1-4 北条家の旗馬印 〜 旗印は武将の矜持、命懸けのこだわり 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名前は北条氏康。
数多の戦に勝利してきた者として断言するが、戦場における「旗印」や「紋」ってのは、ただの飾りじゃない。それは武将たちの所属、ランク、そして「俺はこういう流儀だ」という意思表示……つまり、武将の『美学』そのものだ。
親父の氏綱の時代、関東の連中は家々の「紋」を重んじていた。だが、背中に差す「差物」は自分だけの限定仕様にするのが当時の流行りだった。
もし他人の家中と被ったり、実力に見合わない派手な差物を差していたりすれば、即座に周囲から「推参」「身の程知らず」と罵られ、咎められる。戦場は常に「外見」の真剣勝負でもあった。
まずは俺たち、北条家の旗馬印を公開しよう。
俺(氏康):赤旗十流。さらに、三つ鱗を配した巨大な四角い旗が一本。馬印は五色の段々をあしらった「大のぼり」だ。
北条 氏政:白地に『鑊湯無冷所』の五文字。……「地獄の釜に冷めた場所はない」という、殺る気満々のハードコア仕様だ。
北条 氏直:金地に『無』の一字。究極にミニマリズムを極めた、静かなる覇気のデザインだな。
さて、ここからは俺の家中にいた、尖った流儀の連中を紹介していこう。
氏直の旗本に、鈴木大学頭という弓大将がいた。こいつは関八州でも並ぶ者のない弓の名手で、数々の合戦で先陣を奪ってきた精兵だ。
だがある日、こいつが自分の差物に、白地にデカデカと仮名で『鑓』と書いて現れたんだ。周囲の侍たちはざわついた。
「おい、鈴木は弓の専門職だろ? 関東一の射手が、なんで『鑓』なんて書くんだよ? 」
そこに、太田十郎の家来で武蔵の住人、槍の名手である春日左衛門佐が詰め寄った。
「鈴木殿、その『鑓』とやらは、個人的な鑓か、それとも北条の鑓か? ハッキリしろっ!」
鈴木は平然と答えた。
「個人の鑓だ」
春日は鼻で笑い、毒を吐く。
「個人の鑓なら勝手にしろ。だが、間違っても『北条の鑓』なんて名乗るんじゃねえぞ。俺がいる限り、そんなふざけた差物は許さねえからな」
鈴木大学は結局とがめられることはなかったが、小田原籠城戦ではその「命中率ハック」並みの実力を遺憾なく発揮した。 矢倉の上に登っては、敵を目の下に見て「鈴木大学頭なり!」と刻んだ矢を放つ。その矢は、一射たりとも外れることはなかった。
だが見た目にこだわり、目立ちすぎる武将の末路は敵意を買いすぎることにある。「大将たるもの、鉄砲の弾幕の前に出るのは『飛んで火に入る夏の虫』だぞ」と警告されたが、彼は自分の流儀を変えなかった。結果、最後は鉄砲の弾丸を浴びて、戦死してしまった。
次は、実績に命を懸けた男たちの話だ。 相州 甘縄の住人、三好孫太郎という勇士がいた。こいつは差物に「挑灯」を七つもぶら下げていた。通称『孫太郎の七つ挑灯』だ。
そこへ、松田肥後守の寄騎である山下民部が、「六つ挑灯」を下げて現れた。天正十三年、佐竹義宣との対陣中。七つ挑灯の孫太郎が、六つ挑灯の民部に馬を寄せ、メンチを切った。
「おい、お前、その挑灯の意味を分かって使ってるのか?」
「……俺の好みだ。文句あるか?」
孫太郎は冷笑して、自分の「実績」を語り出した。
「甘いな。この俺は、天文十五年の対上杉戦(河越夜戦)で一番鑓を取り、氏康様から感状をもらった時に挑灯を一つ差した。それ以来、一つ、二つ……重なる忠勤と武功によって、今の七つがあるんだ。功績もねえのに六つもぶら下げるのは、偽装だろうが!」
そこに敵方の強敵、大石八郎が現れた。こいつは「釣鐘」の差物を差した怪力 武将で、長刀を振り回して暴れ回っていた。
挑灯の意味を問われた民部は、名誉挽回とばかりに大石に突っ込んだ!馬上から組み合い、地面へ落下。凄まじい筋力で大石を組み伏せ、見事に首を取ったんだ。
そして、その場で民部が取った行動は驚くべきものだった。彼は自分の差物から五つの挑灯を切り捨て、「一つ挑灯」に戻したんだ。
「……さっきの問答、納得したぜ。今の俺の功績は、この首一つ分だ。ここからまた一つずつ積み上げてやるよ」
この「初期化」という潔い矜持に、孫太郎も、そして周囲の連中も「あっぱれな剛の者だ!」と絶賛し、ご褒美を与えたという。
最後は、一風変わった「交換取引」の話をしよう。北条方の岡部権太夫は、猪の紋の差物を差していた。
混戦の中で敵を一人仕留めた権太夫だったが、なんと大事な差物を戦場に落としてしまった。
(クソッ、俺の差物が……! これじゃ帰陣してもカッコがつかねえ!)
