1-3 武蔵河越の生け捕り劇 〜 脳筋どもの手柄争いを、『知略』で華麗に裁く 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名前は北条早雲。……まあ、正確には今はもう隠居して、この世の成り行きを「特等席」から眺めている伝説の創業者だ。
俺が作った「合理主義」という名の体制は、息子の氏綱にもしっかり継承されている。俺の息子が、脳筋まみれの戦国乱世を、いかに「知略」で攻略しているか。その決定的な瞬間を見せてやろう。
舞台は天文六年(1537年)七月十五日、武蔵国・河越だ。登場人物は、名門の看板だけ立派な戦国武将、上杉 朝定。
親である俺が「時代遅れの連中」として切り崩した上杉の残党どもを、氏綱がさらに追い詰める。結果は火を見るより明らか。朝定は俺の息子の圧倒的な実力の前に敗北、滅亡を迎えた。
だが、この合戦の真の「見どころ」は、その後の戦利品……いや、捕虜の扱いを巡る裁判劇だった。
乱戦の中、一人の「希少雑魚」がいた。上杉修理大夫朝興の弟であり、朝定の叔父。名門の血筋MAXの上杉左近大夫 朝成だ。
朝成は郎党たちが討ち死にする隙に脱出を試みたが、運命からは逃れられなかった。ただ一騎で落ち延びる彼の背後に、俺の配下である相模の住人、平岩隼人正重吉が急加速をかけて追いついた。
「おいおい、そこの大将! 敵に背中を見せて逃げるのか? 引っ返して俺と勝負しろ!」
隼人正の名乗りに、朝成も逃げきれないと覚悟して駒を返す。
二人は馬上から組み合い、地面へ落下! 泥まみれのレスリングだ。最初は朝成が上になって隼人正を押し込んでいたが、そこは北条の精鋭。隼人正が気合でねじ伏せ、形勢逆転!
……と、そこで横から割り込んできた奴がいた。山岡豊前守だ。
豊前守は自分の郎党たちを引き連れて「おっ、いい獲物じゃん」と言わんばかりに横取りし、朝成を捕縛。そのまま氏綱の御前へ連れていった。
これにブチ切れたのが、泥だらけの隼人正だ。
「待てコラ! そいつを組み伏せたのは俺だ! 豊前守が後から来て奪い取ったんだぞ!」
軍功を巡る「相論」。手柄の二重請求だ。証拠不十分。どちらも「俺がやった」と言い張る。
普通の大名なら「うるせえ、折半だ!」とか「後から来た奴の方が捕らえてるんだからそっちが手柄だ」とか適当に裁くだろう。だが、俺の息子、氏綱は違う。
「面白い。まずは朝成を山角信濃守に預けろ。両者の言い分、馬と鎧の毛の色、すべて記録しておけ。……敵将の気色を見て、真実を暴き出すとしよう」
氏綱はニヤリと笑った。拷問ではなく、知略で攻略するつもりだ。
捕虜となった朝成は、名門の矜持を傷つけられ、心を閉ざしていた。氏綱はあえて「朝成は叔父殿なのだから丁重に扱え」と指示を出し、山角信濃守を派遣して、折に触れて雑談をさせた。
ある時、山角は鎌倉時代のレジェンド、源頼朝の奥州発向の話を切り出した。歴史好きの朝成が食いつく。
「頼朝が奥州で戦った話、古い記録にも詳しくないんだよ。どんな話なんだ?」
「……ある老士の物語を覚えていまして。お退屈しのぎに語りましょう」
山角が語り始めたのは、文治五年(1189年)の泰衡退治の際、捕虜となった勇士、由利八郎の逸話だった。
由利八郎もまた、宇佐美平次 実政と天野 則景という二人の武士から「俺が捕らえた」と手柄を争われた男だった。
時の権力者・頼朝は、あの有名な梶原景時を尋問に送った。
景時は由利八郎に対し、上から目線で聞いた。
「おい、お前は泰衡の郎従の中でも有名人だろ。どんな色の鎧の奴がお前を捕まえたんだ?」
すると、囚われの身であるはずの由利八郎がブチ切れたんだ。
「貴様は頼朝殿の家人か? その言い草は失礼の極みだ! 俺の主君は秀郷将軍の嫡流、三代にわたる鎮守府将軍の家柄だぞ。汝ごときと俺の力量、どれほどの差があると思っているんだ? 運が尽きて捕まったのは勇士の常だが、そんな失礼な質問に答える義務はない!」
