第七十六章 風の知らせ
風が変わった。
それに気付いたのは、数日前のことだった。
最初はただの違和感だった。
季節の移ろいかもしれない。
気のせいかもしれない。
だが、長い時を生きた者の勘は時として理屈より先に真実へ辿り着く。
風は何かを運んでいた。
見えない何かを。
◇
丘の上に立つ老いた妖精は、静かに空を見上げた。
青い空、流れる雲、いつもと変わらない景色。
それなのに
「騒がしいのう」
長老は小さく呟いた。
周囲には誰もいない。
あるのは風だけ。
木々の葉を揺らし、花々の間を吹き抜ける優しい風。
だが今日の風は落ち着きがなかった。
まるで何かを伝えたがっているようだった。
長老は目を閉じ、耳を澄ませる。
すると風の中に、かすかな声が混じっていた。
旅人たちの話、街の噂、遠く離れた場所で交わされた会話。
風は昔からそういうものだった。
世界中を巡りながら、人々の想いを運んでくる。
◇
「忘れてしまったそうじゃ」
「毎日通る道なのに」
「名前が出てこなかったんだ」
「変な話だろう?」
◇
断片的な言葉が風に乗る。
長老の眉がわずかに動いた。
ひとつひとつは些細な話だ。
笑い話で終わる程度の出来事。
だが、それがあまりにも多い。
風は続ける。
◇
「歌を忘れた」
「手紙の続きを思い出せない」
「約束していたはずなのに」
◇
長老はゆっくりと目を開いた。
その眼差しは遠くを見ている。
もっと遠く。
ずっと遠く。
今では誰も知らない時代を。
「……まさかのう」
風が吹く。
白い髭が揺れる。
だがその言葉の続きを、長老は口にしなかった。
長老は知っている。
いや、正確には知っているわけではない。
覚えているわけでもない。
ただ、胸の奥に残っているのだ。
名前のない違和感が。
遠い昔、まだ若かった頃。
何か大切な話を聞いた気がする。
誰かと語り合った気がする。
だが思い出せない。
不思議なことだった。
長老ほど長く生きていれば、忘れてしまった出来事などいくらでもある。
だが、これは少し違った。
忘れたというより、最初からそこだけ切り取られているような感覚。
「ふむ……」
長老は杖を握る。
そして空を見上げた。
風はまだ騒いでいる。
いや、どこか嬉しそうですらあった。
「なんじゃ?」
その時だった。
風の流れが変わる。
懐かしい気配が混じる。
優しい光のような気配。
◇
星祈り。
長老の口元がわずかに緩んだ。
「あの子らか」
脳裏に浮かぶ。
無愛想な剣士、甘いもの好きの娘、真面目な青年、本を抱えた知識屋。
そして、人と人を繋ごうとする星祈りの少女。
「なるほどのう」
長老はくすりと笑った。
風は確かに伝えていた。
あの子たちもまた、この異変に気付き始めている。
◇
長老はしばらく空を見ていた。
雲が流れ、鳥が飛び、風が吹く。
「ほっほっほ」
穏やかな笑い声が漏れた。
「やはり縁というものは面白い」
本来ならば、彼らはただの旅人だった。
一度出会い、別れ、それで終わる縁だったかもしれない。
だが、風は再び彼らの名を運んできた。
それならば、今度はこちらから行くべきだろう。
長老はゆっくりと歩き出す。
長い旅の支度など必要ない。
杖一本あれば十分だ。
「さて」
柔らかな風が吹いた。
「少しばかり昔話をするとしようかの」
その声を聞いた風は、どこか楽しそうに世界へ駆けていった。
◇
一方その頃、セリアたちは街道を歩いていた。
「なんか今日、風強くない?」
リリカが髪を押さえながら言う。
「そうか?」
ガルドが首を傾げる。
ユークは地図を広げながら歩いていた。
レオンは黙って周囲を警戒している。
そしてセリアだけが、ふと足を止めた。
「……?」
「どうした?」
レオンが振り返る。
セリアは風を見つめていた。
まるで誰かが呼んでいるような気がしたのだ。
「ううん」
彼女は小さく笑った。
「なんでもない」
だがその風は確かに彼女たちのもとへ向かっていた。
遠い昔を知る者を乗せて。




