1-1 北条早雲、伝説の始まり 〜 将軍の呪いを解くために召喚された男が、究極の内政を披露する 〜
『北条五代記』は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。出典:Wikipedia
俺の名前は伊勢新九郎。
世間じゃ「どこからか流れてきた正体不明の素浪人が、実力だけで国を盗った」なんて言われているが、ありゃ嘘だ。噂ってのは一日経てば十倍に膨らむもんらしいからな。
本当の俺?俺のルーツは山城国の宇治、あるいは大和の在原にある。先祖を辿れば、あの平家のレジェンド・平重盛から数えて15代目の末裔……つまり、平氏の華麗なる系譜だ。
で、俺の家、伊勢家がなぜこれほど重用されたのか。そこにはカルトな理由がある。
当時、京都の足利将軍家には深刻な悩みがあった。子供が生まれても、みんな十歳になる前に死んでしまう。まさに一族全滅の危機、呪われた血筋だ。
そんなある夜、公方が夢を見た。公方のご先祖様が現れてこう告げたらしい。
「お前らの先祖が平家を滅ぼした怨念が、呪いとなって子孫を殺している。天下に名高い平氏の生き残りを召喚し、家老として政治を任せろ。さすれば呪いは解けるだろう」
…嘘みたいな話だろ? だが、その「呪い避け」として白羽の矢が立ったのが、俺の家だ。「伊勢守に勝る平氏はいない」ということで、俺たちは将軍家の守護者として、特別なポジションを手に入れた。
こうして俺の家門は、名門の血筋と「将軍家の呪いを抑える」という特命を背負って、戦国動乱の世に放り出されることになった。
京都での日々も悪くはなかったが、俺の運命は東にある駿河へと向かって動き出す。きっかけは、俺の姉が駿河の大名・今川氏親のもとへ嫁いだことだった。俺は決めた。
「京都で腐っているより、東国で一旗揚げてやる」
だが、一人で無双するほど俺は無鉄砲じゃない。俺には、志を共にする最強の仲間たちがいた。
武勇の荒木兵庫守、軍師・多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉、俺を入れて合計7人。
俺たちは駿河の今川氏親を頼り、まずは「食客」として、その一歩を歩み始めた。
俺たちは、まず親戚の今川家の中で起きていた「お家騒動」や「反乱」を、持ち前の知略や武略で次々と鎮圧。実績を稼いでいった。
そんな時、隣国・伊豆で事件が発生する。伊豆の統治者が、讒言を信じて有能な家老を二人も切腹させてしまった。伊豆は大混乱。
「――これ、神が俺に『獲れ』って言ってるよね?」
チャンスを逃さないのが一流。俺たちは夜闇に乗じて川を渡り、伊豆へ電撃侵攻!驚いた敵軍は散り散りになり、地元の豪族たちもビビって次々と降伏。
結果。わずか30日で伊豆一国を完全制覇。こうして俺は「伊豆の早雲」として、その名を関東に轟かせることになった。
世間じゃ俺のことを「仁義を重んじ、民を慈しむ理想のリーダー」なんて褒めてくれる。おかげで、他国の民まで「新九郎様の国に住みたい!」なんて言って、俺の軍門に降ってくる。ありがたい話だが、俺からすれば当たり前のことをやっているだけだ。
国を盗るのは簡単だ。だが、国を「維持」するのは難しい。だから俺は、家臣たちや、これからこの厳しい乱世を生き抜こうとする若者たちのために、俺流の人生哲学を書き残すことにした。
名付けて、『早雲寺殿廿一ヶ条』。「心がけ一つで人生は変わる」……そんな俺の人生哲学を、一挙に公開してやろう。
いいか、よく聞け。これが俺の「勝ちパターン」だ。
第一条 まずは「信じる心」からだ。 神仏を敬う気持ちを忘れるな。
第二条 朝活は最強のスキルだ。 午前4時には起きろ。寝坊は周囲の信頼をすべて失うぞ。
第三条 「夜更かし」はリスクしかない。 午後8時には寝ろ。泥棒は深夜に来る。夜更かしで爆睡してて盗まれるなんてアホだ。
