 ブルーナ家はきっとカッセルならば次期当主として今まで以上にブルーナ家の繁栄に繋がることを成し遂げてくれるだろうと期待していた。

 それも国が、王家が目をつけるよりもずっと前から。


「何のためにフレンドリナの娘を婚約者に据えたと思っているんだ!」

 ジェナを婚約者として迎え入れたのもブルーナ家繁栄のためのピースに過ぎなかった。

 ジェナの実家であるフレンドリナ家はブルーナ家と同じ公爵の地位を持ちながら家を存続する方法は大きく異なった。

 ブルーナ家は貴族としての誇りを第一に、といえば聞こえはいいがプライドが高く庶民や下級貴族のように働くことをひどく嫌った。

 一方フレンドリナ家は産業改革後、貴族と庶民の垣根がなくなりつつある中で働くことを覚えた。ある者は工場を立ち上げ幾人もの平民を雇った。ある者は商人のように物の流通に関わるようになった。そしていつ貴族という爵位がなくなってもいいように備えた。

 ブルーナは変わりゆく時代の中で何かあった時の保険のためにフレンドリナの女を利用したのである。


 そしてフレンドリナ家はブルーナが何かを企んでいると知りながらジェナを婚約者としたのは彼らの家では『女』というものの身の振り方は未だにあやふやなものだったからだ。

 働く貴族も多くなりつつあっても女の働き方は確立されてはいなかったため、残された女をどうするべきかフレンドリナ家は判断に困った。

 今までならば同じくらいの地位の者に嫁がせればいい。

 だが未だに貴族としてのプライドが強く残る公爵の地位を持った者たちがフレンドリナの女を嫁にもらってはくれなかった。そんな時に手を挙げたのはブルーナ家だけだったのだ。

 かくしてジェナは貴族の娘にしては遅く、14にしてやっと誰かの婚約者としての地位を確立したのであった。そしてその2年後、カッセルが高等学校を卒業した歳に彼女は彼の元へと嫁いでいった。


 2年もの間、カッセルの婚約者であったジェナが結婚するまで彼に会ったことなど一度もなかった。

 その時のカッセルは高等学校の寮へ入寮していたためだ。それでも長期休暇の時にはカッセルは実家に帰省していたため望めば会うことは出来た。だがカッセルもジェナも互いに婚約者と顔を合わせようとは思わなかったのだ。

 カッセルは目の前の大量の知識を吸収することで忙しく、いつの間にかブルーナ家によって婚約者になっていた少女の存在を知らなかった。

 ジェナは婚約者がいることを知っていても興味などなかった。ただ女であるがために必要とされることがないフレンドリナ家に居座り続けたくはなかった。それがどこであっても、子を産むだけの存在として認識されようが必要とされる場所に居たかったのだ。


 ……だがジェナのそんな些細な望みは叶えられることはなかった。

 結婚してからもカッセルがジェナを望むことはなかったからだ。


 ジェナの住む屋敷には帰ってくる。食事も共にする――だがそれだけなのだ。

 フレンドリナにいた頃と何も変わらなかった。

 ジェナがカッセルに与えられるものは自分の身体だけだったというのにそれすら彼が望まなければ何の意味を持たなかった。

 ブルーナが、フレンドリナが望む子ですらカッセルにその意思がなければ、ジェナだけではどうすることも出来ない。


 ではなぜここに居るのかとジェナは自分の存在意義を己に問うた。


 けれど一向に答えなど出なかった。

 そうして機械のように生き、そして何事もなく過ぎる日々を持て余していたある日、ジェナは首元に何かが触れる感覚を感じて目が覚めた。

 目の前に居たのは何を考えているのか感じ取ることさえ出来ないほどに冷え切った表情を浮かべるカッセルだった。

 暗闇のような瞳にジェナは「どうされました?」と声をあげることすら許されず、ただ吸い込まれるように見つめ返すことしか出来なかった。

 時間が経過することすら忘れて視線を交わしていると彼はポツリと言葉をこぼした。

「君を殺すことは出来なかった」――と。

 ジェナの首筋に添えていた両手を引いて、表情一つ変えずにカッセルは去って行った。


 それからだった。

 彼が毎朝ジェナの首に手をかけるようになったのは。

 毎日繰り返されるせいで日課と化したそれにジェナはうまく返せるようになった。

 何を返したら彼は笑みを浮かべてくれるのかと考えるのは彼が城へ行ってしまった後の、空虚な時間を埋める楽しみになった。

 そして何より自分の役目が出来たことが嬉しかったのだ。


 いつか彼に殺されるその日まで、王都から少し離れた屋敷はジェナの居場所である。

 そして今年で21を迎えたジェナの死に場所もまたこの屋敷なのだろう。


 一人になった部屋の中、鏡に映るジェナは手がかけられていた場所に指を這わす。


 絞めた痕すら残してくれない彼はいつ殺してくれるのだろうかと期待を抱きながら。



 ……だがカッセルは結局、ジェナを殺してはくれなかった。

 その日のうちにフレンドリナ家から使いが来たのだ。

 見覚えのあるフレンドリナの使用人は言った。これはブルーナ側も承知のことだと。


 その日からジェナの視界を占めるものは全て白と黒へと変わっていった。


 家族としての愛を注ぐ価値のなかった娘。


 子を成すどころか殺す価値のなかった妻。


 何もせずに帰って来た、責める価値さえない妹。


 数年越しに帰って来た自室にはベッド以外、何も残ってはいなかった。

 そのベッドですらもジェナが使っていたものではなく、帰って来ることになってしまった彼女のために急遽用意させたものらしい、真新しいものだった。


 それが何よりジェナの居場所はもうどこにもないことを如実に語っているように思えた。


 ジェナは首に手をかけて、そしてか細い10本の指に力を込める。

 段々と空気が薄くなっていくと同時に頭もぼうっとして来る。これで死ぬことができるとジェナは薄らいだ意識の中で期待する。


 けれど彼女は死ぬことは出来なかった。

 こんなにも死ぬことを望んでいようが、彼女自身の身体が自ら命を絶つことを拒否しているのだ。


「また、明日……がありますわ」

 途切れ途切れになる声でジェナは自分に言い聞かせた。


 今日が無理でも明日があると。


 どんな意図があろうと自分の存在に価値があった一年の時を抱きしめながら、一人になってしまった部屋で、生きている証拠のように肺に溜まった空気をゆっくり吐き出した。


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