招かれざる客 後編
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夕暮れ時の北部団地商店街
夕飯の材料を求める主婦などで賑わい、学校から帰宅中の小学生たちはガチャポンの前で葛藤し、
家路を急ぐサラリーマンには、焼き鳥屋の香ばしい煙が鼻腔をくすぐり、
立ち飲み屋が景気の良い声を張り上げ、悪魔の誘惑を仕掛けている。
その一角、雑踏を掻き分けて、土岐玲一が住宅街の路地へと向かって行く。
右手で抱えているのは、茶色い紙袋。どうやら、古くから玲一が利用していた惣菜屋さんで、
玲一とこよみの好みである、メンチカツとコロッケを購入して、家路にとついたようだ。
顔と視線は前を真っ直ぐ見据え、心なしかご機嫌な様子の玲一。
最近まで、うつむき、背中を丸め、商店街の通路に敷かれたタイルを、一つ一つ睨んで歩いていた頃と、
同一人物だと言っても誰が信じよう。
それほどまでに、玲一は変わっていた。
もちろん、そういう変化の要素があったからこそ、彼は変われたのだが、社会に背を向け、彼と妹にまつわる大人たちの都合を忌み嫌い、
自分の人生よりも、妹の幸せを優先し、寡黙に働き続けていた彼と、瞳を爛々と輝かせながら、肩で風を斬りながら歩く彼。
どちらが本当の土岐玲一なのかは、まだ本人にも結論は出ていないはずである。
とにかく今日は、いや、とにかく今は、クラリッタと加納…初めて出来た友人二人と、携帯の番号を交換した事が。
そして今朝、玲一とこよみの身の回りの世話をしてくれている、藤間紫乃に対して、今までの冷たい態度を詫びて、それが受け入れられた事が、
新緑の香りを乗せた4月の冷たい風に、彼を颯爽と立ち向かわせていた。
玲一とこよみの住む高槻邸は、北部団地の中心にある、私立青嵐学園から北北東側に建つ、鬼門の要であり、
北部団地の北側にそびえる、霊山「三登山」の麓に存在する。
団地の外縁に位置するので、学園から徒歩で進むと五十分ほどかかり、揚げたてのメンチカツが冷めないようにと、玲一の足は必然的に早足になって行った。
その高槻邸
正門から入ると、大きな玄関を通じて、長い長い廊下をひたすら歩き、食堂や居間など、兄妹の居住空間まで移動せねばならず、
玲一などは面倒臭がって、勝手口…裏口から出入りしていた。
それが今回、玲一が異変を感じるタイミングを逃してしまった一因にもなるのだが、
この時点で何の特殊能力もスキルも持ち合わせていない玲一が、
早々と異変に気付いたからと言って、最早状況が好転する事は皆無であったのも確か。
何も知らずに、高槻邸の北側にある裏口を潜り抜け、厨房にある勝手口の扉を開ける。
「ただいま帰りました」
もし、家で待っている人が、妹のこよみだけならば、わざわざ敬語など使わない。
だが、今朝、藤間紫乃に今までの冷たい態度を謝罪した玲一は、その気持ちを素直に受け止めてくれ、理解してくれた紫乃に対し、別段意識せずとも、口から出て来た言葉である。
「おかえりなさいませ、玲一様」
「おかえり、お兄ちゃん♩」
「ただいまこよみ。紫乃さん、朝約束したじゃないですか、俺の事は【様】で呼ばないって。俺もあなたの事、紫乃様って呼んじゃいますよ」
ゴロゴロと、「可愛いがってねモード」の猫の様に、笑顔で近づいて来たこよみの頭をなでながら、
夕食の支度を始めている紫乃に向かって、苦笑混じりに答える。
玲一の爽やかな皮肉と、落ち着いた態度も相まって、まるで歳上の男性に、からからかわれているかの様相の中、紫乃は顔を紅潮させながら、小さな声ですみませんと呟く。
それは、恥辱にまみれた謝罪ではなく、凛々しく自分を見つめて来る玲一に対し、乙女を揺さぶられた紫乃がとれる、精一杯の対応だったとも言える。
「あっ、お兄ちゃん、お客さん待ってるよ」
意表を突いた、紫乃の艶っぽい表情にドギマギしつつ、台所のテーブルに茶色い紙袋を置き、紫乃にこのメンチカツの説明をしようとした矢先、
ハッとした顔で、紫乃とこよみが玲一に来客があった事を告げる。
こよみも紫乃も、記憶に無い、知らない人らしいが、玲一の友人を名乗り、訪ねて来たのだそうだ。
「俺の友人って…一体誰だよ」
妹や紫乃以上に、戸惑う玲一。
当たり前の話、今までの玲一の人生において、友人など今まで一切いなかったし、
これから友人になるかどうか、それはわからないが、何かのシンパシーを他人に感じたのは、今日初めて。
ズバリそのもの。クラリッタと加納だけである。
首を傾げながら、はて、誰だろう?と、厨房から廊下へと出て、応接間へと向かう。
長い長い、古びた廊下をギシギシと鳴らし、応接間に向かって行く玲一。
クラリッタではなく、加納でもなければ、バイト先で知りあった人かな?