普通なら諦めるが、権太夫は違った。彼は取ったばかりの敵の首をひっつかみ、馬に鞭打って再び敵陣へと突っ込んだんだ!
敵も味方も驚愕した。
「なんだ? 寝返ったのか? 自殺志願者か?」
敵陣の間近で馬を止め、権太夫は大音声で叫んだ。
「俺は下総の住人、岡部権太夫だ! 先ほど敵を一人討ち取ったが、その際、猪の差物を落としてしまった! 頼む、俺が今持っているこの首を差し出すから、俺の差物を返してくれ! 実検の前の首だ、等価交換だ!」
これを聞いた敵兵は感銘を受けた。
「なんと風流で、潔い侍か……。分かった、交換だ」
敵兵の一人が拾った「猪の旗」を掲げて進み出た。権太夫は「恩に着る! ついでに俺の差筒にぶっ刺してくれ」と言って背中を向け、敵兵に旗を装着させると、代わりに首をポイと渡した。敵も味方も、この「究極の心構え」に感嘆したという。
どうだ、爺さん。これが北条の家中を支えた、一筋縄ではいかない武将たちの姿だ。旗一本、紋一つにまで「己の証明」を懸ける。
名門(足利・上杉)の連中が、古い家系図に縛られている間に、俺の家臣たちはこうして「現場の経験値を積み上げてきた。
この圧倒的な個性と、俺が統制する組織が合わされば、もはや関東に北条の敵はいない。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
四 小田原北条家旗馬じるしの事
見しは昔。北条氏綱公の時代、関八州の武士の旗は、家々(いへいへ)に伝ふる紋をあらはし、差物はその身一代にかはると見へたり。おもひおもひの差物、品さまざまの紋あり。去るほどに、我が差物に似たる紋あれば、他の家中たりといふとも由来を尋ね、とがむ。その上、ほまれなくして異様をこのみ、分際に過ぎたる紋の差物をば、見る人あざける故、身に応じたるをさしたり。然るに、氏康は赤旗十流、いろこ形の大四方一本あり。馬じるしは五色に段々(だんだん)の大のぼりなり。氏政は白地に「鑊湯無冷所」と五文字を書けり。氏直は金地に「無」の一字を書かれたり。さて氏直旗本の弓大将に鈴木大学頭(すゞきだいがくのかみ)といふ者、ことに精兵の大矢束を引き、上手の名を得たり。数度の合戦に先をかけ、ほまれをあらはす故にや、白地の差物に「やり」と仮名に書きたり。人これを見て、「鈴木大学頭は旗本の弓大将、その上関八州に比類なき射手なり。かれといひ是といひ、弓と書きては子細あるべからず。鑓と書く事、推参なり」としかりしかども、あへてとがむる人なし。太田の十郎家中、武蔵国岩付の住人春日左衛門佐といふ者、大学に向かつて、「その方の鑓は旗本の鑓か、関東の鑓か」と尋ぬる。大学、「旗本の鑓」と答ふ。春日左衛門聞きて、「旗本の鑓においては是非なし。いやしくもこの春日左衛門ありて、関東の鑓と名付くる人あるべからず」と荒言を吐きたり。皆人聞きて、「大学が鑓、春日左衛門にとがめられ、関東の鑓と答へざるは、大学が鑓をば銘矛とこそ名付くべけれ」と難ぜしが、小田原籠城の時節、大学は渋取口の役所にありて、矢倉へ日々あがり、敵を目の下に見て、「鈴木大学頭」と矢じるしを書きつけ放つ矢、あだ矢一つもなし。