第四条 環境を整えろ。 洗顔の前に庭を掃除させろ。水は出しっぱなしにするな。大声でうがいをして人を不快にするな。
第五条 正直が一番。 素直に上の人を敬い、下の人を慈しめ。祈る暇があるなら、まずは自分の内面を見直せ。
第六条 ファッションは「清潔感」で選べ。 刀や服を他人と比較して背伸びするな。見苦しくなければ十分だ。借金してまで見栄を張るのはバカだ。
第七条 身だしなみはマナー。 髪を早く結え。ボサボサの頭で人の前に出るのは、自分を「油断しがちな人間です」と宣伝しているようなもんだ。
第八条 控え室でのマナー。 主君の前に出る前に、仲間の様子をよく見ろ。空気を読め。
第九条 レスポンスは「秒」で。 命令されたら即座に「ハイ!」と返事をしてから近づけ。自分のアレンジを加えず、ありのままを報告しろ。
第十条 噂話の輪に近づくな。 無駄話や作り笑いをしている連中のそばに居るな。そんなところにいるだけで、デキる奴からは見限られる。
第十一条 人任せにするな。 何事も他人に任せるのではなく、自分で把握しておくのが「事なかれ」への第一歩だ。
第十二条 スキマ時間は読書しろ。 ふところに本を入れておき、人目を盗んででも文字を見ろ。寝ても覚めても学ばなければ、知識はすぐに消える。
第十三条 ベテランを敬え。先輩の前を通るときは、腰を落として手をつき、敬意を示せ。足音を立てて通るなんて論外。
第十四条 絶対に嘘をつくな。 どんなに小さなことでも正直に言え。嘘は一度つけば癖になり、最後には誰からも相手にされなくなる。
第十五条 教養を学べ。 歌も詠めないのは、人としてどこか賤しい。言葉一つで自分の底が見える。
第十六条 空き時間にスキルを磨け。 仕事の合間には乗馬の稽古をしろ。基本をしっかり身につけるんだ。
第十七条 友達は選べ。勉強の友を求めろ。碁や将棋、笛、尺八の遊び友達は趣味としてはいいが、時間の無駄。
第十八条 メンテナンスを怠るな。 家に帰ったら、厩から裏まで見回り、垣根や「犬のくぐり道」まで塞げ。後のことを考えない下女に任せきりにするな。
第十九条 セキュリティは万全に。 夕方には門を閉めろ。人の出入りを自分で管理しないと、必ずトラブルが起きる。
第二十条 「火の用心」は管理者の義務だ。 台所や囲炉裏の火を、寝る前に自分で見回れ。家族や家臣に任せず、自分の手で確認する。これが命を守るということだ。
第廿一条 「文武両道」は常識。 文を左に、武を右にするのが北条のルールだ。両方備えていなければ、この世界では生き残れない。
この21箇条、俺が人生の酸いも甘いも噛み分けて導き出した答えだ。若い奴はこれをただの細かい説教だと思うかもしれない。だが俺はこのルーティンを守り続けたからこそ、伊豆を盗り、相模を制し関東の覇者、北条の礎を築くことができた。
俺の人生の終着駅は、相模の湯本に建てた「早雲寺」だ。永正16年(1519年)8月15日。俺がこの世を去るとき、法名は「早雲寺殿 天岳瑞公大居士」と名付けられた。この寺は、後に天皇からも認められ、関東第一の名寺と呼ばれるようになった。
だが、俺が一番望んでいたのは、豪華な建物が残ることじゃない。俺が遺したこの人生哲学が、一人でも多くの家臣や若者の心に残り、彼ら侍や民の人生を少しでも豊かにすることだ。
たとえ建物が壊れ、時が流れても。「早雲」という名前を聞いた誰かが、「よし、明日は朝4時に起きて、正直に生きてみよう」と思ってくれたなら、俺の戦国人生は完全勝利といえるだろう。
校訂 北条五代記 博文館編輯局(明治三十二年)
一 伊豆早雲平氏茂由来の事