いや、でも、従業員やお客さんと知り合いになった事はあっても、
自宅を行き来する間柄になった事は無いし、そもそも高槻邸に移り住んだ事は、誰にも話していない…
あやふやなまま、応接間にたどり着いた玲一は、お待たせしましたと、ドアを開けながら挨拶した。
和風な作りの高槻邸の中で唯一、洋風な板の間と調度品に囲まれた応接間。
入り口側に背を向け、古びたソファに座っていた人物が、玲一の挨拶とともにゆっくりと立ち上がり、顔を向けた。
「…おっ、お前はっ…!?」
その姿を見て絶句した
一気に血の気が下がり、電気の様に戦慄が走った
腰が抜けそうになり、嫌な汗が噴き出した
意表を突かれた事を悔しいと思う暇も無く、恐怖が、絶対的な恐怖が身を包んだ。
来訪者を見た途端、瞬時に身体の機能全てがネガティヴ状況に陥る。
そして、玲一の脳裏に驚愕を共なった、大量の疑問が、溢れ出した。
あれは…いや、目の前にいるコイツは、昨晩ウシュカの前に、俺とクラリッタを案内した、ウシュカの部下じゃないか!?つまり、吸血鬼!
何故!何故!?今、俺の目の前にいる!
何故、高槻の門をくぐり、応接間で俺を待つ!?
何故、何で、まだ完全に太陽は西に沈んでいないのに、
消滅もせずに、笑顔で俺を見つめている!?
玲一は完全に、パニックに陥っていた。
昨日の夜に遭遇したばかりの吸血鬼が、それも、連中の目的はクラリッタであったはずなのに、
脇役と言うか、たまたまその場に居合わせていた自分を、狙って来訪して来るとは…
「土岐玲一様、突然の来訪、心よりお詫び申し上げます。私はウシュカ様の従者にて、名はミハイロビッチと申します」
まるで、敵意など微塵も持っていないと言わんばかりに、友好的な笑みをのぞかせつつ、ゆったりと、優雅に挨拶するミハイロビッチ。
だが、玲一も馬鹿ではない。ミハイロビッチのその笑みが、何に裏付けされた自信から来るのか、
改めて戦慄を覚えつつ、それを把握したのだ。
(…家に上がりやがった…)
そう
昨晩、ネットで仕入れた情報ではあるのだが、【吸血鬼は家主に招かれない限り家に入れない】そう言う情報を目にした。
つまり、吸血鬼から身を守るには、自宅に閉じこもる事こそが最良の方法であり、吸血鬼が家に上がりこむ事で、その土地、その空間を穢さない限り、
その家は聖域…「サンクチュアリ」として、家人を絶対的に守るのである。
その為には、門の外にいる吸血鬼が、あの手この手で家に入れてくれと懇願しても、絶対に許可しない事が重要であり、
ひとたび吸血鬼を家に招き入れてしまえば、もう人間にとって逃げる場所はなく、家は単なる、闇の力に穢されたダンジョンと化してしまうのである。
玲一は悟った。
こよみか紫乃かは判らないが、この吸血鬼は高槻の家に招き入れられ、この家が玲一たちを守ってくれる事は、今後一切無い。
主導権は、ウシュカの従者ミハイロビッチが握っている。
玲一が単独で逃げ出したところで、事態は一切好転しない。
むしろ、実質的に土岐こよみと、藤間紫乃が人質になってしまった以上、逃げ出す訳にはいかない。
この、圧倒的不利な状況下で、玲一の瞳に力が宿った。
驚愕と脅えの色に支配されていた表情がガラリと変わり、
生き残る為の確固たる意志に彩られた、殺意と抵抗の力が宿る、猛々しい顔になる。
彼女たちに迷惑はかけられない。彼女たちの安全を、最優先に考えるなら、目の前のこの、吸血鬼と対決するしか方法は無い。
こよみの為にも、紫乃さんの為にも…逃げる訳にはいかない!