人云ふ、「それ大将たるは万人に勝つ事を専らとす。敵の鉄炮かけ並べたる前へ出づる事、飛蛾の火に入るがごとし」といさめけれども、大学用ひざりしを、つひに鉄炮にあたり果てたり。扨また北条左衛門大夫家中に、相州甘縄の住人三好孫太郎といふ勇士あり。差物に挑灯を七つ付けたり。「孫太郎が七つ挑灯」といひて隠れなし。然る処に松田肥後守寄騎に山下民部左衛門尉あり。差物は六挑灯なり。天正十三年の秋、氏直と佐竹義宣下野国にて対陣の時、民部左衛門が六つ挑灯の差物を孫太郎見て、馬を乗りよせ、「その方差物に子細ありや」と問ふ。民部左衛門、「挑灯に何の子細あらん。我がこのみなり」といふ。孫太郎いはく、「武功をつまずして六つ挑灯さしがたし。天文十五年の比、上杉と氏康武州にて合戦の見切、某一番鑓のほまれありて、氏康よりほうびの感状あり。その節我一つ挑灯をさしたり。その後また忠ありて二つ、三度功ありて三つ、四度五度六度七度と忠勤をぬきんで、重々の功によつて七つ挑灯をさす。かるがゆゑに孫太郎が七挑灯と名付け、関八州に隠れなし」と。かくて馬上にて問答しつるが、その日のせり合ひいくさに、佐竹方に大石八郎と名乗り、釣鐘の差物をさし、諸人に先立ち、「われと思はん者あらば組んで勝負を決せよ」と長刀にて切りまはる。民部左衛門はせあはせ、馬より組んで落ち、民部大力なれば八郎を組み伏せ、首取りてその場にて気を転じ、挑灯を五つ引き切り捨て、一つ挑灯をさしたり。皆人これを見て、「民部左衛門が問答の時日をうつさず、ほまれをあらはし、一つ挑灯さす事、かへつて奇特なり。孫太郎が武勇にも劣るべからず」と各ほうびせり。その日の軍入り乱れ、首をとりつとられつ、半時戦ひしが、相引きして両陣そなへたり。北条方に岡部権太夫といふ者、猪の差物をさし、あまたの敵と戦ひ、首一つ取りて帰陣しつるが、差物を取り落としたり。敵にとられ無念にや思ひけん、首引提げ馬にむち打ちてまた敵陣へはせ向かふ。味方も不審し、「あれや」といふ。敵はこれを見て、「心がはりの侍か」と待つ所に、敵陣間近く馬をひかへ、大音あげていはく、「抑これは下総国の住人岡部権太夫、先陣のかけにおいて敵と馬上より組んで落首一つ取りたりしが、我が差物を取り落としたり。紋は猪なり。この首いまだ実検にあはせず。願はくば首と差物と取り替へて給はりたし」といふ。敵これを見て、「やさしき心ばせの侍かな」と、拾ひたる猪の差物を手に持ち、武者一騎乗り出し返さんといふ。権太夫いはく、「とてもの芳志に、それがし差筒へさしてたべ」とて、馬の口を引返し、後ろ向きて敵に差物をささせて首を敵に返し、味方の陣へしづしづと帰り入りぬ。敵も味方も、「あつはれ希代の剛の者かな」と感嘆せり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