聞きしはむかし。伊勢新九郎氏茂といふ侍、遠国より来たりて伊豆の国を切りて取るよし、言ひ伝ふといへども多説ありて、いづれ知りがたし。新九郎は京都より駿河へ下り、今川氏親をたのみ、牢人分にてありしが、武略の侍、舟にて渡海し伊豆の国を切りて取るよし、老人物語せり。この説おぼつかなし。さればわれ江戸にありて、近辺の町人の噂をけふ聞き、あくる日は事を問へば虚言のみ多し。いはんや江戸中の事をや。その上、年月を過ごし境をへだてたる事をば、言ひたきままに語るは世の常のならひ。聞く人誠と思ひ、筆にもしるし置きぬれば、後世の人これを治定とす。とにもかくにも空事多き世なり。さはありとてことさらに世の噂言はじにもあらず。右の新九郎、名を得たる達人なれば、古き文に一言づつあまたに事残したるを、愚老近年見出し、そのおもむきをあらかじめ記す者なり。新九郎、後には北条早雲宗瑞と改号す。住国は山城宇治の人なり。又一説には大和在原ともあり。この人の先祖を尋ぬるに、むかし伊勢の国に伊勢伊勢守平氏貞といふ侍あり。小松内大臣重盛公より十五代の後胤たり。国の名をあざなの上に置く事、侍の名誉といへり。その比、京都 公方様に御若君あまた出来給ふといへども、短命にして十にもたらず、皆 逝去し給ふ。これをなげき思しめす所に、御夢に、公方の御先祖、平家をことごとくほろぼし給ふ。その報ひに御息長命ならず。天下に由来ある平氏を召しよせ家老となし、政を取り行ひ給ふに至らば、御息長命たるべしと。夢さめ、御感悦ななめならず。天下に平氏の侍たれたれと尋ね選び給ふといへども、「伊勢守にしくはあらじ」と、伊勢守を召しのばせられ、家の子と定め、本人のままごと自由度、御子孫繁昌に栄へ給ふと云々。中古にもさるためしあり。鎌倉の葛西谷は北条時政の屋敷、代々北条家 居住とす。高時・時行没落以後、源尊氏公鎌倉におはしまして、御威光いみじかりき。然る所に御当家に様々の怪異出来す。是ただ事ならずとて占方に尋ね給へば、いにしへほろびし平家の亡魂ども恨みをなすよし申すによりて、高時が屋敷の後に宝戒寺といふ寺を建立し、多くの平家の亡霊をとふらひ、高時を徳崇権現と号し、この寺の鎮守に祝ひ給ひければ、さてこそさとりもしづまりぬ。さて伊勢守うしろ見の時節、駿河の国主今川五郎氏親、京都へ上り公方へ御礼申し、下国に至り、伊勢守殿の息女を申し請け、我妻となして伴ひ駿河へ下り給ひぬ。然るに伊勢守殿 子息、駿河守照康と名付く。照康の嫡男太郎貞次、次男新九郎氏茂と号し、二人の子息あり。いづれも京都の公方様へつかへり。然るに御所様いつよりか例ならずおはしまして、つゐには世を早く御他界なり。その後、新九郎は関東へ下向の思慮をめぐらす。今川氏親は新九郎がためにをばの夫なれば、新九郎駿河を志し下る処に、朋友このよしを聞き、同道せんと、荒木兵庫守、為権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉、伊勢新九郎と共に七人言ひ合ひ、東国へ下向し駿河の国に着きたり。今川氏親と新九郎 縁者たる故、駿河にとどまる。義元親父の時代なり。その時分、今川家中に謀反の侍多くありしを、早雲武略をもつてことごとく退治す。七人の中にも早雲、文武智謀の人なる故に、今川の縁者となる。これによつて諸侍早雲を尊敬す。残る六人も後は早雲の家老となる。早雲は伊豆と駿河のさかひ、高国寺に在城あり。その比、両上杉と云ひて、上州・相州に居城ありて、関東諸侍の棟梁たり。然るに両人の中に不和出来し、たたかひあり。扨また堀越の御所と号し、伊豆の国 北条にまします外山豊前守、秋山蔵人と云ひて二人の家老あり。侫人の讒によりて、この両臣を切腹せしめ給ふ。この義につきて伊豆の国さはぎ、諸人の心しづかならず。早雲、駿河高国寺にありてこの由を聞き、「是天のあたふる所なり」と、延徳年中に人数をもよほし、夜中に黄瀬川を取越し、北条にみだれ入る。御所は思ひの外とおどろき、はるかに落行き、大森山へ逃げ入り給ひぬ。早雲は北条に旗を立て、近辺の民屋を放火し猛威をふるひければ、このいきほひにおそれ、三津の松下三郎左衛門尉、江梨の鈴木兵庫助(すゞきひやうごのすけ)、大見の三人衆と号し、梅原木工右衛門、佐藤四郎兵衛、上村玄蕃これらの者、在々所々にありて名を得たる侍ども、いそぎ馳せ来たりて早雲幕下に付く。