動揺を悟った相手が、調子に乗って来ない様に、すうっと、肩の力を抜き、極めて自然体でミハイロビッチと相対する。
「俺に何の用事だ?」
「いやあ、この街は素晴らしいですねえ。我々ヴァンパイアでも、数時間くらいなら、太陽の光を浴びていられる。
列島大震災の後、地脈からアストラルパワーが溢れているとは聞きましたが、まさかこれほどとは、思っていませんでしたよ」
「話をそらすな!どうせクラリッタを釣る餌として、俺に目を付けたんだろ」
玲一の叫びを聞き流しながら、ミハイロビッチは笑みを浮かべる。
友好的な笑みではなく、何か後ろ暗い、毒のこもった笑みだ。
「ウシュカ様が、土岐様にお会いしたいと申しております。よろしければ、外に車を待たせているので」
深々と、うやうやしくお辞儀をするミハイロビッチ
クラリッタが目的ではないのか?と、いささか不審に思いつつも、選択肢の無い事を自覚している玲一は、何かを覚悟した。
ここを離れれば、こよみと紫乃さんだけは逃走の時間が稼げる。
あの二人だけは、あの二人だけは逃がさないと…
「逃げも隠れも出来ない事は知ってる。だから先に、車で待っていてくれ。水道工事屋がこれから来るから、妹に対応しろと言って来る」
それが本当の事なのか、それとも方便なのかはさておき、ミハイロビッチは承知しましたと一礼し、玄関へと向かって行く。
その姿を確認した玲一は、踵を返し、血相を変えながら、食堂へと向かってダッシュ。
盛大な音を立てながら食堂の扉を開け、驚いてキョトンとするこよみと紫乃に怒鳴った。
「こよみ!紫乃さん!逃げろ、今すぐにだっ!」
いきなり怒鳴る、そしていきなり逃げろと言われたこよみと紫乃は、まるで話が飲み込めておらず、完全に硬直しきってしまった。
「隣の藤間家に避難するんだ。そして、高槻家に吸血鬼が上がり込んだと言って、橙子さんに助けを求めろ!
良いか!藤間家にいる間も、もし誰かやって来ても、絶対に家に上げるな。橙子さんの指示に従え!」
こんな形相の、いや、こんな凶相の玲一を見るのは初めて。
こよみは何が起きたのかすら理解出来ないまま、足をガクガクと揺らし、今にも泣き出しそうに、肩を揺らしている。
一方の紫乃は、どうやら来訪者が「招かれざる客」であった事を理解したのか、慌ててガスコンロの火を止めて、こよみの元に駆け付け、
彼女の両肩をがっちりをつかみ、「玲一様の指示です。さあこよみちゃん、私の家に行きましょ」と、強引に背中を押し始めた。
だが、紫乃の目は泳いでいる。こよみを勝手口へといざないながらも、目は玲一を見据えており、
玲一様は、あなたは一体どうするおつもりで!?と、訴えかけている。
それを察したのか、玲一は「俺は大丈夫だから」と、優しく一言残し、
勝手口にある自分の靴を取り、いよいよ半ベソをかきはじめたこよみの頭を撫で、再び踵を返す。
ミハイロビッチの後を追う様に、玄関に向かい消えて行った。
自信満々に、盛大な嘘をついてしまったなと、廊下を歩く玲一は独り苦笑する。
この状況下での苦笑…
大丈夫とは言ったが、全然大丈夫ではないし、必ず帰って来れる保証も無い。
だがあの瞬間、その言葉は自然と、玲一の口から出て来た。
それが、今の時点になってもまだ、このおそるべき事態を、「それでも何とかなるんじゃ?」と、甘く考えている事への表れなのか。
それとも、こよみと紫乃を、逃がす事が出来た…。それが彼の満足感に繋がっていたのか。
いずれにしても、苦笑が出るあたりは、己のパニックを慎み、俯瞰で冷静に、自分を見詰め始めている現れでもある。
「最後は必ず正義が勝つ…21世紀になってもな」
生活に追われ、趣味らしい趣味を一切持っていなかった玲一。
