1-2 関東天文の乱 〜「名門」という名のプレーヤーたちが、俺の知略に絶望するまで 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名は北条氏康。
世間じゃ「相模の獅子」なんて呼ばれているが、俺からすればこの世界は、古臭い「家柄」に固執した戦国武将たちが多すぎる、ただの乱世騒乱だ。
ある日、俺は一人の老兵を呼び出した。こいつは源氏や足利の歴史を異常なほど詳しく記憶している、いわば血統マニアだ。俺はあえて、世間で噂されている『関東天文の乱』の顛末について、こいつに問いかけてみた。
「おい、爺さん。関東のトップ「古河公方」だった足利晴氏が、「関東管領」の上杉憲政と組んで俺に挑み、そして無様に滅びた『関東天文の乱』について聞かせろ。足利晴氏とやらは、一体どれほどの血統だったんだ?」
老兵は居住まいを正し、淀みなく語り始めた。俺はその情報を脳内で「血統」へと変換していく。
「……いいですか、氏康様。源氏の末流は数あれど、「古河公方」足利晴氏公の血筋はまさに唯一無二。源頼朝公から守邦公に至る9代の『先代』、そして足利尊氏公から今の義輝公までの14代、これぞ「古河公方」足利晴氏公の正統なる歩みでございます」
老兵の話をまとめると、「古河公方」足利晴氏の血統はこうだ。足利尊氏(源氏の伝説。八幡太郎義家の三男・義国の末裔)の後、直系が続き、関東の王「鎌倉公方」となったのが足利満兼(勝光院)。その息子、悲劇の王・足利持氏(長春院)。
「鎌倉公方」足利持氏には4人の息子がいた。長男:賢王、次男:春王、三男:安王……そして、鍵となる四男・永寿王だ。
「鎌倉公方」足利持氏が自害した絶望的な状況で、永寿王は信濃へ逃げ延びた。ここで登場したのが、文武無双キャラ、長尾左衛門入道昌賢だ。昌賢はこの永寿王を担ぎ上げ、元服させて足利成氏(乾享院)として公方の座に復帰させた。これが「古河公方」の始まり。
足利成氏の息子が足利政氏、その嫡子が足利高基……そして、その長男こそが、俺に負けた足利晴氏というわけだ。
(フンッ、尊氏から10代、持氏から5代か……。確かに血筋だけは立派だな。だが、血筋だけの低レベル戦国武将に、俺が負けるはずがないだろ?)
「……さて、次は上杉だ」
俺は鼻で笑いながら、爺さんの言葉を促した。
「源氏の公方が『時代遅れの王』なら、その脇を固める上杉はさしずめ『時代遅れの藩屏』といったところか。あいつらのルーツを洗ってみろ。源平藤橘、どこの馬の骨だ?」
じいさんは恐縮しながらも、さらに古い記録の断片をめくった。
「はっ。上杉殿は藤原氏の出にございます。御先祖を遡れば、宗尊親王が鎌倉へ下向された際、その御供……いわば介錯として随行した勧修寺重房公に行き着きます」
(……ハッ、笑わせるな)
俺の脳内のステータス画面には、上杉の始祖が『皇族の付き添い人 』として登録された。
「なるほど。要するに、都から落ちてきた貴族の『荷物持ち』が始まりってわけか。それがどうやって、関東でデカい顔をするようになったんだ?」
「勧修寺重房公が丹波の国の上杉庄を拝領し、そこから『上杉』を名乗るようになりました。さらに、当時の足利頼氏公に娘を嫁がせ、足利家と強力なコネクションを作ったのです。足利尊氏公の親類として戦った上杉憲房公は、四条河原で討死するほどの武功を立てました」
俺は腕を組み、冷めた目で爺さんを見据えた。