時日をうつさず御所をほろぼさんと、大森山へ攻めのぼり、御所は山を下り、会下寺に入りて切腹し給ひぬ。この威勢におそれ、土肥の富長三郎左衛門尉、田子の山本太郎左衛門尉、雲見の高橋将監、妻良の村田市之助などいふ侍ども、ことごとく来たりて降人となる。伊豆一国は三十日の中に相違なくおさめられたり。これによつて右の侍ども、氏直の時代までその在所を知行し居住す。然るに新九郎、北条と名乗る事、北条のゆかりありて系図をわたすともいひ、三島大明神の霊夢の告げともいふ。扨また早雲とは子細ありて、若年より名付くといへり。明応の比、相模をおさめて後も伊豆 韮山に在城のゆゑ、「伊豆の早雲」とあまねく言ひ伝へり。仁義もつぱらとし、ひとへに民をあはれみ給ふゆゑ、人の国までも思ひ伏くせずといふ事なし。むかし関東において、早雲寺殿「をしへの状」と号し小札あり。心おろかなる者はこれを読みならひたりし。その文にいはく――。
早雲寺殿廿一ケ条
一、第一仏神を信じ申すべき事。
一、朝はいかにも早く起くべし。遅く起きぬれば召しつかふ者まで由断し、つかはれず、公私の用を欠くなり。はたしては必ず主君に見かぎられ申すべしと、深くつつしむべし。
一、夕には五ツ以前に寝しづまるべし。夜盗は必ず子丑の刻に忍び入る者なり。宵に無用の長雑談、子丑に寝入り、家財を取られ損耗す。外聞然るべからず。宵にいたづらに焼きすつる薪灯を取りおき、寅の刻に起き、行水拝みし、身の形儀をととのへ、その日の用所を妻子家来の者共に申し付け、さて六ツ以前に出仕申すべし。古語には「子に臥し、寅に起きよ」と候へども、それは人により候。すべて寅に起きて得分あるべし。辰巳の刻まで臥しては、主君の出仕奉公もならず、又自分の用所をも欠く。何の謂ひかあらん。日果むなしかるべし。
一、手水をつかはぬさきに、厠より厩、庭、門外まで見廻り、先づ掃除すべき所を似合ひの者に言ひ付け、手水を早くつかふべし。水は有物なればとて多くうがひし捨つべからず。家の内なればとて高く声こはばらひする事も、人にはばからぬ体にて聞きにくし。ひそかにつかふべし。「天に跼まり、地に蹐す」と云ふ事あり。
一、拝みをする事、身のをこなひなり。ただ心を直ぐにやはらかに持ち、正直憲法にして、上たるをばうやまひ、下たるをばあはれみ、有をばあるとし、無きをばなきとし、ありのままなる心持、仏意冥慮にもかなふと見えたり。たとひ祈らずとも、この心持あらば神明の加護これあるべし。祈るとも心まがらば天道にはなされ申さんとつつしむべし。
一、刀衣裳、人のごとく結構にあるべしと思ふべからず。見ぐるしくなくばと心得て、なき物を借り求め、無力かさなりなば、他人のあざけりとなるべし。
一、出仕の時は申すに及ばず、或ひは少き煩ひ、所用ありて今日は宿所にあるべしと思ふとも、髪をば早く結ふべし。はふけたる体にて人々に見ゆる事、慮外またつたなき心なり。我身に由断がちなれば召仕ふ者までも、そのふるまひほどに嗜むべし。同たけの人の尋ね来るにも、とくつきまはりて見ぐるしき事なり。
一、出仕の時、御前へ参るべからず。御次に伺候して、諸傍輩の体を見つくろひ、さて御とをりへ罷出づべし。左様になくば、むなづく事あるべきなり。
一、仰せ出ださるる事あらば、遠くに伺候し申したりとも、まづ早く「あつ」と御返事を申し、やがて御前へ参り、御そばへはひより、いかにも謹んで承るべし。さて急ぎ罷出で御用を申し調へ、御返事は有のままに申し上ぐべし。私の宏才を申すべからず。ただし事により、この御返事は何と申さんと、口味ある人の内義を請けて申し上ぐべし。我とする事なかれといふ事なり。
一、御とをりにて物語などする人のあたりに居るべからず。傍らへよるべし。いはんや我身雑談虚笑などしては、上々の事は申すに及ばず、傍輩にも心ある人には見限らるべく候なり。
