第1話「図書館とリンゴ」
第1話「図書館とリンゴ」
ここは、四方を海に囲まれた大陸。
大陸は、ヒウミ、マルバラ、カナネガルの三国に分かれている。
沿岸から数里沖には、いつも深い霧がかかっている。
海の向こうには、この大陸に蒸気機関をはじめ、発電技術や自動車をもたらした外つ国があるという。
ただ、そこへ渡り、戻ってきた者の話は聞かない。
三国のひとつ、ヒウミ国。
国の中央には帝都がある。
春と秋は過ごしやすい。夏は湿度こそ低いものの、蜃気楼が現れるほど暑く、冬にはかなりの雪が降る。四季のはっきりした国だ。
ヒウミ国民の髪は、白色、銀色、乳白色、貝殻色など、白系が大半を占める。まれに金髪や黒髪の者もいる。
良家の者は、ほかの色が混じらない白銀色の髪を持つことが多い。
一方、低層階級の者は、毛先にさまざまな色が現れる。
残酷なことに、この国では髪を見れば出自が分かってしまう。
図書館の別館、地下。
返却された本が、木の台の上に山を作っている。
今日は寺子屋が半日で終わる日で、午後からは子どもたちや付き添いの親が多く訪れた。返却された本も、いつもの倍はある。
蓮要は刷毛を手に取った。
本の表紙に使われる素材は、実にさまざまだ。
動物の皮、木、紙、布、植物の葉や茎、竹。中には魚の皮を使ったものまである。
大きさも、手のひらに乗るほどのものから、一抱えもある大型のものまで幅広い。
素材ごとに分け、それぞれに合った方法で清拭する。
柔らかい刷毛でほこりを払い、専用の布で拭く。汚れがあれば、丁寧に取り除く。
蓮要は、この作業が好きだった。
手に取った一冊の革表紙を、指先でなぞる。
よくなめされた、柔らかい革だ。背表紙の糸が少しほつれている。
「ここ、直してあげたいな」
独り言だった。
糸は本館の修繕係に頼むしかない。
でも、清拭だけはできる。
布で丁寧に拭きながら、ほつれた糸だけは避けるように指先を動かした。
次の一冊は、木の板を表紙にした大型の本だった。ずしりと重い。
開いてみると、子どもの字で何か書き込まれている。
「あ……。館長に報告しなきゃ」
困った顔をしながらも、つい文字を読んでしまう。
――ここおもしろかった。
蓮要は少し笑った。
「気持ちは分かるけど、本には書いちゃダメだよ」
誰もいない地下室で、返事のない注意をする。
本を傷つけたくて書いたのではないことは分かる。
けれど、この一冊を次に読む人が、嫌な気持ちになるかもしれない。
消せるかな、と専用の布で表面を軽くこすってみる。
薄くはなりそうだった。
次の一冊を手に取り、蓮要は眉をひそめた。
背表紙が乱暴に剥がされ、中のページも数枚破られている。
子どもの書き込みとは違う。
これは、怒りの跡だ。何かに苛立った人間が、手近なものに当たったのだろう。
以前は、こういうことはなかった。
ここ半年ほどで、時々見かけるようになった。
修復できるか確かめるため、破れた断面を見る。
繊維が荒れている。力任せに引き裂いたのだろう。
「……痛かったね」
蓮要は破れたページを揃え、元の位置に差し込んだ。
本館の修繕係に回すしかない。
けれど、修繕の順番待ちは長い。最近、壊された本が増えているからだ。
百冊近い本を分類しながら、次々と手入れしていく。
蓮要の手は止まらない。
ふと、その手が止まった。
手にしたのは、この国でよく知られた童話だった。
表紙には、黒い鳥と青い鳥が描かれている。
「懐かしいな」
嫌われ者の烏が、人気者のカワセミを助けたのに、みんなに誤解されて森を追い出されてしまう。
烏がいなくなったあとで真実が分かり、みんなで迎えに行く。
けれど、烏は別の森で楽しく暮らし始めていて、もう元の森には戻らなかった。
幼い頃、母が何度も読んでくれた話だ。
自分でも、本がぼろぼろになるまで繰り返し読んだ。
烏は最後に幸せになったのだから、これは良い話のはずだった。
それなのに、子どもの頃からなぜか、最後のページをめくるのが寂しかった。
みんなの森に戻らなかった烏は、本当にそれでよかったのだろうか。
そう思うと、母の声が耳の奥によみがえる。
母の腕のぬくもり。
ページをめくる指。
柔らかい声。
――もう、ない。
鼻の奥がつんとした。
つい、しょんぼりしそうになる。
蓮要は頭を振った。
『今。ここ。求められていることだけを考えろ』
深く息を吸い、吐く。
顔を上げると、まだ半分以上の本が残っていた。
「あと四往復くらいかな」
荷車は一階に置いてある。
地下と一階を何度も往復して、本を積み込む。
重い本は下に、軽い本は上に。
背表紙が外を向くように揃え、荷車を押して本館へ運ぶ。
この仕事をくれた館長には感謝している。
館長は母の知人だった女性で、去年、母が亡くなったあと、何も聞かずに蓮要を雇い入れてくれた。
別館の地下には、人がほとんど来ない。
子どもの頃から通っているこの図書館は、蓮要にとって、少しだけ息をつける場所だった。
濃い翠玉色の瞳。
同じ色を毛先に宿した乳白色の髪は、陽の光を受けると虹色の艶をまとう。
見た目は十八、九ほど。中性的な顔立ちをしているが、蓮要は女性だった。
母がまだ生きていた頃、ある事件があった。それ以来、女性だと悟られないようにして生きている。
日が傾きかけた頃、ようやく仕事を終え、蓮要は帰路についた。
ここ数日は、だいぶ暑さが和らいでいる。
朝晩には、少し涼しさを感じるようになった。
商店街を通る。
夕暮れの光が、店先に積まれた早生のリンゴを赤く染めていた。
そのリンゴの山の前に、派手な髪色をした異国人がいた。
毛先が赤い金髪。
見たことのない意匠の服。
背は蓮要より頭半分ほど高い。
その人は、積み上がったリンゴの一点へ手を伸ばしていた。
「あ、それはダメ……」
蓮要が声を上げたのと、その手がリンゴに触れたのは、ほぼ同時だった。
山が崩れた。
リンゴが石畳の上を四方へ転がっていく。
店主が声を上げ、異国人が慌てて追いかける。
蓮要も駆け寄った。
三人で、石畳を転がるリンゴを拾い集めた。
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