「武功、ねえ…。要は足利という『勝ち馬』に上手く乗り換えただけだろう? その報酬として上野、伊豆、越後の3ヶ国を掠め取り、『関東管領』なんていう、公方の執事みたいな役職を世襲し始めた。そして、それが今の増長に繋がっているわけだ」
爺さんが語る系譜は、まさに「過去の栄光」の羅列だった。
上杉 憲顕:伊豆に国清寺を建てた「国清寺殿」。初代・関東管領。
上杉 憲方:山内に居を構えた「明月院殿」。この頃まではまだマシだった。
上杉 憲定、氏憲、憲基:代を重ねるごとに、ただ役職を回すだけの存在へ。
上杉 憲実:養子として越中から呼ばれた男。最後は「鎌倉公方」足利持氏に逆らい、出家して周防へ逃げた。
「……面白いな。名門と言えば聞こえはいいが、その実態は養子縁組と内紛の繰り返しか。暗殺された上杉憲忠にしてもそうだ。「古河公方」足利成氏に『親の仇 』として消される隙を見せる。それが『関東の重鎮』を自称する連中の正体か」
爺さんは冷汗を拭いながら頷いた。
「左様でございます。この上杉憲忠公の死をきっかけに、上杉家は一族の中で割れ、長尾などの家臣たちも巻き込んで、日夜、朝から晩まで合戦を繰り返す『戦国騒乱』へと突入したのです」
(やれやれ。関東管領失格だな。時代の下剋上の変化に気づかず、身内同士で殺し合いを続けている)
俺は立ち上がり、戦場となる関東の地図を指先でなぞった。
「…ハッ。爺さん、もういい。あいつらの輝かしい(?)家系図の話は腹いっぱいだ。血筋や役職なんてのは、ただの『飾り』だ。この関東という戦場において、本当に必要なのは、その場を支配する圧倒的な『実力』だけだ。上杉の連中に、その現実を教えてやる。」
俺は立ち上がり、窓の外に広がる小田原の城下町を見下ろした。規律正しく、朝早くから活気にあふれる街並み。これこそが、俺たちが積み上げてきた「結果」だ。
「いいか。俺たちは朝4時に起き、火の用心を怠らず、一歩ずつ『実績』を積み上げてきた。対して貴様らは、都の香りが染み付いた家系図を眺めて一日を終える。そんな非効率な連中に、この関東の運営を任せられるわけがないだろう?」
じいさんは震えながらも、俺の覇気に押されるように北条の快進撃を語り始めた。
俺の祖父、北条早雲は賢かった。両上杉(山内と扇谷)が「どっちの血筋が上か」なんていう不毛なレスバを繰り広げ、東西南北で算を乱して合戦しているのを見て、「これぞ天の与える所なり」と笑って伊豆を切り取った。
名門の自称・名門の戦国武将たちが、扇谷定正(病死)、山内顕定(高梨に討たれる)という無様な最後を遂げる中、俺の親父である二代目・北条氏綱は、さらに関東の体制を書き換えていった。
「親父殿は、扇谷の上杉 朝定を完膚なきまでに叩き潰し、武蔵と総州へ手をかけた。さらには、名門の看板だけは立派だった小弓の御所・足利義明父子をも滅ぼしたんだ」
ここで俺たちは、面白い一手を打った。名門の誇りを利用してやることにした。俺たちは、足利高基の息子である足利 晴氏をあえて傀儡に担ぎ上げた。俺の姉を嫁がせて「婿君」にし、古河の館に据え置いた。
「関東の王は足利だが、ガバナンスは北条がやる」という、最強の運営体制だ。
だが……。「血筋」という呪縛は、思わぬ事態を引き起こす。
「……そうです、氏康様。婿養子同然だったはずの古河公方・足利晴氏公が、あろうことか敵である山内の上杉 憲政と内通し、氏康様に牙を剥いたのです」