唯一の楽しみは、週末の深夜に放送されるB級映画を、こよみと肩を並べて、あくびをかみ殺しながら見る事だった。
……80年代のSF映画、「メガフォース」のラストに、エース隊長が言っていたな……
そのセリフをもじって、小さな声でつぶやいた玲一。
玄関の外へと出ると、黒塗りの車の後部ドアを開けたまま、横に立つミハイロビッチが怪しい笑みをこぼしていた。
一方、高槻邸の隣に塀を合わせる藤間家では、騒然とした空気が漂っている。
仕事が早く終わり、早々と帰宅した学年主任の橙子。
面倒臭そうにチンタラと服を脱ぎ、とてもじゃないが人前に出れなさそうな柄のジャージに着替えて、
とにもかくにも先ずは…と、冷蔵庫から出したビール缶を開け、そのままグイッと、喉に流し込もうとした矢先。
けたたましい音を立てながら、妹の紫乃がこよみを連れて、飛び込んで来たのだ。
今日一日頑張った、自分へのご褒美の瞬間を台無しにされた彼女が、不機嫌な顔付きで、何事かと紫乃に詰め寄ると、思い詰めた紫乃の口から、驚愕の事実がもたらされた。
高槻邸に吸血鬼が訪ねて来た事、吸血鬼を招き入れてしまった事。
そして玲一が吸血鬼に対応し、こよみと紫乃を逃した事。
さらには、玲一が橙子に助けを求めろと指示した事も。
確かに、吸血鬼が「高槻」の家に乗り込んで来た事は、由々しき事態ではある。
何故、穢れた闇の住人を、由緒ある高槻の地に招いたのか、魅了…チャームの呪法に負けたのかと、紫乃を責めたい気持ちも確かにあった。
だが、橙子にはそれ以上の驚きがあり、それが結局、紫乃への怒りをかき消したのだ。
【玲一が、橙子に助けを求めろと指示した】
玲一の母、土岐花苗が亡くなり、いよいよもって高槻との縁が薄くなった頃から、
高槻の窓口役であった藤間を、その任をまかされていた橙子を、玲一は怒り、憎んでいたはずである。
それだけの事をしてきたと、橙子にも自覚はある。
幼い頃の蜜月は過去のものとしても、彼にとって今の橙子は、災厄そのものと言って良い。
「忌まわしき存在」それが、土岐玲一が認識する藤間橙子の代名詞だと、橙子自らが、それを認めていたのだ。
だがそんな彼が、玲一が、橙子を頼れと言ってくれた…
それが、橙子にとって、どれだけ衝撃的であったのかは定かではない。
しかしその話を聞いて、今にも泣き出しそうな顔をしたと思いきや、まるで般若の様な形相になり、
紫乃とことみに絶対に家から出るなと叫びながら、裸足で高槻邸へと駆け出したあたり、
口にはしないが、彼女にとって、いかに土岐玲一が大切な存在なのかは一目瞭然であった。
もぬけの殻となっていた高槻邸
応接間や玄関でも、争った様な形跡は無く、いよいよ、玲一はこの場で襲われたのではなく、拉致された可能性を、橙子は結論付けた。
「軽々しく不戦の協定を破るあたり…八百万組合に属する妖魔ではないな。
だが、玲一を連れ去るとは良い度胸だ…。吸血鬼風情が、五体満足でこの街から出られると思うなよ…!」
橙子の怒りはついに、頂点に達したのか、怒髪天の形相のもと、口元には残酷な笑みを浮かべ始めた。
右手に握り締めていた携帯電話。ズンズンと藤間家に向かいながら、おもむろに電話帳を開け、検索を始める。
【和田則正】
この名前をヒットさせると即、橙子は通話ボタンを押す。
和田則正とは、戸隠流忍術を利用した護身術道場を開催している青年で、加納の師匠である。
「あっ、則正君…久しぶり。久しぶりなのにごめん、緊急でお願いしたい事があるの…」
この間、橙子は自宅に向かっている。
レディースが着ていそうな派手なジャージ姿で、裸足のままペタペタと歩く姿は、高槻を古くから支えて来た、藤間家の長女とは思えない姿。