景時は顔を真っ赤にして退散(笑)。頼朝公は「無礼を働いたから囚人に怒られたか。道理だ」と笑って、今度は人格者の畠山重忠に交代させた。重忠は、由利の前に座り、礼儀正しく語りかけた。
「武士たるもの、敵に捕らわれるのは古今東西よくあること。恥ではありません。あの頼朝公だって、かつては囚人となって配流された身。それでも最後は天下を取りました。あなたもいつか運が巡るでしょう。……さて、参考までに聞かせてください。何色の鎧を着た男が、あなたを真っ先に捕らえたのでしょうか?」
この敬意に、由利は心を開いた。
「……黒糸威の鎧を着て、鹿毛の馬に乗った男が、まず俺を馬から引き落とした。その後から追ってきた奴らの色は覚えていない」
この証言で、最初に仕掛けた宇佐美実政の手柄が確定し、不審が晴れた……。
山角の話が終わると、朝成は深く溜息をついた。
「……生け捕りの昔話を聞くにつけ、遺恨が止まらんな。語っても益はないが、俺の運命も尽きたものだ」
朝成は、名門としてのプライドを刺激され、自分を由利八郎のような「誇り高き勇士」に重ね合わせてしまったんだ。これが氏綱の狙った「心理トラップ」だ。
「あの時、落ち延びる俺に黒革威の鎧を着て、芦毛の馬に乗った武者が一騎で追ってきた。俺は駒を返して組み合った。奴は下から潜り込み、俺は上から押さえ込んだが……力負けして押し返され、下になった。そこに大勢が重なり合って捕らえられたのだ。……無念極まる!」
山角は心の中でガッツポーズをしただろうな。すぐに氏綱へ報告が上がった。
「朝成が言った鎧と馬の特徴は、平岩隼人正のものと完全に一致します。言葉も最初から最後までブレていません。……隼人正の功績、確定です」
氏綱は満足そうに頷き、検証を終えた。
「捕らえられた恥辱にまみれている敵将に、『誰に負けたんだ?』と直接聞いても、プライドが邪魔して答えられん。それを、昔の由利八郎の話を引き出して、自ら口を割らせるとは……。山角、貴様の智略、感じ入ったぞ」
氏綱は山角を大絶賛。名門の自尊心というステータスを逆手に取り、暴力を使わずに真実を抽出する。これこそが、俺が遺した「文武両道」の真髄だ。
脳筋たちは「武力」で国を奪おうとするが、俺たち北条は「知略」で国を支配する。朝成のような名門の生き残りは、結局のところ、自分たちが作り上げた「名誉」という虚像に縛られているんだ。
古い家系図を誇るだけのプレイヤーたちは、こうして俺たちの体制の肥やしになっていく。氏綱、よくやった。
手柄争いという組織の「内輪揉め」を、敵の心理を突いた「心理学」で解消する。
関東五代の覇権は、こうした細かな「最適化」の積み重ねによって築かれていくのだ。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
三 上杉朝成を生捕る事
聞きしはむかし。武州河越の館において、官領上杉五郎朝定と北条氏綱合戦は天文六年七月十五日なり。朝定 打負け、滅亡し給ひぬ。敵の軍兵敗北するその中に、上杉 左近大夫朝成の郎従あまた取り返し討死す。その隙に朝成、多くのかたきをのがれ給ひぬ。後ただ一騎になりて落行く所に、相模国の住人平岩隼人正重吉これを見て追ひかけ、「あはれ大将と見へたり。敵にうしろをあやなくも見せ給ふ物か。引返し勝負を決せよ」と名乗りかくる。朝成のがれがたく駒引返す。隼人正、馬上より組んで落ち、はじめは隼人正下になりしが、えいやとねぢ返し上になりたり。味方に山岡豊前守落合ひ、郎等あまた来たり、敵を生捕り、隼人正をば押しへだて奪ひ取りて、氏綱の御前へ参じたり。また隼人正来たりて、「この敵をばそれがし組み伏せ候処に、豊前守跡より来て奪ひ取り候」と、相論に及ぶ。