6回目
「どうぞ」
きれいに皮を剥かれたりんごの六分の一切れがフォークに突き刺されて目の前に差し出されている。
「サンキュ」
受け取った八重垣が、りんごを一口かじった。
「おいしいですか?」
口角を引き上げて笑う目尻の心持ち下がった白皙は、とてもよく見知った相手である。しかし、深いトーンの落ち着いた物言いと、それにふさわしい優美優雅な挙措とが、八重垣の知る彼となかなか一致しない。
(これで、年相応なんかもしれないけどな………)
いや、二十代で、日常生活で優美とか優雅とかの形容詞が似合う男というのは珍しすぎるとは思うが。まぁ、割合としては少ないにちがいないが、皆無じゃないだろう。そう無言のうちに言い聞かせるのだが、認識はいっこうに改まらない。
(なんかなぁ………)
にっぱりと笑って懐いてくる、幼いイメージが頭の中に固着しているのだから仕方はないだろう。
背中に当てられたクッションに、傷を刺激しないようにと注意深くもたれて長い溜息をついた。
「疲れましたか?」
「え? あ? ちょっとだけ」
「じゃあ、横になるといいですよ」
はい――と目の前に差し出された手に小首を傾げると、
「りんごです。食べてから、横になります?」
「も、いいです」
ごちそうさまとフォークつきのりんごを手渡せば、
「!!」
半分以上残っていたりんごを、捨てずに、食べたのだ。
「みっ、みことっ!」
「はい?」
「おまえ……それ、食べかけ」
「もったいないでしょう」
へろんと、なんでもないことのように尊は言ってのけた。そうなると、気にするほうが変な気がしてくる。
「あ……そ。…………って!」
何気に額に当ててしまった腕が傷にさわり痛みに鋭く叫ぶ。
「大事ではありませんでしたけど、縫っているんですからね」
あきれた口調でたしなめられては、気をつけます――と、返すよりない。
八重垣は目を閉じ、痛みが去るのを待った。
見舞いの花と果物の香が、甘く鼻腔を満たす。
都内の私立病院の特別室に、八重垣は入院している。
思ったよりも深く切れていた額の傷と捻挫が、理由だ。なにより、叶の感謝の心尽くしが、あちこちに現われていた。
あの事故から、三日が過ぎている。
尊の記憶障害は、嘘のような話だが、八重垣の事故をきっかけに完治した。それが、叶にとって八重垣大和を、息子気に入りの遊び相手から息子と自分の命を救ってくれた特別な人間へとランクアップさせたのだった。
記憶を取り戻した尊は、八重垣のことを忘れてはいなかった。それは、叶に、母親としてある種の危惧を抱かせた。漠然としたものだったが、尊の八重垣に対する態度を見れば、“ビンゴ”な気がしてならない。
それは、尊が退行していた間わざわざ八重垣のベッドで一緒に寝ていたせいでもある。あの時はつい取り越し苦労のせいで、八重垣にきつく当たってしまった。しかし、ショウの間宿泊していたホテルでも同様だったことを知った時、叶は尊の八重垣に対する態度にこそ問題があるのだと認識を新たにしたのだった。
退行する以前の尊は万遍ない人当たりの良さで他人に自分の領域にまで踏み込ませない、ある意味鉄壁の防御を周りに張り巡らせていたものだ。それが、記憶を取り戻した途端の八重垣に対するあの態度―――である。
(やわらかいよね、雰囲気が)
警鐘を鳴らすのは、母性の部分だ。
にっこりと微笑み八重垣の食べ残しのりんごを食べてしまった息子を見て、叶は開けかけていたドアを静かに閉めた。
(取り越し苦労じゃないようね………)
しかし、世界規模でトップクラスのイリュージョニストの座を長年占めている叶である。なによりも思考が柔軟でなければ勤まらない。
(ま、わたしは尊が幸せなら、それでいいんだけど。さて………)
どう考えても、尊の幸せイコール八重垣大和の幸せとはならないような気がしてならないのだ。
(ケ・セラ・セラ……なるようになるか、な。やっぱり)
もう一度ゆっくりとドアをノックして、叶は病室に入った。
尊が叶に気づき、立てた人差し指を口の前に立てた。その穏やかな表情に叶は微笑み返した。
(でも……やっぱり、わたしは、尊を応援するけど)
いつの間にか眠ってしまったらしい八重垣を見下ろして、母と子は、共犯者の笑みをひそやかに交し合ったのだ。
できれば一回番外編をアップしようかな。