一、数多まじはりて事なかれと云ふ事あり。なにごとも人にまかすべきなり。
一、少しの隙あらば、物の本文字のある物を懐に入れ、つねに人目を忍び見べし。寝ても覚めても、手なれざれば文字忘るるなり。書く事また同事。
一、宿老の方々、御縁に伺候の時、腰を少々折りて手をつき通るべし。はばからぬ体にてあたりを踏みならし通る事、もってのほかの慮外なり。諸侍いづれにも慇懃にいたすべきなり。
一、上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず。かりそめにも有のままたるべし。空言云ひつけばくせとなりてせせらるるなり。人にやがて見かぎらるべし。人に糺され申しては一期の恥と心得べきなり。
一、歌道なき人は無手に賤しき事なり。学ぶべし。常の出言につつしみあるべし。一言にても人の胸中知らるる者なり。
一、奉公のすきには馬を乗りならふべし。下地を達者に乗りならひて、用のたづな以下は稽古すべきなり。
一、よき友を求むべきは手習学文の友なり。悪友をのぞくべきは碁・将棊・笛・尺八の友なり。これらは知らずとも恥にはならず、習ひても悪事にはならず。ただしいたづらに光陰を送らんよりはと也。人の善悪は皆友によるといふ事なり。「三人行けば必ず我が師あり」。その善き者をえらびてこれにしたがひ、そのよからざる者をばこれを改むべし。
一、すきありて宿に帰らば、厩面より裏へまはり、四壁・垣根・犬のくぐり所をふさぎ揃へさすべし。下女つたなきは軒を抜きて焼き当座の事をあがなひ、後の事を知らず。万事かくのごとくあるべきと深く心得べし。
一、夕には六ツ時に門をはたと立て、人の出入によりあけさすべし。左様になくしては未断にありて、必ず悪事 出来すべきなり。
一、夕には台所・中居の火の廻り、我と見まはりかたく申し付け、その外 類火の用心をくせになして毎夜申し付くべし。女房は高きも賤しきも左様の心持なく、家財衣裳を取ちらし由断多き事なり。人を召仕ひ候とも、万事を人にばかり申し付くべきと思はず、ばかり我と手づからして様体を知り、後には人にさするもよきと心得べきなり。
一、文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず。文を左にし、武を右にするは古の法、兼ねて備へずんばあるべからず。
右の文を愚老見なれし事なれば、すなはちここに記し侍る者なり。さて相模湯本に早雲 菩提寺を立て置き給ふ。これを金湯山早雲寺と号す。早雲は永正十六年己卯八月十五日に逝去なり。法名は早雲寺殿 天岳瑞公大居士と名付く。この寺 霊験あらたなるが故に綸旨を下され、勅願寺と号し、関東第一の名寺なり。上下万民に至るまで偈仰のかうべをかたぶけずと云ふ事なし。勅書にいはく――当寺、勅願浄刹と為し、仏法の紹隆を致し、よろしく皇家の再興を祈り奉るべき者なり。天気かくのごとし。仍つて執達件のごとし。天文十一年六月廿四日 左大弁早雲寺大隆禅師禅室と為す。かくのごとき霊寺なりといへども、末代に至り破却し、なきがごとし。皆これ昔語となり、今は早雲の寺号ばかりぞ残りける。
〜参考文献〜
北条五代記(博文館編輯局校訂) - Wikisource
https://share.google/FGo71GTKh9plFa7d0
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、原文の体裁を、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の迫力や雰囲気を感じてもらえたらと思います。この原文併記という形式は教科書はまだしも小説ではあまり見ない試みです。もし面白い試みだなと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければ率直なご意見として謹んで承りたいと思います。