氏綱、その者の申す言葉ならびに両人の馬・鎧の毛等をしるし置かれ、生捕をば山角信濃守に預けらる。かの両人相論、実否決しがたし。生捕にただ今尋ぬるといふとも、あへてもて答ふべからず。気色を見合せ尋ぬべしとて、しばらく預け置かる。かの左近大夫朝成は、上杉修理大夫朝興の弟、朝定の叔父なり。「いたはり候へ」と仰せ付けられたり。合戦の後、氏綱河越の城に入り給ひぬ。信濃守、朝成の居所へ参じ、折々昔を語りなぐさめぬ。頼朝公奥州へ発向の事を語る所に、朝成いはく、「頼朝、みちのくにて合戦の事、古記にもくはしくは見えず。いかなる文にしるし置きたるや」信濃守いはく、「ある老士の物語を聞き覚え候。語りて御つれづれをなぐさめ申すべし」とて語り出づ。頼朝公、奥州泰衡退治として文治五年七月十九日鎌倉を打立ち、八月十日あづかし山の合戦に討勝ち、秀衡が子どもことごとく誅伐し、所々の戦ひに勝ち、陣が岡に着御し給ふ。九月七日、宇佐美平次実政、泰衡が郎従由利八郎を生捕り相具して参上す。然るに天野右馬丞則景これを生捕りのよし相論す。二品行政に仰せ付けられ、両人の馬ならびに鎧の毛をしるし置かるるの後、梶原平三景時、由利に向かひていはく、「汝は泰衡が郎従の中に名ある者なり。何色の鎧着たる者の汝を生捕るや」由利答へていはく、「汝は兵衛佐殿の家人か。今の口状、過分の至り。たとへをとるに物なし。故御舘は秀郷将軍の嫡流の正統たり。以上三代鎮守府将軍の功をくむ。汝が主人、なほかくのごとき言葉をばつかふべからず。いはんや又汝と我と、力量いづれか勝劣あらんや。運尽きて囚人となるは勇士の常なり。問ふ所の事、さらに返答に及ばず」景時すこぶる面をあかめ、御前に参じ申す。頼朝公仰せにいはく、「無礼をあらはすによつて囚人これをとがむるか。尤道理なり。はやく畠山次郎重忠に召しとはすべし」重忠、手づから敷皮を取り、由利が前に持来り座せしめ、礼を正しうしていざなひていはく、「弓矢にたづさはる者、怨敵のためにとらはるるは、漢家本朝の通儀なり。かならず恥辱と称すべからず。中にも、古左典厩永暦に横死あり。二品もまた囚人となりて六波羅にむかはしめ給ひ、結句豆州に配流せられ給ふ。然れども佳運つゐにむなしかるべからず、天下を取り給ふ。貴客生捕りの名をかうむらしむといふとも、始終沈淪の恨を残すべからず。何色の鎧を着きたる者に生捕られ給ふぞや」由利いはく、「黒糸威の鎧を着き、鹿毛の馬に乗りたる者、まず我を取りて引落す。その後追ひ来る者は色目わかず」重忠帰参し、つぶさに披露す。件の鎧・馬は実政がなり。不審ひらけたり。信濃守かく語り終へていはく、「能き郎等をば持つべき事なり。かの由利八郎、頼朝公の言葉のあやまりをとがめ、至極の道理をもつて主人の名をあげ、生捕らるる身として勇士の誉をあらはし、末代に名をとどむ。希代の剛の者なり」朝成これを聞き、「生捕りの昔を聞くにつけても遺恨やむ事なし。語りて益なしとおもへども、我運命尽き、合戦に勝利を失ひ落行く所に、黒革威の鎧を着き、芦毛の馬に乗りたる武者一騎名乗りて追ひかくる。駒引返し、馬上にて組む。彼はさしくぐりて下手をとり、我は上手にありて馬上より落ちたり。されども物の数ともせず彼を組み伏せ、刀に手をかけしに、下よりえいやと押返し、朝成下になりぬ。その時あまた落合ひ、かさなりて生捕られ、恥辱をさらす事無念口惜しき」信濃守これを氏綱に言上す。氏綱聞召し、件の鎧・馬は平岩隼人正なり、申したる言葉始終変らずと御感ありて、検証を行はる。氏綱いはく、「彼ら生捕りたる手柄を朝成に尋ぬるとも、敵に組み伏せられ答へがたからんか。然るを、信濃守むかしの生捕りを語り出し、朝成をなだめたる智略感じ入る」とぞ仰せける。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