天文15年(1546年)。名門の意地を見せる上杉憲政と、裏切り者の公方・足利晴氏。彼らは大軍を率いて、我が北条の重要拠点である武蔵・河越城を包囲した。その数、数万。対する俺たちの援軍はわずか。誰もが「北条の終わりの始まり」だと思っただろう。
「……だが、俺の辞書に『敗北』の文字はない」
俺は全軍に出陣を命じた。狙うは、4月20日の深夜。
「爺さん、教えてやれ。あの夜、河越の館で何が起きたか」
「はっ……! 北条氏康様は夜闇に紛れて急襲を仕掛け、数で勝る連合軍を完膚なきまでに粉砕。公方・足利晴氏公も上杉憲政も、名門の誇りもろとも文字通り泥にまみれて逃げ出したのです。これより、関東公方の血統は絶え、上杉の家も実質的に滅亡……。これぞ『関東天文の乱』の真実にございます」
俺は満足げに頷いた。古い家系図を誇るだけのプレイヤーたちは退場した。これからは、俺たち北条がこの関東の「唯一の体制管理者」として、新たなルールを刻んでいく。
――古い伝統も、血筋も誇りも、俺が全て上書きしてやる。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
二 関東天文乱の事
見しは、昔老士ありしが、源家のいにしへをよく覚へて語る。予問ひていはく、関東の公方古河の晴氏公、上杉憲政と一味ありて、北条氏康と合戦し、晴氏公 打負け御滅亡は天文年中のよし云ひ伝へり。源家にはいづれの後胤にておはしまし候ぞ。老士答へて、そのかみより源家の末流あまたにわかれて分明しがたし。されどもあらかじめ聞き伝ふるに、頼朝公より守邦公に至る九代の間を先代と云ふ。足利治部大輔尊氏公以来このかた、義輝公まで十四代の間を御当家と申す。尊氏公は源家にても八幡太郎義家公の三男、式部大輔義国公の末孫なり。そのより相つづき、左兵衛佐満兼公、関東御遺跡、勝光院殿と申す。満兼公の御息、兵衛督持氏公、長春院殿これなり。一男賢王殿、次男春王殿、三男安王殿、四男永寿王殿。この永寿王殿は、持氏御生害の時節、信濃の国へ落ち給ふを大井殿扶助御申ありしを、長尾左衛門入道昌賢、文武に達し関八州に誉を得たる無双の者なり。この人永寿王殿を取立て、公方に仰ぎ奉り、天気をうかがひ四位少将成氏と成し、乾享院殿と申す。成氏公の一男、左馬頭政氏公。政氏の嫡子高基を熊野御堂殿と申す。高基公の長男晴氏公これなり。高氏公より十代、持氏公より五代、これを古河の公方と申す候。又問ひていはく、上杉殿の系図はいつの時代より始まり、源平藤橘いづれの氏にてわたり候ぞ。老士答へて、上杉殿は藤原氏なり。御先祖を尋ぬるに、宗尊親王一年、鎌倉へ御下向の時、御介錯として勧修寺重房公御供にて下向の時、丹州上杉庄を給はり、武家に下り修理大夫を左衛門督に任ぜらる。この重房、足利治部大輔頼氏を聟に取り給ひぬ。伊予守家時は上杉腹修理大夫殿の子孫なり。重房の嫡男掃部頭頼重、法名座高と申す。文武二道の誉ある人なり。頼重の嫡子兵庫頭憲房、法名道忻、道号雪渓と申す。丹州にては瑞光院殿と申す。尊氏公御親類たるにより御同心あり、四条河原の合戦にて討死し給ふ。その嫡男 民部大夫受領安房守憲顕、法名道昌、道号佳山と申す。この時代、上州・豆州・越後三ケ国を知行し給ふ。関東官領職のはじめなり。応安元年戊申九月、菩提所として伊豆の国に国清寺を立て給ふ。国清寺殿是なり。憲顕の嫡男。兵庫頭憲 将。憲将の舎弟兵部少輔能憲へ。官領職をわたし給ふ。