「玲一が吸血鬼にさらわれたの。どうやら、未登録の吸血鬼が、この街にいる…。奪還部隊は別に用意するから、大至急、情報を集めて欲しいの…」
自宅へとたどり着いた橙子。
どうやら則正との通話を終え、再び携帯電話の電話帳で誰かを探している。
そして、裸足で外に出たくせに、足を拭く事もなくズカズカと室内へと上がり、こよみと紫乃の無事を確認する。
こよみは顔面蒼白のまま、ペチャリと客間の床に腰を下ろし、まるで抜け殻。
お兄ちゃん…お兄ちゃん…と、呪文の様につぶやき続け、瞳の焦点も合わないまま、床を見つめている。
紫乃は二階の自室に行ったのか、姿は見えない。
だが、橙子が【大豆島水澄】の名前を表示させ、通話ボタンを押した瞬間、どたどたと階段を降りて来る紫乃の姿が。
おっとりとした性格の紫乃が、巫女服に着替えて、右手左手に大量の護符を掴みながら、血相を変えている。
「私のせいで…!」「私が家に上げたから…!」と、紫乃は完全に我を忘れて、そのまま玲一を探しに、外へ出て行きそうな勢いだ。
連絡先にある、目当ての人物…、水澄がまだ電話の向こうに出てくれていないのか、
携帯の発信音を耳にしながら橙子は、紫乃の肩をグイッと掴む。
そして紫乃の振り返り際を狙い、思いっ切り振りかぶった、平手打ちをかました。
パァンッ!
乾いた炸裂音が廊下に響き、紫乃の無秩序な動きは、一瞬にして止まる。
「浮き足立つな、紫乃!お前一人慌てたところで何が出来る!それよりもまず、高槻家当主のこよみを守る事に専念せんか!それがお前の成すべき道だろ!」
橙子の一喝で紫乃は我に返る。
だが、玲一に対する思い入れが過分にあるのか、それでもと…潤んだ瞳で無言のまま、姉に訴えかけている。
私に任せろ、玲一は必ず連れ戻す。そう言いながら、紅くなった紫乃の頬を撫でる橙子。
すると、やっと発信中のままだった携帯電話に、相手の反応が現れる。
(……ごめんごめん、携帯置いたまま食事に行ってたよ……)
「久しぶり、水澄。いきなりのお願いだけど、是が非でも聞いて貰いたいの」
落ち着いた紫乃の背中をポンポンと、軽く叩きながら、こよみに指を差して、紫乃にケアする事を促す。
ジェスチャーだけだったが、紫乃は素早く察して、こよみの元へと向かい、彼女を勇気づけ始めた。
「積もる話はまた後にして、水澄…第13普通科連隊を出して貰えない?」
大豆島水澄と藤間橙子は、旧友同士なのであろう。
橙子の話し方からして、非常に柔らかく、昔を懐かしむ様な「間」が、ふんだんに盛り込まれている。
だが、橙子が口にしている内容は、極めて物騒である。
第13普通科連隊と言えば、長野県の主要都市の一つ、松本市にある、陸上自衛隊東部方面隊松本駐屯地に駐屯する、主軸部隊の事である。
それを出動させて欲しいと言うあたり、橙子のスケールも大きいが、橙子の依頼を聞いている、この大豆島水澄と言う人物も、そら恐ろしさを感じさせる。
…聞いて水澄。【潜在的覚醒者】が吸血鬼に誘拐、拉致されたの。
名前は土岐玲一…、高槻で養ってる、良い子よ。
何とかして取り戻したいの、だから力を貸して。
今のうちに借りを作っておけば、あなただって、この先やりやすいはず。
治安出動が無理なのは承知している、でも、中央情報隊主導の小規模即応展開作戦であるなら、
松本から小隊ぐらいは出してくれるでしょ?
お願い水澄、あなたが頼りなの!
肩をがっくりと落とし、ショック状態で鬱ぎ込むこよみ。
彼女の背中をさすり、こよみを勇気付けながら、遠くから姉の姿を、心配そうに見詰める紫乃。
(……今にも泣き出しそうな顔で人にすがる姿、こんな弱々しい姉の姿など、初めて見た……)
姉の姿を映す紫乃の眼は、そう言っていた