敬堂道謹報恩寺殿是なり。其次 舎弟安房守憲方。康暦元年己未四月廿日官領職を給はりはじめて。山内にまします。応永元年甲戌十月甘四日六十 歳にて。逝去なり道号天椒法名道合。明月院殿是なり。其次憲方の嫡男安房守憲定。応永十二年八月十七日。官領職を給り同十九年 壬辰十二月十八日。三十八 歳にして死去。大全長基先照寺殿是也。其次 右衛門佐氏憲。三ケ年官領職たり。法名禅秀。其次安房守 憲基。応永二十三年五月十八日。官領職を給はり。同二十五年正月四日。三十四歳にして逝去す。法名心無悔宗徳院殿是也。其次安房守 憲実。是は越中の民部大輔房実の次男。憲基の養子なり。六 歳の時 関東へ越山あり。其後持氏公に逆心の人なり。子息三人あり。三男龍若丸をば伊豆の国。捨てをき徳丹清蔵主。両人を引つれ。上方へ行脚し。応仁元年 丁亥。周防の国にをいて。逝去し給ふ。高岳長棟庵主是なり。次に右京亮憲忠是は長棟の三男。享徳三年十二月廿七日。鎌倉の西御門にて。御生涯なり。大韶長釣興雲院殿是なり。然に西御門憲忠を誅し給ふ。根本と申は。持氏御生害の御時。成氏は。永寿丸にて。信濃へ落行給ふ。憲忠は。龍若丸にて。伊豆の国に有けるを。其比関東に主なくては有べからずと。入道昌賢。永寿丸殿を。取立御元服有て。主君にあふぎ奉り。同龍若丸憲忠をも引き出し。天下一 統にして。国家安泰也。者ていれば成氏公。先年 持氏公御生害の野心をさしはさみ。憲忠を誅せらる。此時又上杉相分けて。日夜朝暮合戦す。上杉の一家長尾一 類。調談し。綸旨と日月の御旗を申下し。其いきほひますによつて。成氏公。かなはずして。古河へ御馬を入給ふ。其後 政氏公関東の公方と号す。越州上杉 民部大輔顕定。かつは治国のため。かつは万民をやすんぜんがため。和睦なすによつて。関東一 統になる。夫それ武家の大系図は。神武より以来このかたを記し。和漢合運は。慶長十六歳までを記せる。明鏡也。扨又。鎌倉持氏公御滅亡より、関東乱国の次第、上杉家の事を私に記し置きたる古き小札どもを見るに、右の二文に相違多し。されども見聞集の題号に応じ記し侍る。その比、鎌倉 山内の顕定、扇谷の定正、この両上杉殿は関東諸侍の棟梁たり。然るに逆臣ありて主従分れ戦ひ、その上両上杉殿の中不和にして、東西南北に算を乱し合戦す。公方政氏公は修理大夫定正と一味し顕定と戦ひやむ事なし。その時節、駿州に伊勢新九郎氏茂といひて文武智謀の侍あり。後には北条早雲庵主と改名す。この人両上杉の戦ひを聞き及び、「是天のあたふる所」と喜び、延徳年中軍兵を率て馳せ来り、伊豆の国を切りて取り、明応の時節相模の国に打入り、戦ひやまざりしが、定正は病死、顕定は高梨に討たる。その後早雲子息氏綱時代に至り、上杉朝定をほろぼし、武州・総州へ手をかけ、関八州に猛威をふるふ。その節氏綱、高基公の一男晴氏公を取立て、公方に仰ぎ、婿君となして総州古河に仕付け申す。氏綱、下総の国小弓の御所義明公父子をほろぼす。氏綱子息氏康時代に、上杉憲政と戦ひやむ事なし。然る所に古河の晴氏公、憲政と一味ありて武州 河越の城を攻む。氏康武州へ出馬し、河越の館において天文十五年四月廿日合戦し、氏康討勝ち、ことごとくほろぼす。それより以来、関東公方絶えはて、上杉の家も滅亡す。天文乱といひ伝ふるはこれなりといへり。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




